人はなぜ愚かなのか?6:正しさとはどのように証明するのか

2018.05.28 Monday

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    人はいったんこうと思い込むと、明白な反証を突きつけられても、
    なかなか自分の考えを変えようとはしない。
    証拠を無視して、自分の考えに固執する。

     

    証拠を証拠と認めようとしないと言うような事も頻繁に行うし、
    自分に都合の良いように証拠をねじ曲げて解釈する事すら珍しくない。
    これは「人間の思考の癖」と言って良いものであり、
    人類は歴史上、この思考の癖により何度も大きな間違いを繰り返している。

     

    「モリカケ問題」が、一年以上経っても疑惑として騒がれている理由も、
    この「人間の思考の癖」が大きく影響していると言える。
    安倍総理や政府の関与が無い事を否定する証拠は数多く出されているが、
    多くの人々は、「関与を否定する証拠」と認めようとしない。
    それどころか、「関与を裏付ける証拠」として解釈しようとしている。

     

    自分の考えに固執するのは、非を認めたく無いからかも知れない。
    自分の非を認めることは、例え自分に対してであっても、
    抵抗が大きいものだ。
    特に政治家は、非を認めるくらいなら、どんな苦しい説明だろうと、
    何とか理屈をつけて自分の考えを押し通す方が良いと思っているように見える。
    日本の野党政治家はこう言った理屈を付ける能力に関しては天才的だ。

     

    一方で、人が自分の考えにしがみつくのは面目を保つためだけではない。
    面子や自尊心が絡んでいない場合でも、
    人はいったんこうと思い込むと、
    その思い込みに反する証拠を避けるために多大な労力を費やし、
    そうした証拠を突きつけられても、それに目をつむろうとする。

     

    大企業では、「マーケティング」という名目で多額の費用を費やし、
    様々な調査を行っているが、調査結果を素直に受け止め活用するケースは稀だ。
    調査結果が、企業側の意思決定者の考えを肯定するものなら、
    調査結果やその調査を行ったコンサルタントを賞賛し受け入れるが、
    考えと異なる結果が出た場合は、何かと理由をつけて受け入れようとしない。
    そして、最終的な報告書の内容を都合の良い結果に書き直すようなことすら暗に要求する。
    結局のところ、「マーケティング調査」など最初から必要なかったのである。

     

    現代はインターネットにより多種多様な情報を何処にいても入手することができる。
    示された仮説を検証することは、一昔前に比べて遙かに容易になった。
    本来ならより正しい結論を導き出せる可能性は向上している筈だ。
    にも拘わらず現実はその逆になっていると言って良いだろう。

     

    手にする膨大な情報は「仮説の検証」に使われることはなく、
    「自分の思い込みの強化」に使われることが殆どなのである。
    「大量の情報から検証した」と言う想いは、
    自分の考えが正しいと言う想いをより強固にする。

     

    ネット上では、今この瞬間にも様々なテーマについて、
    個人が自由に意見を述べ、議論が行われている。
    だが、そうした議論を通じて、何らかの合意が得られる事は稀であり、
    殆どの場合、最後は喧嘩のような状態になることが珍しくない。

    個々の思い込みが強化されるだけで、決して自分の考えが変わる事は無く、

    他者の考えを認めることは「負け」と認識されるからだ。

     

    人が誰しも持つ「人間の思考の癖」を知り自覚しない限り、
    「情報化社会」とは、「人をより愚かにする社会」になりかねないのではないだろうか?

     

    ■仮説はどうやって検証すべきか

    仮説を検証する正しい方法とはどんなものだろうか?
    1つの問題を通じて考えてみたい。
    「2,4,6」という数列がある。
    この数字は、あるルールに従って並べたものだ。
    そのルールを当てる事が課題だ。

     

    ルールを当てるために、回答者は仮説を立てて3つの数列を言うことができ、
    出題者はその数列がルールに従ったものであるかを教えてくれる。

     

    この問題では、殆どの人が最初に「10,12,14」といった数列を挙げる。
    そして「その数列はルールに従っている」と言われると、
    次に「100,102,104」等という数列を挙げる。
    つまり、「2ずつ増える3つの偶数」というルールを想定しているわけだ。

