人の幸せは「どう働くか?」で決まる

2020.05.09 Saturday

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    2020年5月1日、目下の新型コロナによる非常事態に対する支援策の1つ、
    「持続化給付金」の受付がスタートした。

     

    「持続化給付金」は中小企業や個人事業主向けの支援策で、
    原則、前年同月比で5割以上の売上減に陥った事業者に対して、
    100万円〜200万円の現金が口座振り込みで直接給付される。

     

    これ以前にも様々な支援策が実施されているが、
    現金を直接給付する初めての政策で、
    この後、国民全員に1人10万円給付する「特別定額給付金」が始まる。

     

    今の日本社会はハッキリ言って異常な状態だ。
    新型コロナを理由に、国家にカネを無心する卑しい国民が溢れている。

     

    政府が新たな支援策を出す都度、条件に合致しない層を中心に、
    自分もカネを貰える条件の支援策を要求する。
    カネを貰える事になったとしても、今度はカネが届くのが遅いと批判する。

    更に、自分より後に申請した人が先に給付される事にさえ憤慨する。

     

    メディアはこういった声だけを取り上げ、
    こういった人々を一方的な被害者のように演出し、政府批判に利用する。

    利用された人々は、「弱者という名の強者」になり、

    更に要求をエスカレートさせる。

     

    今後更に、
    家賃補助や学生に対する給付が実施される予定であり、
    現金給付は更に拡大していくのだろう。

     

    その一方で、目下の経済活動の自粛の早期解除の声はあまり聞こえてこない。
    一見するとそのような要求に見えても、よく中身を見ると、
    「カネをくれないなら解除しろ」と言ったものであることが多く、
    言っている事はやはり「カネをくれ」だ。

     

    今後、政府が国民にカネをばら撒く政策を実行する程、
    国民はどんどん要求をエスカレートさせていくだけではなく、
    貰える人と貰えない人の間で分断が起き、嫉妬と怨嗟が渦巻く。

     

    個人の生活に必要以上に政府が介入し、生活を政府に依存する事は、
    国民から真の意味の自由を奪う。
    国家が運営する動物園の檻に、国民自らが我先にと入ろうとしている。
    今の日本国民の少なくない人々はこのように形容できる。

     

    私は政府が支出を増やす事には大賛成だ。
    「借金を減らさないと日本は破綻する」と言った嘘を消し去り、
    1人でも多くの国民が真に豊かで幸せになれる社会を作る為に、
    政府は毎年、もっと多くの支出をすべきだと考えている。

     

    だがそれは、今のようにカネを直接配る事ではない。
    公共事業を中心とした公共投資で社会に多くの仕事を作り出し、
    その仕事に従事する事で、国民の所得を上げる。
    こういった方向で政府は支出を増やす事が正しい。

     

    子供達への投資も、学費の無償化(税金化)と言ったやり方ではなく、
    もっと自由で多様な教育環境を整備し、多様性のある人材を育成する事に使うべきだ。

     

    今の日本の高等教育は、東大だろうが三流大学だろうが、
    結局は「答えのある問題を解く力」で優劣をつけている点は変わらず、
    このような教育では多様性のある人材は絶対に育たない。

     

    こんな大学に入られる金銭的なハードルを下げたところで、
    それは教育の充実にはなり得ず、これこそが「無駄遣い」だ。

     

    現在の状況は戦争や自然災害によってもたらされたものではない。
    個々の国民が自身の幸せの為に、一所懸命に働き、収入を得る環境は何ら破壊されていない。
    全国で数百人の死者、それもその殆どが高齢者であるウイルスを恐れて、
    自らが経済活動を止めているに過ぎない。

     

    日経新聞によると、今年の日本のGDPは2割程度落ち込むという事だ。
    もしも、この通りだとすると大変な事だ。
    GDPの2割と言う数字は、この30年間の日本の成長率を考えると、
    20年分に相当する損失を被る事になる。

     

