日本人と民主主義

2018.05.15 Tuesday

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    国民の税金で生活する国会議員にもかかわらず、
    18連休という超大型連休を謳歌していた野党6党が国会審議に復帰した。
    復帰してまずやるのは、相も変わらず「モリカケ問題」であり、
    正常な国会審議の妨害行為である。

     

    今の日本にとって、この野党6党は害悪でしかなく、
    365連休してくれた方が国家国民の為だ。
    休んでも支払われる議員報酬は「民主主義のコスト」と割り切った方が良いだろう。

     

    野党が欠席しても問題が無いとしたら、
    それは、そのまま「国会(議会)が不要」と言うことに繋がる。
    民主主義と言う政治システムに議会の存在は不可分であり、
    議会が不要なら、日本にとって民主主義は不要と言う証左ではないだろうか?

     

    英国の雑誌『エコノミスト』による「民主主義指数2015」によると、
    日本の民主主義の達成度は、総合点が7.96で23位だった。
    1位はノルウェー(9.93)、続いてアイスランド(9.58)、スウェーデン(9.45)と北欧諸国が続く。
    この調査では「総合点が8以上」であれば、「完全な民主主義」と評価される。
    つまり、今の日本は「不完全な民主主義国」に分類される国になったということだ。

     

    日本がスコアを落としている最大の理由は、「国民の政治参加」という評価項目だ。
    低い投票率に現れているように、有権者の政治参加が積極的ではないと評価され、
    総合評価を大きく落とす要因になっている。

     

    これは一見すると、おかしいな結果に感じる。
    例えば日本のTV番組を見てみると、
    各局、所謂ワイドショーと呼ばれる情報番組を、朝から夕方にかけて垂れ流しているが、
    そこで扱われるテーマは、かなりの割合で政治ネタだ。
    TV番組は基本的に視聴者求めるものが提供されるので、
    この現状だけを単純に見ると、「国民の政治的関心は高い」と評価できる筈だ。

     

    しかし、このように評価するのは間違いだ。
    TVや新聞が扱う「政治ネタ」とは、対象者が政治家や官僚というだけであり、
    本質的には芸能ネタと何ら変わりない。
    スキャンダルと政局関連がほぼ全てであり、
    政策など本来の意味での政治が語られる事は殆どないのである。

     

    つまり、視聴者の政治に対する関心は実際には低く、
    下衆な好奇心でしか政治を見ていないと言うことだ。
    TVや新聞は、そんな視聴者や読者の要求に応えているだけであり、
    何を言っても反撃されない政治家や官僚は、
    その欲求を満たす為に都合の良い存在と言うことでしかない。

     

    果たして日本人は民主主義に不向きな国民性なのだろうか?
    民主主義というシステムそのものが、欠陥だらけな政治システムと考えているが、
    その事は一端脇に置いて、今回は「日本人は民主主義に向いているのか?」を考えてみる。

     

     

    ■民主主義の精神を掲げた十七条憲法

    結論から述べると、日本人はその気質から民主主義に向いているかも知れない。
    604年、聖徳太子(厩所王)は「十七条憲法」を提示する。
    第一条は有名な以下の条文だ。

     

    「以和爲貴、無忤爲宗。」

    −和を以て貴しとなし、忤(さから)う事なきを宗とせよ。

     

    このくだりには、さらに以下のような記述がある。

     

    「然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」
    −しかれども、上和(かみやわら)ぎ下睦(しもむつ)びて、
    事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。
    何事か成らざらん

     

    現代の言葉で意訳すると、
    「皆で親和、親睦の気持ちで議論すれば、道理にかない、どんなことも成就する」
    このような意味になる。
    言うまでもなくこれは、民主主義が理想とする精神だ。

     

    つまり、今から1400年以上も前に、日本にはこのような精神があったということだ。
    このような日本の歴史的経緯からも民族的気質からも、
    民主主義は日本人が得意とするシステムだと捉えるも出来る。

     