     

    そのルールに従っている数列を何組も挙げると、
    毎回「ルールに従っている」と言われるので、自分が考えた仮説に確信を深め、
    「ルールは2ずつ増える3つの偶数」と答えると、
    「違います」と言われる。

     

    回答者は首を傾げ、考えた挙げ句、「偶数ではなくとも2ずつ増える3つの数字」と考え、
    「15,17,19」と言ってみる。
    「それはルールに従っている」と言われ、更に何組か数列を挙げた後、
    今度は間違いないと確信し、「2ずつ増える3つの数字」と言うと、
    またも「違います」と言われる。

     

    2ずつ増えていくか、減っていく3つの数字かもしれないと考えて、
    「11,9,7」と言ってみると「それはルールに従っていない」と言われる。

     

    こうした手順を繰り返して、正しい答えにたどり着く人はごく僅かだ。
    多くの人は最後まで正解が分からずに終わる。
    正解は「小さな順に並んだ3つの数字」だ。
    つまり、「2,90,100」でも良いし、「1,1000,10000」でも良い。

     

    これほど単純なルールであっても、それを突き止めることは難しい。
    なぜ難しいのかと言うと、
    殆どの人は「自分が予想したルールに当てはまる数列を挙げて仮説を検証する」からだ。
    つまり、予想に当てはまらない数列を挙げないのである。

     

    完全に実証される仮説はあり得ない。
    どんな仮説であっても、必ずその仮説に反する例外が現れる。
    自分の立てた仮説が正しい事を確認するには、その仮説の反証を試みる必要がある。
    しかし、多くの人はこうした手続きを取らない。
    これは非常に重要な手続きなのだが、科学者ですら、
    その重要性を理解していない場合が多い。

     

    「○○は健康に害を与える」
    「○○は健康に良い」

     

    「科学的に証明された」と言う触れ込みで、このような台詞を聞くことは多いが、
    その殆どは実は、反証を試みておらず、結果を証明する証拠のみをもって結論づけている。

     

    ある仮説を裏付ける証拠を幾ら集めても、
    必ずその仮説に当てはまらない例外が出てくるとすれば、
    論証可能な仮説など無いということになる。
    「この会議室にある椅子は全て黒い」のように、
    数が限られており、1つずつチェック可能な場合しか命題は成り立たないのである。

     

    但し、仮説の有効性にある程度の信頼をもつことはできる。
    そして、その信頼の度合いは、どの程度厳しくその仮説が反証に耐えたかによって決まる。
    先に挙げた数列のルールを当てる問題で言えば、
    「2ずつ増える3つの数字」というルールを検証するには、
    そのルールに従った数列を挙げるのでは無く、「8,11,17」のように、
    推測したルールに当てはまらない数列を挙げる必要がある。

     

    正解は「小さな順に並んだ3つの数字」なのだから、
    もしも、このような数字を挙げていたら「ルールに従っている」と言われる。
    つまり、自分の推測は間違いだと言うことは直ぐに分かるのである。

     

    ■論理がなくても仮説構築できる人間

    もう1つ同じテーマでの実験を見てみよう。
    被験者にテーブルに並べた4枚のカードを見せる。
    一枚目のカードの表にはアルファベットのA、次のカードにはDが書いてあり、
    三枚目のカードには数字の3、四枚目のカードには7が書かれている。

     

    被験者には、どのカードも片面には数字、
    もう片面にはアルファベットの文字が書いてあると伝えられる。
    そして「片面にAと書かれたカードは、裏面に必ず3と書かれている」
    というルールを確認するには、どのカードを裏返せば良いかと問題を出される。
    多くの被験者はAと書かれたカードと3と書かれたカードを選ぶ。

     

    では、ルールが正しい事を証明するためには、
    どのカードを裏返すのが最も合理的かを検証してみよう。

     

    ・Aのカード
    このカードを選ぶのは正しい。
    裏返してみて3と書かれていなければ、ルールが成り立たない事が直ぐに分かる。
    逆に3と書かれている場合は、ルールが成り立つ可能性はあるが、
    その時点では、まだ確定ではない。

