サムライジャパンは死んだ
2018.06.29 Friday
サッカーワールドカップで日本代表が2大会ぶりの決勝トーナメント進出を決めた。
グループリーグ突破を決めたのは、勝ち点でも得失点差でも総得点でもなく、
「フェアプレーポイント」というイエローカードの枚数差だった。
そして、このポーランド戦は「サムライジャパン」という言葉が死んだ1戦であり、
サムライへの冒涜ですらある。
ポーランド戦での日本代表の戦い方は、
「結果を出す為には、ルール上許されるなら何をしても良い」
こんな精神に根差した戦い方だった。
確かに、近年の日本社会では会社や学校、政治の場でもこういった考えが広がりつつある。
しかし、本来日本ではこういった考え方は忌み嫌うべきものであった筈であり、
武士道の精神から最も遠い。
サムライは武士道を体現する存在とするなら、
今回の日本代表はサムライなどでは決して無く、卑怯者の集団だ。
もちろん、あのような卑怯なやり方は個々の選手はやりたくなかったであろう。
そのことは、試合後のインタービューでの選手達の表情を見れば明らかで、
誰1人として、喜んでおらずむしろ暗い表情を見せていた。
間違いなく監督からの指示による行為であり、
やっていることは、話題になった日大アメフト部の悪質タックルと変わらないのではないだろうか?
若い選手達が、卑怯な手段を使っても勝てば良いと考えるならまだ理解できる。
そして、若者がそう考えた時、それを諫めるのが指導者の役目だが、
今の日本では指導者側がそういった卑怯な行為を指示する。
そんな指示を受けて育った若い選手達が、いずれ指導者側になったとき、
一体どんな指導者になるだろう?その答えは言うまでもないだろう。
今回の結果に対しては、恐らく日本国内でも賛否両論が分かれるだろう。
そして、「結果が全てだ」と言うような擁護意見が多数を占めるのだろうし、
報道メディアも肯定的な意見で占められるだろう。
報道メディアにとっては、どんな形だろうが勝ち進む方が金になるからだ。
「結果が全てだ」等と言う輩の多くは、
違う場面では、格差をことさら問題視し、弱者救済を訴えるような人種だろう。
そして、結局はこのような人種が格差や貧困を増長し、弱者を生み出すのである。
日本代表が、文字通り「日本人の代表」だとするなら、
今回のサッカー日本代表の戦い方は、現代日本人をまさに代表するものだったのかもしれない。
正義や礼節を重んじ、潔さを善しとする日本人の気質は、
資源もなく異常な程に自然災害が多いこの国を、豊かな先進国に押し上げた原動力だった筈だ。
諸外国の歴史に数多く見られる大量虐殺も殆どなく、
長い歴史の殆どが平和であった理由も、
先祖から受け継いだ日本人の気質が大きく寄与しているだろう。
逆に言うと、今の日本社会の停滞や閉塞感は、
そういった気質が失われつつあることが大きな原因だ。
我々日本人は、もっと危機感を持つべきだろう。
卑怯な戦い方を指示したのは西野監督だが、彼個人の人間性の問題ではない。
悪質タックルを内田監督は指示したのかもしれないが、これも彼個人の人間性の問題ではない。
社会全体が、彼らをそうさせているのである。
今のサッカー日本代表は、日本が抱える様々な問題の縮図のように私には見える。