    ■言論の自由を保障した大日本帝国憲法

    日本の民主主義の始まりは、
    戦後にGHQの指導下で制定された日本国憲法から始まったと捉える見解があるが、
    戦後教育の歪みが生み出した、全くの間違いだ。

     

    明治時代から、日本は民主主義化に向けて様々な改革に取り組んでおり、
    明治後半には、政党が成立し、政治の中心舞台が議会へと徐々に移行している。
    天皇を頂点とする国体ではあったが、
    イギリス的な立憲君主制が充分に機能していた。
    だからこそ、日本は東南アジアのように奴隷的な植民地支配を受けずに、
    第一次世界大戦を経て、5大国の1つに数えられる国家となる。

     

    民主主義の構成要件には、「言論の自由」は重要な要素だ。
    戦後の歪められた教育では、戦前は言論の自由が無かったかのように教えられるが、
    明治22年に制定された大日本帝国憲法には、
    言論や宗教の自由を保障した条文が既に存在していた。

     

    「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」
    −日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、
    信教の自由を有する。
    (大日本帝国憲法第28条)

     

    「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」
    −日本国民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する。
    (大日本帝国憲法第29条)

     

    現に、大東亜戦争に突入する時期ですら、
    戦争に反対する言論は新聞や雑誌で、ごく普通に掲載されていた。
    確かに総力戦に突入するにつれ、こういった言論は制限されていくが、
    それは当然の事である。

     

    仮に現代日本が、あの戦争のような総力戦を行ったとするなら、
    やはり同じように反戦的な言論は制限されることになるだろう。
    その時のルールに則り、国家として決定された戦争を、
    総力を挙げて遂行しなければならない時、
    「戦争反対」などと言うような言論は、団結を乱し勝利を阻害する要因になる。
    「言論の自由」などは、結局は平和時にしか保障されないものなのである。

     

    ■天皇の存在が実現した”穏便な近代化革命”

    歴史上、日本はヨーロッパのような流血を伴う市民革命を経験していない。
    日本の近代革命(明治維新)は世界的に見るとかなり特殊だ。
    この事は、もっと教育で教えるべきだろう。

     

    明治維新はブルジョア市民によって起こされたものではなく、
    特権階級である武士によって起こされたものだ。
    江戸時代には後の財閥へと発展する大商人や町人達が存在していたが、
    彼らには革命を主導する動機も、力もなかった。

     

    革命を主導したのは、薩摩藩、長州藩といった中央政治(江戸)から離れた、
    遠隔地の武士達であった。
    ヨーロッパで言うところの「王」に相当するのが将軍であったが、
    徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜は、
    薩摩、長州といった革命勢力に力で対抗し続けることはせず、
    時流を悟り、政権を天皇に返還した。
    これが所謂「大政奉還」だ。

     

    革命によって幕府を倒した薩摩、長州は、自らの手で既得権益を解体し、
    特権階級であった武士と言う地位そのものを捨て、改革を断行する。

     

    例えば「廃藩置県」は、自らの拠り所であった藩を解体し、
    藩が所有する軍事力を新政府に統合した意味において、非常に重要な改革だ。
    明治維新以前の軍とは、各藩の領主(大名)の為の軍であったが、
    これを国家公民の為の「公軍」としたのである。

     

    フランス革命に代表されるヨーロッパの市民革命では、
    国王をはじめ、多くの特権階級は処刑されている。
    有名な「ギロチン」とは、日々の大量処刑を効率的に執行する為に生まれたものだ。
    ヨーロッパの市民革命は、例外なく血なまぐさい暴力が付いてまわる。
    それに比べると、日本の近代革命は大量処刑などなく穏便に進められた。
    その背景には天皇の存在は大きいだろう。

     

    天皇の地位は将軍よりも格上であり、
    そもそも征夷大将軍という位は、形式上、天皇から与えられるものだ。
    だから、徳川慶喜は自らの体面を失うこと無く政権から退くことができた。
    「天皇から預かった政権を返上する」という建前が成立するのである。

     