     

    ・Dのカード
    このカードを選ぶ事には意味が無い。
    このカードの裏面にどんな数字が書いてあっても、ルールの成立には関係ない。

     

    ・3のカード
    多くの人はこのカードを選ぶ。
    だが、これは間違いだ。
    3のカードの裏面にどんなアルファベットの文字が書かれてあったとしても、
    ルールが成り立つ可能性がある。
    ルールは「Aのカードの裏面には必ず3と書かれている」というものであり、
    3のカードの裏面にAと書かれているとは限らない。
    従って、3のカードの裏面がAだろうとなかろうと、
    ルールの検証には役に立たないのである。

     

    ・7のカード
    このカードを選ぶ人は殆どいない。
    しかし、ルールの検証において、このカードは決定的な存在だ。
    このカードを裏返して、Aと書いてあったら、ルールは成立しないことになる。
    ルールでは、Aのカードの裏には必ず3と書かれている筈だからだ。

     

    Aのカードを裏返し3と書いてあった。
    7のカードを裏返しA以外のアルファベットが書いてあった。

     

    この2つが成立した時、「Aのカードの裏面には必ず3と書いてある」というルールが、
    成り立つ可能性が最も高い。
    しかし、多くの人はAのカード以外に仮説の検証に意味の無い3のカードを選ぶ。
    それは、「間違っている可能性を検証する」のではなく、
    「正しい事を確認しようとする」からだ。

     

    興味深い事に、「Aのカードの裏面には3と書かれていない」というルールの確認、
    と問題を変えても殆どの人はAと3のカードを選ぶと言う。
    この場合は、この2枚を選ぶのは正しい。
    Aのカードの裏側に3と書いてあればルールは成り立たないし、
    3のカードの裏面がAであっても同様だ。
    つまり、この場合は「間違っている可能性の検証」を行っているのである。

     

    この実験で明らかになるのは、
    実は人は「正しい事の確認」すら考えておらず、
    何となくルールに関係ありそうなカードを選んでいると言うことだ。

     

    ■自分の考えを確認したがる人間

    人間は日常生活の中でも、自分の考えが間違っていることを示す証拠を避けようとする。
    人は自分と同じように自分を見てくれる人達と付き合う傾向があることが分かっている。
    自己評価が高い人は、自分を褒める人達と付き合う。

     

    意外に思うが逆の場合も同様で、
    自己評価が低い人も、自分を軽蔑する人達と付き合いたがる。
    例え悪いイメージであっても、人間は自分の考えが正しい事を確認したがるものなのだ。

     

    自己評価が低い部下に対して、自分が認めている優れている点を幾ら説明しても、
    自己評価を上げることは容易ではない。
    それどころか、評価される事を嫌がることすら珍しくない。

     

    自民党の支持者は、自民党の集会にしか参加せず、
    別の政党の主張を聞いてみようとはしない。
    人々は自分の政治的な立場に近い新聞を購読する。
    朝日新聞の購読者の殆どは、反安部政権、反権力という考えの持ち主だろう。

     

    「放送法」の改正は、保守層と呼ばれる層が特に望んでいる政策だ。
    現状の放送法は新規参入者の登場をほぼ不可能にしており、
    その事が偏向報道を増長する温床になっている、というのが改正を望む根拠だ。

     

    確かにそういった面はあるだろう。
    私も放送法の改正自体には賛成だが、放送法を改正したところで、
    現状から大きく何かが変わることは無いだろうとも思う。
    自身が持つ思考の癖を自覚し、「自分の考えの反証」を積極的に入手しようとしない限り、
    正しい答え、より良い政策を選択することは不可能なのである。

     

    私たち人間は意識しない限り、
    自分の考えを覆すような証拠を避ける。
    そして、そういった証拠を突きつけられても、それを認めまいとする。
    更に証拠をねじ曲げて解釈し、自分の考えを補強するものとみなし、
    自分の記憶の中から引き出す情報も、自分の考えを合う情報に偏る。
    このような癖を持っている生き物なのである。

     

