差別は格差を生む
2019.06.24 Monday
「差別は悪であり、無くすべきだ」
このような主張は人類の殆どが同意できる数少ない主張だろう。
しかし、「では、何が差別なのか?」という問いの答えに、
総意と呼べる程に一致できるものはないだろう。
国連では、
「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」
としているが、この定義は単に「不利益を生じさせる行為に注目する」
と言った程度の意味しかない。
差別とは本来、優遇か冷遇かは関係なく、
特定の集団や属性に属する個人に対して特別扱いをする事だ。
だとするなら、全ての人間は何らかの差別意識を数多く抱えているだろう。
ならば、そんな差別意識を抱えた数多くの人間で構成される社会とは、
差別が溢れている社会であると言える。
例えば生活保護や奨学金制度は差別だ。
女性専用車両やレディースデイなども明らかな差別と言える。
だが、これらは「差別だから止めるべきだ」と糾弾されることはない。
結局のところ我々が「悪であり、無くすべきだ」と考える「差別」とは、
「やってはいけない区別」を「差別」と呼称しているに過ぎない。
そして、「何はやって良い区別で、何が悪い区別なのか?」の基準は、
個々の価値観に過ぎず、それ故に総意を得られる事も無い。
「差別がない社会」などと言うものはあり得ず、そんなことを目指す必要すらない。
例えば弱っている人を助けるための差別は必要だろう。
個人の努力によって特権を勝ち取る事は非難されるようなことではない。
人種差別すら、本当に絶対悪なのか私は疑わしく思う。
欧州やアメリカで起こっている移民問題を見ると、
やはり異なる人種が1つの社会で生活するのは今の人類には無理なのではないか?
だから、我々人類は地球上から未だに国家を無くす事ができない。
「やってはいけない区別(差別)」は間違い無く存在する。
しかし、それを決める事は簡単ではなく、長い時間が必要だ。
欧州の奴隷制度は、古代ギリシャに代表される文明の誕生と同時に生まれ、
18世紀末まで続いており、奴隷制度が無くなるまで2000年以上の時間を必要とした。
しかし、そんな奴隷制度がなくなった欧州人が建国したアメリカ合衆国で、
また奴隷制度は復活し、奴隷制度が完全に終わるのは1995年だ。
現代の欧米社会では、「奴隷制度という差別は悪である」という考えは、
殆どの人が同意できる考え方だろうが、これほどの長い時間をかけて同意に至ったのである。
では、古代ギリシャの奴隷制度は悪だったのか?と問われれば、
簡単に悪と断じる事はできない。
歴史を見ると人間社会と奴隷制度は一体化しており、
奴隷制度なくして、これ程のスピードで文明が進歩することは無かっただろう。
また、ユダヤ教やキリスト教など、多くの宗教は奴隷の存在を認めている。
旧約聖書には、当たり前の様に奴隷という存在が記されているし、
その事を「悪」とするような記述も見られない。
こう言ったことから導き出される答えは、
人口が増大し、技術の進歩により機械やコンピュータが誕生することで、
奴隷の必要性が薄くなったから、
「奴隷制度はやってはいけない区別」と同意できたに過ぎないと言う事だ。
地球上に無数に存在する生物種の中で、
根拠のない「格差」が生まれるのは人間だけだ。
格差は人間の脳が生み出した「差別意識」によって生まれる。
だとするなら、格差問題が叫ばれ、実際に格差が広がりつつある日本社会とは、
実は差別が昔よりも蔓延している社会なのではないか?
現代の日本社会では数多くの「○○は差別だから是正すべき」と言う主張は、
実に簡単に受け入れられ、そういった主張に沿った政策が実際に実行されている。
格差は差別意識から生まれるのだから、
本当なら格差は少なくなっているべきなのに、現実は逆になっているのはどういうことだろうか?
答えは明らかだろう、
数多くの「差別を無くせ」という主張は、本当は差別を増長させる主張だということだ。
かつて、日本は先進国の中で最も格差が少ない国だった。
これは、日本には「やってはいけない区別」は殆ど無かったと言う事を意味する。
今の日本社会は差別社会だ。
「無くすべき差別」は間違い無く存在する。
より正確に表現するなら「もう無くしても良い差別」は存在する。
そして、「差別を無くそう」という考えには多くの人は一致できる。
問題は「何がもう無くすべき差別なのか?」を見極める事だ。
とても難しい判断だが、少しでも正しい可能性が高い選択をする為には、
なぜ人間にだけ「差別意識」が生まれるのかを考える事が必要だろう。
「差別」について考えてみたい。