真実しか語れない科学、虚構も語れる論理
2020.05.12 Tuesday
現代社会は「科学的である」事が重視される社会だ。
様々な社会問題を論じる時、
識者と呼ばれる人々は「科学的には・・・」というような枕詞で、自説を披露する。
それを聞く人々も、「科学的か?」を基準に、主張の正誤を判断する。
このように社会のあらゆる場面で、「科学的」という言葉が飛び交い、
多くの人々は自分が科学的思考をしていると思っている。
では、「科学的」とは何であろうか?
何が科学的で、何が科学的ではないのか?
実は多くの人々は理解していないのではないだろうか?
例えば、「幽霊は存在する」と言う主張を聞くと、
殆どの人は「非科学的だ」と思うだろう。
だが、幽霊の存在を語る事は実はとても科学的だ。
幽霊の存在を「非科学的」と考える思考は、「論理的思考」だ。
「科学的思考」と「論理的思考」は対立する言葉ではないが、
似て非なるものである。
実は今の日本社会は「科学的思考」を重視しているのではなく、
「論理的思考」を絶対視する社会だと私は思う。
「論理的思考」から導き出した答えを「科学的な答え」と取り違える事は、
様々な弊害を社会に与えている。
その弊害が最大限に発揮されているのが、目下のコロナ禍と呼ばれる状況だ。
例えば、新型コロナの感染者を抑える為の基本方針として掲げられている「三密」。
「密閉、密集、密接を避ける」というこの方針は、
論理的ではあっても、既に科学的ではない。
しかし、政府も国民も「三密」が科学的に正しい対策だと思い込み、
それを前提として、外出自粛や営業自粛を呼びかけ、
経済活動に大きなブレーキをかけている。
新型コロナに対応策としての「三密」は、科学的には既にほぼ否定されている。
驚くべき事に、本来科学者に属する筈の
「感染症の専門家」「医師」と呼ばれる人の多くも、
「科学的思考」を全くしていない。
つまり、彼ら彼女らは「医師」という職業に就いてはいるが、
「科学者ではない」のだ。
そんな者達が、専門家会議のメンバーとして政府に提言を行い、
その提言を科学的だと思い込み、様々な政策が決定される。
日本人の歴史を紐解くと、科学的思考に長けた民族だったと私は思う。
江戸時代、日本では数学が飛躍的に進歩し、西洋の数学と肩を並べる。
この日本独自の数学を「和算」と言うが、
庶民は和算を娯楽のように楽しんでいた。
こういったベースがあったからこそ、
幕末期に西洋で生まれた様々な科学技術を、
驚くほどの短時間で日本人は自分たちのものにすることができた。
幕末に初めて蒸気機関で動く船舶に触れた日本人は、
僅か60年ほどで、世界最大の戦艦「大和」を完全国産で完成させる。
これは日本人が如何に科学的思考に長けていたかの証明だ。
資源に乏しい日本で、国家の存立と発展を支える柱は「科学技術」だ。
しかし、現代日本人の科学的思考能力は低下の一途を辿っている。
つまり、このままでは日本の発展は見込めないどころか、
その存立すら危ういという事だ。
「科学的思考」とは何か?
何故、日本人は科学的思考力を失いつつあるのか?を論じてみたい。