    もしも、約270年続いた徳川将軍家が、
    薩摩・長州という辺境の家臣に屈服したという恥辱まみれるなら、
    死力を尽くして革命軍と戦っただろう。
    そもそも、天皇がいなければ薩摩・長州には大義名分もなく、
    単なる反乱軍となってしまう。

     

    廃藩置県を穏便に進められたロジックも、大政奉還と同じだ。
    藩主達の持つ各藩の統治権も、徳川幕府を介して間接的に天皇から与えられたものであり、
    それを天皇に返すという建前を成立させることができたのである。

     

    武士道の精神の1つである忠義に従うなら、天皇の大命に逆らうことはできない。
    だからこそ、封建社会の実質的な実力者であった藩主の殆どは潔く身を引いた。
    「潔さ」とは、ヨーロッパの特権階級には見られない精神であり、
    ギロチンで処刑された多くの貴族達も、最期まで悪態をつき、暴言を吐きながら抵抗した。

     

    天皇という権威、武士道という精神が、
    最小の流血で迅速に近代革命を進めることが出来た大きな理由と言えるだろう。

     

    ■民衆の政治的成熟を願った大久保利通

    この日本の近代革命は、ヨーロッパの視点で見れば、
    王政復古の封建社会への逆行に映ったかもしれない。
    しかし、明治政府は天皇の独裁体制を敷いたわけではなく、
    天皇を頂く立憲君主制を敷いた。
    天皇の権限を抑えながら、内閣や議会との調和を図るバランスのとれた政治体制に移行する。

     

    ヨーロッパでは、革命後、革命者たちが権力闘争に明け暮れ、
    社会が大混乱するというパターンが殆どだった。
    そんな中、フランスでは市民革命を成し遂げながら、
    皇帝ナポレオンのような専制君主を擁立する事態を招いたりもしている。
    近年も「アラブの春」と呼ばれる民主化革命が北アフリカや中東で起こったが、
    革命後、社会は大混乱に陥り、結局は軍の独裁政治などに陥っている。
    日本以外で起きた近代革命とは、革命にも血が流れ、革命後も多くの血が流れたのである。

     

    日本の場合も西南の役のような混乱は起こったが、その混乱は最小限にとどめられた。
    1873年、大久保利通は内務省を編成し、自ら初代内務卿に就任し、権力を一手にする。
    板垣退助や江藤新平は、内務省の独裁に反発し議会創設を求めるが、
    大久保は、「国民は政治を議論することができる程、未だ成熟していない」
    として認めなかった。

     

    1873年、『立憲政体に対する意見書』の中で、大久保は次の様に言っている。

     

    「民主未だ以て取る可からず。君主も亦、未だ以て捨つ可からず。」

     

    民主政治は、未だに採用することはできないし、
    エリート的君主政府を捨てることもできない、このような意味だ。
    そして、大久保は日本を取り巻く現状が流動的であることを指摘し、
    焦って、民主政治か君主政治かを決める必要はない、とも述べている。

     

    大久保は政治エリートや民衆のそれぞれの役割、権限を抑制的に捉え、
    両者が公正な態度で共存・協調していく、
    「君民共治」の立憲君主主義が、当時の日本にとって最も相応しい政治体制だと考えていた。
    私は、今の日本においても、こういった体制が相応しいと思う。

     

    大久保は、一般民衆を愚民扱いする反民主主義というイメージもあるが、
    彼の政策の1つ1つを見ると、国民の成熟や政治への参加を願う意識が読み取れる。

     

    民衆の隅々にまで富が行き渡るような累進的な税制を打ち出し、
    企業への細やかな助成の仕組みを考案している。
    そして何よりも、教育政策に力を入れている。
    大久保は、身分の差なく、あまねく国民の子弟に教育を受けさせる事を目的とし、
    「学制」という統一的な教育制度を施行している。

     

    大久保利通は1878年(明治11年)に、改革に反対する士族によって暗殺されてしまうが、
    翌年には、各都道府県で地方議会が発足している。
    満20歳以上の男子に選挙権を与え、地方議会の議員を選出させる。
    この案を進めていたのが大久保だった。
    身近な地方政治から、国民の政治参加を徐々に促そうと考えていたのである。

