自由の意味とは
2018.11.02 Friday
現代社会で最も大切にされている価値観とは何であろうか?
恐らくそれは「自由」であろう。
日本社会では平成になってから、特に自由が叫ばれてきた。
「多様性のある社会」も、「自由」を大切な価値と考えるから生まれる。
現代日本人が使う「自由」という言葉は、
明治の時代に日本に入ってきた言葉であり、西洋で生まれた考え方だ。
イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルの著書『On Liberty』の訳語として、
「自由」という言葉は定着した。
実際には訳語として使われるずっと前から、「自由」という言葉は存在しており、
「自らに由る」と言う意味で使われていた。
「自ら」は自分の事を指すが、
「由る」とは「ある物事が起こる原因」や「ある物事の手段や方法」といった意味だ。
「不注意に由るミス」や「武力に由る解決」など、
現代でも普通に使われている言葉だろう。
こうして見てみると、現代日本人が使う「自由」と「自らに由る」と言う意味の自由は、
少しニュアンスが違うのが分かる筈だ。
しかし、少なくとも議論に上る際などに語られる「自由」とは、
西洋的な意味(「liberty」や「freedom」)が殆どである。
では、「liberty」や「freedom」とはどんな意味かと言うと、
「制約されない」くらいの意味である。
こうして分解して考えると、「自由に由る」と言う東洋思想からくる「自由」と、
西洋思想からくる「自由」では、かなり意味が違うことが見えてくるだろう。
自由に限らず例えば人権など、日本にはそれまで無かった西洋的考え方が、
明治維新をきっかけに数多く入ってくる。
そして、その多くは国民1人1人がその意味を深く考えることなく浸透している。
敗戦後はその傾向は特に顕著と言えるだろう。
日本的(東洋的)思想は、古くて悪いものだと思い込み、
西洋的な思想を進歩的で素晴らしいものだと考える。
「自由とは何か?」など考える人は少ないだろう。
それなのに、「自由」を強く求める。
実は、自由とは「外から与えることはできないもの」だ。
だから、「自由を求める」というのは本来おかしい。
何故なら、「求める」という行為は「与える」存在があってのみ成立する。
政府に自由に与えて貰おうと思うなら、それは不自由を求めているようなものだ。
自由とは常に「実践」に関わる。
自らの意思で獲得し実践する事が「自由」なのであり、
そうでなければ、むしろ「不自由」なのである。
例えば「言論の自由」は、公に対して自らの考えを表明しようという意思を持ち、
それを「実践」する者に対してのみ存在する。
憲法や政府に「言論の自由」を与えられている“から”言論をするなら、
それは自由とは言えないだろう。
我々日本人はもう少し、「自由」の意味を考えた方が良いだろう。
よく意味も分かっていない「自由」を声高に叫び、
現代日本は、日に日に「不自由」になっている。
一方で「自由」を議論して何かになるだろうか?という問題は存在する。
「自由」について正面から論じる程、話が空虚になる特徴がある。
そもそも、「自由」を勝ち取ってきたとされる人々、
例えばフランス革命の参加者達、大正デモクラシーの参加者達・・・
彼ら彼女らが「自由」について考えていたとは思えない。
革命の根底にあるのは「権力移譲」であり、求めていたのは「権力」だ。
更に、現代社会では誰もがある意味「自由」を強制されている。
そんな現代で、あらためて「自由」を考えることにリアリティは感じられない。
だとしても、現代日本人は「自由とは何か?」について考えた方が良いと私は考える。
「自由」と言う言葉が、単に利己主義を正当化する道具に成り下がりつつあるのが現代日本社会だ。
それ故、我々は現代日本が直面している様々な課題について、
本当はどうすれば良いか内心は分かっているのに、それを実行できないでいる。
未来の世代に課題解決を先送りするだけでなく、
未来に背負わせる負債を更に増加させている。
「自由」について考えることは、そういった流れに歯止めをかける糸口になる筈だ。