国民の無責任を許してくれた安倍政権

2020.09.01 Tuesday

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    2020年8月28日、安倍晋三内閣総理大臣が辞任を発表した。
    辞任の理由は、持病の「潰瘍性大腸炎」の悪化だった。
    これにより、在任期間7年8ヶ月という明治以降で最長の政権が終わりを迎える。
     

    これだけの長期に渡り、日本の為に働いてくれた安倍総理に、
    まずは、「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えたい。

     

    安倍政権の評価は人によって様々だろうが、
    私は間違い無く、戦後最も偉大な総理大臣だったと思う。
    とは言っても、出来なかった事や失政の方が多かった。
    しかし、これは選挙を基盤とした民主主義を採用している限り、致し方ない事だ。

     

    所詮、民主主義とは「糞の中から、少しでもマシな糞を選ぶ制度」に過ぎない。
    2009年9月16日、我々は民主党政権と言う「最悪の糞」を選んでしまった。

     

    民主党政権末期の2012年、日経平均株価は8,500円にまで下落した。
    安倍政権は、これを24,000円程度まで回復させる。
    2012年の自殺者は27,858人だったが、2019年は20,169人だった。
    完全失業率は4.3%から2.4%へ改善。
    有効求人倍率は0.8から1.6へと向上した。

     

    株価の下落も、失業率、有効求人倍率の悪化も、我々の日々の生活に直結する。
    民主党政権下で多くの日本国民は間違い無く不幸になった。

     

    しかし、これらは全て日本国民の責任と言える。
    それが、民主主義と言う制度だ。

     

    極論すれば、民主主義は国民を幸せにするものでは無い。
    国民を害する権利は、国民にしかない。
    民主党政権のような政権を生み出したのは、
    確かに国民自身で、他人を責めようがない。

     

    一方、専制政治の問題とは、国民が政治の失敗を他人のせいにできる。
    この点に尽きると言えるだろう。
    民主政治も専制政治も人間が行う事なので、名君も暴君も生まれる。
    専制政治の名君による善政と、民主主義の善政を比べるなら、
    前者の方が優れているだろう。
    だが、聡明な君主の出現は極めて稀だ。
    故に「最悪の民主主義」は「最良の君主政治」に勝ると考えられている。

     

    だが、この最悪の民主主義において辛うじて残ると考えられているこの美点自体、
    あまりにもお花畑な見通しと言えるだろう。
    それは、安倍政権の7年8ヶ月を見ても明らかだ。
    メディアの反政府的な偏向報道に煽られ、
    国民は政治の失敗を常に他人のせいにし続けてきた。

     

    安倍政権は偉大な政権ではあったが、
    功罪を比べるなら、罪の部分の方が多かっただろう。
    だが、それは国民の責任に対して無理解だからでは無いだろうか?
    安倍政権の終わりを契機に、我々国民に逃れがたく迫る責任について考えてみたい。

     

    ■君主制の方が他人のせいにしない

    日本では、戦後、とりわけ平成になってからは、常に国民は政府に批判的だ。
    我々が直接選挙で選出している政治家は、
    世論調査をすると「最も信頼できない公務員」という結果が常に出る。

     

    これは総理、与党のせいだ、いや野党が足を引っ張るからだ。
    とにかく政治家が悪い云々といった、
    こういった言葉は実はむしろ民主主義社会だからこそ聞く事のできる声だ。

     

    実は君主制の国家ほど「国民は政治の失敗を他人のせいに」しない。
    この事は、我が国を見るとよく分かる。
    我が国には、現在でも天皇という君主が存在する。
    そして、総理大臣は天皇が認証し、全ての法律は天皇の名で公布される。
    しかし、政治家の失政に対して天皇の責任を糾弾する声は皆無だ。

     

    これは、現行の日本国憲法が国政に対して天皇が影響力を行使することを禁じているからだろうか?
    1945年夏の敗戦時、天皇の戦争責任を問う声は殆ど無かった。
    大日本帝国憲法では、天皇の政治的な影響力は今より遙かに大きかったにも拘わらずにだ。

     

    日本と同様に立憲君主制を採用しているイギリスでも、
    政府の失政に対して、王室の責任を問う声は殆ど聞かれない。
    そもそも、政治の失敗を誰かのせいにするという意識自体、
    君主制の人民には希薄なのである。

     

    ■なぜ民主制は他人のせいにするのか?