     

    ■伊藤博文が行った「第二の維新」

    日本にとって大久保利通のような革命家が居たことはこの上ない幸せだった。
    大久保利通は1878年(明治11年)に、改革に反対する士族によって暗殺されてしまうが、
    彼の意志は伊藤博文に引き継がれる。

     

    1889年、大日本帝国憲法が発布され、その翌年には帝国議会(国会)が開かれる。
    当初、帝国議会は名ばかりの存在であり、実質的には内閣、官僚が権限を有していた。
    さらにこの時の内閣・政府は、薩摩・長州など維新の功労者で独占され、
    所謂「藩閥政治」と呼ばれる、エリート政治を展開した。

     

    1895年、日本は日清戦争に勝利し、この日本初の大規模な対外戦争を通じて
    国民が一致団結し、明治政府の基盤が固まることになる。
    勝利の結果、手にした多額の賠償金を基に、殖産興業が進み、
    経済が飛躍的に発展、広く国民一般の中産階級が成長する。
    これら中産階級はヨーロッパでいるブルジョア市民階級に匹敵するものだ。

     

    伊藤博文は、こうした状況の変化を踏まえて、議会との協調路線を打ち出す。
    1900年、立憲政友会(民衆代表の政党)を旗揚げして、
    藩閥政府の独裁を解体しようとする。

     

    このような新しい動きに対して、元老たちは反発する。
    しかし、伊藤はこうした守旧派の抵抗を押し切り、侯爵の地位を返上して、
    政党の結成へと突き進む。
    このような伊藤の行動は政党政治への道を開き、
    国民の政治参加を可能とした、革新的な出来事であり、
    「第二の維新」と言っても良いだろう。

     

    政府は独裁的な政治運営を止め、議会・民党と連携・協調していくようになる。
    その結果、中産階級の支持を得ることに成功し、
    広く国民経済に資する産業政策、金融政策、税制体制などを整備していく。

     

    時流に応じて改革を進めていこうとする指導者の優れたバランス感覚が、
    明治時代の日本政治の特徴であり、急成長を実現した原動力だった。

     

    立憲政友会には伊藤の他に、公家出身の西園寺公望が加わり、
    西園寺は、伊藤の後を継ぎ、政友会の総裁になる。
    伊藤は藩閥でもなく、市民階級でもない公家を後任とし、
    どちらにも偏らない巧みなバランス感覚を発揮し、
    各勢力の権力配分に考慮した挙党一致体制を実現する。

     

    一方、薩長藩閥政治家たちの役割も重要だった。
    1901年以降、長州藩出身の桂太郎が中心となり、
    藩閥勢力は官僚や軍に強い影響力を持ち、統率のとれた近代国家機能の担い手となる。

     

    以後、藩閥代表の桂太郎と、民党の代表である西園寺公望の2人が交互に首相となる。
    そして、官僚や軍と、中産市民階級の利害を調整しながら互いに協力しあい、
    安定した政権運営を行う事になる。
    この体制は「桂園体制」と呼ばれ、10年以上続くことになる。

     

    これが本来の「二大政党制」の在り方だろう。
    今の与野党がやっていることは、単なる「権力闘争」に過ぎない。

     

    ■大正デモクラシーで完成する日本型民主主義の「原型」

    日露戦争後、日本の資本主義の発展が更に進み、市民階級が成長していく。
    それと連動して「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義運動が本格化する。

     

    尾崎行雄や犬養毅らが中心となり、
    1912年(大正元年)、「閥族打破、憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開される。
    この運動の盛り上がりの中、藩閥派の桂内閣は総辞職に追い込まれる。

     

    1918年、原敬内閣が成立する。
    それまで総理大臣は、元老や重臣会議が特定の人物を天皇に推挙し、
    天皇がその人物を任命していたが、
    原敬は選挙で選ばれた多数党の立憲政友会の党首だった。
    原内閣は民意を背景とした初の政党内閣だったのである。