    ■人が持つ高い説明能力

    更に厄介な事に、我々人間は何らかの出来事や現象に「説明をつける」こと非常に長けている。
    ある調査では、人々が話すことの15%は何かを説明しようとする試みだと言う。
    そして、物事の理由付けが非常に上手いため、
    自分の人生で起きた殆どどんな事柄についても、
    自分はなぜそうしたのか事後に理由づけする事ができる。

     

    驚くべき事に赤の他人が行った行動の理由を説明することすら可能だ。
    むしろ、そちらの方が得意とさえ言えるかも知れない。
    毎日の様に情報番組、ワイドショーで垂れ流されるコメンテーターが語る物語はその好例と言えるだろう。
    彼らは上手く辻褄を合わせて物語を作り上げ、そしてその物語に捕らわれる。
    物語を否定する情報が後に出てきても、彼らの語る物語の骨子は基本的に変わらない。

     

    彼らの持つイデオロギーがそうさせている面もあるが、
    そもそも人とはそのような生き物なのである。

     

    結局のところ、人はまず、真実だと言われたことに対して、
    恣意的だが、辻褄のあう説明を考え出し、
    最初に与えられた情報が虚偽だと分かったとしても、その説明に執着する。
    何でも理由付けし、説明してしまうと言う点で、私たちは非常に優秀だ。

     

    その高い説明能力が故に、愚かな判断をすると言っても過言では無いだろう。
    政治家が語るもっともらしい議論を聞けば、
    人間が自分の信念に合うように、いかに巧妙に証拠をねじ曲げるかが分かる。
    自分が作り上げる説明が首尾一貫したものだからこそ、
    人はその説明に縛られてしまう。

     

    ■「正直さ」を美徳とする事による弊害

    特に我々日本人は、その国民性故に1つの物語に捕らわれがちだ。
    日本人は「正直さ」や「真面目さ」を重要視する国民性を有する。
    これ自体は、悪いことでは無くむしろ誇るべきことだろう。
    だが、「正直さ」と「一貫性」を混同する過ちを度々犯す。

     

    過去の説明と異なる説明をすると、それをもって「嘘を付いた」と判断し、
    論点が「嘘をついたかどうか」に集中してしまう。
    「モリカケ問題」を見ればそのことは明らかだろう。
    最早、この2つの問題の論点は「安倍総理が嘘をついたか否か」に成り果てている。

     

    そして、安倍総理、政府は説明能力が高い政治家の中の最高峰なので、
    どんな追求だろうとも辻褄のあうように説明してしまう。
    追求側も自分たちが最初に描いた物語を変える気はないので、
    どんな説明を聞こうとも、どんな情報を得ようとも、「疑惑は深まった」という結論しかない。

    「人の思考の癖」が及ぼす害悪を、これ以上ないくらい表現しているのが今の国会だ。

     

    新しい情報を前にして、考えを改めることは、弱さではない。
    寧ろ強さの証なのである。
    考えを改め、以前と異なる説明をする事は「嘘をついた」わけではない。
    説明を変えることを安易に「嘘をついた」と断じる事は、
    説明者側に無意味な説明を強いる事になり、そこからは何も生まれない。

     

    議論とは「正しい可能性が高い選択」を探すプロセスだ。
    正しい選択は、「それが間違っている可能性」を検証することでのみ導き出される。
    インターネットの登場とその普及は、本来は人類がより賢くなる事を可能にする素晴らしい事だ。
    但し、情報を扱う個人個人が「自分の考えは間違っているかもしれない」という謙虚さを常に持ち、
    反証を受け入れる勇気をまたなければ、愚かさを増長する道具にしかならない。

     

    そして、誰かの意見に異を唱える時、それは自分の正しさを確認するの為ではなく、
    「より良い選択をするため」の反証でなければ意味はないのである。

     

    ・人はなぜ愚かなのか?5:「選択」がもたらす不合理

     

    ・人はなぜ愚かなのか?4:組織のもつ不合理

     

    ・人はなぜ愚かなのか?3:コミュニティに潜む危険性

     

    ・人はなぜ愚かなのか?2:社会的生き物ゆえの愚かさ

     

    ・人はなぜ愚かなのか?1:身近な情報による誤謬

     


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