    何故、民主制では国民は誰かのせいにしようとするのだろうか?
    その大きな理由は「納得できない」からだ。

     

    「あなた方が選挙で選んだのです、だからあなた方の責任です」
    この単純明快な理論は、実際の運用に綺麗に当てはまる事は無い。

     

    例えば政治家が美辞麗句を並べて、国民を騙して権力を手に入れたとする。
    民主党政権が誕生した2009年8月30日の総選挙は、
    まさにそういった選挙だった。

     

    最早覚えている人は少ないだろうが、
    民主党政権が掲げた公約を振り返ってみる。

     

    第一に「無駄の撲滅」を掲げ、
    国の予算を組み換えて、“増税無しに”約17兆円の財源を生み出すとした。
    議員の世襲と企業団体献金も禁止し、衆院定数の80削減を掲げた。

     

    第二に中学卒業まで、一人当たり年312,000円の「子ども手当」の支給と、
    高校の実質無償化、大学に対しては奨学金の大幅な拡充を掲げた。

     

    第三に年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金の実現、
    後期高齢者医療制は廃止、医師の数を1.5倍にする事を掲げた。

     

    第四に「地方分権」を進め、地方の自主財源を大幅に増やす事を掲げた。
    農家の戸別所得保障、高速道路の無料化、郵政事業の抜本的見直しで、
    地方を活性化するとした。

     

    最後に、中小企業の法人税率を11%に引き下げ、
    月額10万円の手当つき職業訓練制度により、求職者を支援する事を掲げた。

     

    驚くべく事に、これらの公約はほぼ全て実現しなかった。
    それどころか、「絶対にやらない」と言っていた増税は実施した。
    安倍政権下で、消費税は2度増税されたが、
    これは民主党政権で決定され、立法されたことだ。

     

    こういった公約を信じ、民主党の候補者に一票を投じた国民のせいにするのは、
    「詐欺師に騙されるのは被害者の責任」と言うに等しいと感じるだろう。

     

    また、国民の前に提示された候補者が誰も不満足な代物で、
    誰が首相になっても次善の策にすらなり得ないと思えたとする場合はどうだろうか?

     

    安倍政権の約8年間で衆参合わせて6回の国政選挙が実施され、
    何れの選挙でも与党自民党は圧勝した。
    しかし、自民党候補者に一票を投じた決して少なくない数の有権者は、
    まさに、野党が次善の策にもならないと思えただろう。

     

    この場合、「では、あなたが出馬しろ」といった反論があるが、
    これは一個人が出馬する労力を軽視した無茶な言い分に感じるだろう。

     

    一個人にとっての政治参加が投票とデモ活動がせいぜいなのが今の日本であり、
    果たして国民はどれだけその政治に対しての責任を実感できるだろうか?

     

    このように「国民が選出したのだから国民の責任である」という論理は、
    いくらでも反論を試みる事ができる。
    このように我々はいくらでも民主主義社会における責任から逃れる事ができる。

     

    ■他人のせいには「できない」民主主義社会

    但し、「責任から逃れる事ができる」と言っても、
    それはあくまで自己の気持ちの問題に過ぎないと言える。

     

    国民は確かに他人のせいにするが、民主主義社会ではどれだけ政治家を責め立てても、
    究極的にはその政治家を選んだ国民自身に責任が戻ってくる。
    給料が下がる、失業する、欲しくても子供を産めない・・・等々、
    こういった事は国民が負う「責任」だ。

     

    最悪、命を失う事にもなる。
    ナチスドイツのヒトラーは民主主義が生み出した総統であり、
    彼の手によって直接的に第二次大戦の引き金は引かれた。
    その結果、軍人と一般国民合わせて、約690万人の命が奪われた。

     

    対米開戦を決定した当時の日本政府も、国民の支持によって生まれたが、
    大東亜戦争で、日本は軍民合わせて約310万人の死者を出すことになる。

     

    このように、原理的なレベルで民主主義社会では、
    国民が責任を負うようになっているので、
    その意味で国民は政治の失敗を他人のせいには「できない」のである。