     

    しかし、平民宰相と呼ばれた原も、普通選挙に対しては時期尚早として消極的であり、
    普通選挙運動が「階級制度打破」を掲げる労働運動・共産主義運動と結びつくことを特に警戒した。

     

    原内閣から4年後の1925年、加藤高明内閣により、
    ようやくアジア初の普通選挙法が制定される。
    納税額によって制限される制限選挙を止めて、
    満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられる。

     

    このように、明治維新から57年という年月をかけて、
    市民階級の成長と共に、民主主義は緩やかに進められていったのある。
    日本の民主主義化は政治エリートによって進められたもので、
    民衆によって進められたものではない。
    民衆は政治エリートを信じて、協調した。
    この歩みこそが日本の民主主義の原型なのである。

     

    ■未熟な国民が招いた敗戦

    ところが、普通選挙法が施行され民衆に参政権や政治的発言権が与えられると、
    その原型が崩れ始める。
    民衆は迎合的な政治を選好し、
    その結果、選挙で選ばれる政治家の質は昭和時代以降、急激に劣化する。
    勿論、この劣化は現在進行形でより進んでいることは言うまでもない。

     

    民衆に迎合した政治家は、維新の元勲達がもっていたような優れたバランス感覚を持たず、
    偏った世論の形成と共に政治は歪んでいった。
    その結果が、最悪の形となって現れたの1945年8月15日の敗戦だ。
    日本を破滅に導いたのは、当時の政治指導者を生み出した民衆であり、
    軍部の暴走を歓迎し、過激な世論に走ったのは民衆自身なのである。

     

    維新の元勲や大正時代の政治は、この上なく順調で成功したものだった。
    しかしその後、維新時代の「原型」から脱却し、
    国民自ら政治をコントロールし始めた途端、破滅を招くことになったのである。

     

    原敬は、普通選挙法の制定を度々請われ、期待されたが、
    頑なに「時期尚早である」と拒否し続けていた。
    やはり、彼の見極めは正しかったと言うべきであろう。

     

    ■戦後、我々は成熟したのか?

    大東亜戦争後、焼け野原から再出発した日本は、
    GHQが指導して作成された新しい日本国憲法を受け入れる。
    民衆は絶望の中で経済発展という光明を見出し、
    政治の目標も、経済成長に置かれた。

     

    1950年代の高度経済成長期から、1990年代のバブル崩壊まで、
    政治よりも経済が優先され、戦前の政治の失敗をしっかりと総括しないまま、
    民主主義や政治とまともに向き合うことを避け続けてきた。
    こうして我々は現代に至っているのである。

     

    100年前、原敬は普通選挙法による民主主義への移行を「時期尚早」とした。
    そして、その見極めは恐らく正しかった。
    100年経った今の我々は、原敬が「時期尚早」と評価した頃の日本人に比べて政治的に成熟しただろうか?
    私には何も変わっていないどころか、退化しているとさえ思われる。

     

    義務教育の過程で、上述したような日本の民主主義辿った経緯を教えることはない。
    単に「何年何月に何があったか」を覚えさせるだけだ。
    日本国憲法は、国民が望んで作られたものでもなく、
    大日本帝国憲法のように、日本の政治エリートが望んだものですらない。

     

    ある日突然、男女問わず全ての成人に選挙権が与えられた。
    ある日突然、「基本的人権」の名の下に様々な権利が与えられた。
    ある日突然、主権者は天皇陛下から日本国民に移譲された。

     

    政治とは言論だ。
    しかし、日本人は政治を議論することは避ける。
    また、選挙で政治家を選ぶ際、候補者の言論に耳を傾けず、
    情緒的なイメージを判断の基準とする。

     

    パフォーマンス政治が先行し、「改革」というイメージだけでその中身を検証せず、
    多くの民衆は安易に追随する。
    そして、自分たちが選んだ政治家を簡単に引きずり下ろそうとする。

     

