人はなぜ罪を犯すのか?:後編

2019.08.15 Thursday

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    私は幼い頃、キリスト教系の保育園に通っていた。
    親がクリスチャンだったというわけではなかったので、
    単にその保育園があった場所が丁度良かったという理由だけだ。

     

    この保育園では、聖書を土台とした教育を行っており、
    毎日の様に聖書を読み聞かせ、賛美歌を歌わせていた。
    この頃の記憶は殆ど無いが、1つだけ今でも強く印象に残っている思いがある。

     

    それは、「どうして人は悪いことをするの?」という疑問だ。
    聖書でエヴァは蛇の誘惑に惑わされて、
    神から食べてはダメだと命令された樹の実を食べる。
    そして、エデンの園から追放されてしまう。
    食べた樹の実は「知恵の実」と呼ばれ、
    それを食べる事で人は善悪を知る事になる。

     

    「何が善いことで、何が悪い事なのか知る事ができるのに、どうして悪い事をするの?」
    旧約聖書に記されている失楽園の話を読んで貰ったとき、
    このような違和感を覚えた印象は今でも強く覚えている。

     

    その疑問の答えをこれまで真剣に考える事は無かったが、
    それでも何十年かの人生を生きていると、自然に見えてくるものがある。
    それは、日々繰り返されている人と人の争いの大きな原因は、「善悪の違い」だ。

     

    「悪を憎む」という一点において、人間は合意できる。
    だが、「何が悪か?」「何が善か?」の認識は、個々の間に大きな隔たりがある。
    ある人が「善」、少なくとも「悪では無い」と認識し行動する事を、
    別の誰かは「悪」と断じ、非難し、時に罰を与えようとする。
    このような認識の違いで、人は時に人を殺すほどの罪を犯す。

     

    そもそも「罪」とは何なのだろうか?
    神から見た罪の定義は聖書に明確に記されている。

     

    罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
    (ヨハネ16:9)

     

    つまり、「不信仰」であり、神を信じないことだと言っている。
    神を信じないとは、「神と異なる思い」を信じることを意味する。
    従って、罪は「神と異なる思い」であり、
    罪を犯すとは、「神と異なる思い」を心に持つことだ。

     

    しかし、伝統的なキリスト教の解釈では、
    罪を犯すことを、神の命令に違反する「行為」として捉えた。
    例え心が「神と異なる思い」を持っていても、
    違反する「行為」を選択しなければ罪は犯していない。こう考えた。
    この考えは現代の日本社会では広く浸透しておえり、
    それは以下の条文に示されているように、憲法レベルで根付いている。

     

    思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
    (日本国憲法第19条)

     

    一方で聖書はこういった考えを否定している。

     

    しかし、わたしはあなたがたに言う。
    だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
    (マタイ5:28)

     

    人は罪を「行為」で捉えるが、神はそうでない。
    違反「行為」に繋がる「思い」を持った時点で、罪を犯したと見なされるのが神だ。
    こういった罪の本質は、実は日本人は国民性レベルで理解していた筈だ。
    だから、我々日本人は結果よりも「精神」を重んじてきた。
    それは、日本の神々は人間に一切の命令をしなかった事に大きく起因しているだろう。

     

    だが、それも今は昔になりつつある。
    誤ったキリスト教の解釈を基にした、西洋文明が社会に深く浸透することで、
    現代日本人も、罪を「行為」で捉えるようになっているだろう。

     

    罪とは「神と異なる思い」を心に持つ事を言う。
    この罪の定義は非常に重要だ。
    この定義の下で聖書が語っているアダムの罪を考えてみよう。

     

     

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