     

    こういった民主主義社会における国民の責任の重さを理解していれば、
    我々はもっとマシな政権を選択し、今より豊かな生活を享受できていた筈だ。

     

    例えば、経済面を見ればこの30年間、日本政府は同じ過ちを続け、
    低成長に喘いでいる。
    世界経済は毎年3.5%ほど成長しているが、
    日本だけが1%前後しか成長していない。

     

    経済とは相対で考えるべきであり、
    世界が3.5%成長しているのに日本だけが1%と言う事は、
    実質は「2.5%のマイナス成長」という事になる。

     

    だから、国民生活は向上しない。
    日本の女性の就業率は今やアメリカを上回り、
    定年後の高齢者の多くも、何らかの形で働いている事が多い。
    これだけ働く人が増えたのに、世帯収入は減少傾向だ。

     

    ■倫理観の欠如が責任感を奪う

    日本国民がこのような民主主義社会における自己の責任に無自覚なのは、
    倫理観の欠落が大きく影響していると私は考える。

     

    日本国憲法においては、民主主義の倫理観は、
    「納税の義務」「教育の義務」「労働の義務」「生存権や財産権の保障」等に現れている。
    これらは共同体の個人に対する義務や個人の共同体に対する義務を規定したもので、
    国民の国家や共同体に対する倫理的義務を示している。

     

    しかし、日本ではこういった国民の倫理的な義務が自覚されにくくなっていると言える。
    義務に対しての自覚が希薄だから、責任感も希薄になる。

     

    例えば「納税の義務」は、日本では殆どが「源泉徴収」によって行われ、
    毎月の給料から自動的に引かれる。
    多くの国民にとって、納税とは自動引き落としにした電気代やガス代と似た感覚だろう。
    全ての国民が源泉徴収無しに給料や報酬を受け取り、
    毎年、確定申告による自主的な納付制度になれば、恐らく国民の自覚は高まる筈だ。

     

    国民の国家に対する、倫理的な義務の最たるものが「兵役の義務」だ。
    日本国憲法には、その成立の特異性ゆえに、「兵役の義務」が規定されていない。
    そして、この事こそが、国民を政治に対して無責任にしている最大の要因だ。

     

    本来、民主主義国家では、国民は何よりも「国家国民のために」、
    自ら国防の任務を負う。

     

    ある制度の内部で考える限り、我々はその制度の瑕疵には責任がないと考える。
    王国が王国である事に対して国民には責任がないし、
    民主主義社会の制度的な難点についても国民には責任がない。
     

    ある制度の視点に立つとき、人が制度の中に安住すること自体を責める事はできないが、
    歴史の視点から見れば「では何故それを変えようとしないのか」と、
    我々は常に問われ得る。

     

    そして、制度を変える英雄や、革命家とは、
    「この制度のままでは成りゆかない」という時に、
    その制度の内部で支給される責任に満足せず、
    「こういう社会だから仕方が無い」と考えずに、自らの責任において捉え、
    それを変える事を選んだ者だ。
    明治維新を成し遂げた、江戸末期の武士達はまさにそういった者達の好例だろう。

     

    歴史が証明するように、
    こういった者達は軍人、即ち国家を守る責任を負った立場である事が殆どだ。
    国防に対しての義務を果たし、その責任の重さを理解しているからこそ、
    彼等は「成りゆかなくなった制度」を変える行動を起こせるのである。

     

    現代日本では、政治家が「兵役の義務」について少しでも言及しようものなら、
    袋だたきにあい、引きずり下ろされてしまう。
    今の日本の民主主義には、倫理観が完全に欠落していると言えるだろう。

     

    ■宗教は民主主義の基礎

    「兵役(国防)の義務」の欠如に加えて、
    もう1つ大きな日本の問題を挙げるなら、それは宗教の不在だ。

     

    宗教とは、ごく簡単に言うと「善行」、
    即ち「善い人間とはどのような人間か?」を規定したものだと言える。

     

    法は基本的に悪行を罰する為にある。
    その意味では、法とは「悪い人間とはどのような事をする人間か?」を規定したものであり、
    「悪い事をしない人間」が善人ではない。