    政治的に成熟していない民衆だから、「改革」イメージの詐欺的手法に簡単に引っかかる。
    そして簡単に扇動されてしまう。
    戦前、「真の愛国」と「偽の愛国」を民衆は見極めることが出来なかった。
    その結果があの敗戦だ。

     

    政治の判断や見極めは高度なものであり、一般民衆の能力を超えている。
    訓練や経験を積んだ政治エリートですら度々間違える。
    政治の見極めはそれほど難しいことなのだが、
    昨今、それが簡単にできると勘違いしている民衆が急増していると言えるだろう。
    浅はかな思慮を振りかざし、無責任に白黒を断定し、
    自らの下した断定を正義として、これに自己陶酔する。

     

    確かに我々は100年前に比べて、遙かに多くの情報を手にすることができる。
    2000年代以降は、インターネットの普及に後押しされ爆発的に増えている。
    しかし、情報量が多くなったからといって思慮が深まったとは言えない。
    謙虚で真摯な気持ちもなく、歴史も学ばない者にいくら情報を与えたところで、
    愚かさに磨きがかかるだけなのではないだろうか?

     

    ■全ての元凶は「人間性の低俗」

    日本人は、100年前の原敬の時代から、政治上、本質的に何も進化していない。
    これは歴史的経緯を見ると良くわかることだ。
    現代を生きる日本人は、豊富な情報を獲得したが、
    その結果、政治に対して万能感を抱き、自分たちが進化したと感じている。
    しかし、それは錯覚に過ぎない。

     

    明治の時代、列強のアジア進出に日本も晒され、
    一歩間違えれば植民地にされ、日本人全員が白人の奴隷になる可能性が常に存在し、
    日本の政治はこれ以上ない緊張感をもって運営されてきた。
    難しい政治判断を政治エリート達が担い、国民は、それを節度を持って見守ってきた。

     

    明治・大正時代の殆どの期間、日本国民には選挙権は無かった。
    しかし、国民は政治エリート達を信頼していた。
    「信頼していた」と言うより、「己の力量を自覚していた」が正しいかもしれない。

     

    翻って現代日本はどうか?
    我々は選挙権を有しながら、半分以上の有権者は選挙に行かない。
    その癖、政治家をバカ呼ばわりし、政治を罵ることに精を出す。
    政治と国民のほどよい距離感はなく、政治に信頼がない。
    政治家も悪いが、無責任で高慢な有権者が全ての元凶だ。

     

    我々現在の日本人は、日本の民主主義の原型の中にあった、
    当時の日本国民の節度ある姿勢を見習うべきだ。
    我々一般民衆が、分からないものは分からないと素直に認め、
    可能なところから政治を検証しようとする努力を積み重ねるべきだ。

     

    今の日本の政治の問題は、
    汚職や賄賂、権力濫用などの不法や悪に端を発しているのではない。
    「民衆の傲慢」と「政治家の卑俗」と言ったような、
    “人間性の低俗”に端を発しているように思う。

     

    ■日本人は人格を取り戻せるか?

    かつて「礼節」や「礼儀」は、日本人なら誰でも大切だと教えられた精神だ。
    だから、日本は「礼節や礼儀を重んじる国」とかつては呼ばれていた。
    これは、日本人が「人格者」であったと捉えることが出来る。

     

    健全な民主主義は、「人格者」によって運営される。
    権利を行使する義務とは納税や勤労ではなく、「人格者であること」だ。

     

    一国の総理大臣を呼び捨てにし、暴言と言っても良い言葉で批判する行為は、
    礼節や礼儀がない行動だ。
    政治家や公務員に対して「税金で飯を喰わせている」などと考えることもまた、
    礼節や礼儀を知らない、高慢な考え方だ。

     

    礼節や礼儀を重んじ、謙虚に節度ある姿勢を美徳としていたかつての日本人は、
    「人格者」と言って良い存在だった。
    だから、人格者を前提とする民主主義とは、本来は日本人に向いている仕組みの筈だ。

     

    今、我々が直面している政治課題は、
    「日本人は人格を取り戻せるか?」を問われているのである。

     


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