     

    「善良な国民」とは善い考えを持ち、善行を行う者だが、
    人の作る法で善を規定することはできない。
    まして、民主主義社会の法とは多数原理によって決まるので、
    「何が善か?」対して、コンセンサスを得る事は不可能だろう。

     

    善を決められるのは有史以来、神だけであり、
    神が決めた善が示されているのが宗教だ。
    「善良な国民」の存在は民主主義の大前提なのだから、
    本来、宗教とは民主主義の基礎なのである。

     

    しかし、残念ながら、日本ではそのような基礎を大きく欠いている。
    宗教抜きの民主主義は、今日の日本のような「欲望民主主義」「悪平等民主主義」に陥る。

     

    ■国民に責任感を持って貰いたかった安倍総理

    「兵役の義務」の欠如は、言うまでもなく日本国憲法の欠陥だ。
    「兵役の義務」の憲法への記載までは踏み込んでいないが、
    少なくとも安倍総理は憲法改正の意欲を強く見せた、唯一の総理大臣だった。

     

    宗教の不在は、現代日本に蔓延る伝統文化の軽視が大きな要因だが、
    安倍総理は改正教育基本法で、伝統と文化の尊重を盛り込んだ。

     

    安倍総理は現代日本の問題の根幹を、感覚として理解していたのではないだろうか?
    国民に民主主義社会の構成員として、
    もっと責任感を持って欲しかったと考えていたのではないだろうか?

     

    残念ながら、安倍政権の終わりにより憲法改正は遠のいた。
    8年余りの長期政権で、憲法改正の議論が殆どできなかったのは、
    「無責任でいたい」国民の深層心理に由るところが大きいように思う。

     

    しかし、先に述べたように民主主義社会では
    国民は政治の失敗を他人のせいには「できない」。

     

    ■安倍政治は優しかった

    安倍総理の辞任発表直後、内閣支持率は約10ポイント上がった。
    これは今の日本国民の愚劣さと無責任さを如実に現していると言えるだろう。

     

    いい加減、政治家達は無意味な世論調査の結果を気にするのは止めるべきだ。
    国民も無責任に政府への支持・不支持を表明することは控えるべきだ。
    もし不支持を表明するのなら、それは前の選挙の時の自分は愚かだったと内省するべきだ。

     

    民主主義社会では名君は生まれない。
    有能なリーダーがトップに就く事は無いと思う方が賢明だ。
    60点なら上出来、40点が普通、今の日本国民の政治レベルなら30点でも驚くに値しない。

     

    現代日本の民主主義は「最悪の民主主義」に陥りつつあると言って良いだろう。
    君主政治に戻る事は不可能であり、
    人類は民主主義に代わる制度を未だ見つけられていない。

     

    ならば、我々1人1人が今より賢明になる必要がある。
    その為には公益に対する国民の義務を自覚し、それを忠実に果たすと共に、
    人格を高める努力をしなければならない。

     

    安倍政権のうちは、少なくとも日本が滅ぶような事は無かったと断言できる。
    もしも、民主党政権があと数年続いたら、日本は滅びの道を進んでいただろう。
    残念ながら、今の日本国民の多くは民主党政権を選択したあの時から、
    そう大きくは変わっていない。

     

    次の総理に相応しい人物で、石破茂が筆頭に挙がる事がその証左と言える。
    もし、国民に民主主義社会の構成員足る自覚と責任があるなら、
    石破茂と言う人物がこれまで何をしてきたのか、知ろうとするだろう。
    インターネット社会の現代では、個人がそういった情報を入手することは簡単だ。
    そして、石破茂を知れば、彼のような人物は「絶対に総理にしてはいけない人物」
    であると言う評価に大多数の人が行き着くだろう。
     

    政治家の責任を問う前に、先ず自分の責任を問おう。
    自ら知ろうとしない事、人格を高めようとしない事は、
    民主主義社会では罪と言える。

     

    民主主義とは決して優しい制度ではない。
    むしろ専制政治に比べ、多くの国民にとって厳しい制度なのである。
    そんな制度の中でも、安倍政権は国民にとって優しい政権だった。
    約8年もの間、無責任でいることを許してくれたのだから。

     

     


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