    新型コロナが終息した後に、成長率8%や10%を達成し、
    短期で戻せるのかと言うと、難しいと言わざるを得ないだろう。
    今、僅かばかりのカネで生きながらえさせたとしても、
    GDP2割減という様な状況になれば、その殆どは生活の糧を失う事になる。

     

    しかし、カネの亡者に成り果てた大衆は、
    目先のカネを求め、1円でも自分の取り分を増やそうと、
    1秒でも早くまずは自分がカネを貰おうと、そんなことばかりに夢中だ。

     

    我々はもっと「生きる」事の意味を考えるべきだ。
    医学的に「生きている」事は人間にとって本来、大きな意味を持たない。

     

    江戸時代末期、アメリカ初の駐日公使タウンゼント・ハリスが駐在したのは、
    伊豆半島の先端にある下田だった。
    当時の下田は貧しい漁村に過ぎず、庶民は経済的には貧しい生活をしていた。

     

    しかし、そんな貧しい庶民は皆、礼儀正しく清潔を心掛けていた。
    その姿を見たハリスは大いに驚き、
    「喜望峰以東で最も優れた人民」と日記に書き残した。

     

    白人は有色人種に対して強い差別意識がある。
    その白人であるハリスがこのように評価したと言うことは、
    「世界で最も優れた人民」であると私は思う。

     

    だから、我々は有色人種で唯一白人に勝利することが出来た。
    アメリアですら日本を滅ぼす事はできなかった。
    大東亜戦争は単純に「日本はアメリカに負けた」とは言えない。

     

    果たして今の日本人と、幕末の下田の漁民を比べてどちらが優れているだろうか?
    我々日本人は何を失ってしまったのか?
    こんな状況だからこそ、そんな事を考えてみたい。

     

     

    ■肉体と魂

    今のこの状況を作り出した直接的トリガーは新型コロナウイルスだ。
    多くの人がこのウイルスに恐怖した結果、
    「不要不急の外出は控えよう」という声が大きくなり、経済活動が自粛された。

     

    その結果、多くの人が大幅な収入減に見舞われ、苦痛を感じ、
    国家にその苦痛を和らげる事を要求する。

     

    新型コロナウイルスに感じた恐怖の根底にあるのは「死への恐怖」だ。
    では、なぜそれ程死が怖いのだろうか?
    死を恐れ、経済活動を止めるが、その一方で経済的に困窮すると自ら死を選ぶのも人間だ。
    失業率と自殺率の間には強い正の相関があることは分かっており、
    今後、自殺者は間違いなく増える。
    死を恐れ、死者を増やすのだからなんとも滑稽だ。

     

    人間はある側面から見ると永遠の命を手に入れている。
    我々の身体を構成しているDNAは、親や祖父、先祖達達から受け継いだものだ。
    DNA鑑定で自分が誰の子か特定できるのは、
    両親のDNAが自分の身体にあるからだ。

     

    そう考えると肉体とは子をなすことにより永遠に受け継がれる。
    勿論、子供がいない人も数多く居るが、人間という「種」の単位で見れば、
    永遠に肉体は受け継がれていることになる。

     

    一方で魂は個人のものであり、親子であっても魂は違うものだ。
    肉体を器と考えるなら、魂はその器に注ぎ込まれるものであり、
    人間の本質はこの魂にある。

     

    魂を五感で認知することはできない。
    本来、魂と肉体は別々のものだが、肉体なくして人は魂の存在を認知できない。

     

    子供を作ると言う事を肉体のリニューアルと捉えても、
    その子の肉体には、親とは別の魂が宿っており、
    子供の肉体に親と子の2つの魂が同居することは出来ない。

     

    何れ、親の肉体は朽ちる。
    そうなると親にとっては、自分の魂の存在を認知できない。
    器を無くした魂がどうなるのかは分からない。
    分からない事に人は恐怖する、これが「死への恐怖」だ。

     

    「恐怖」は争いを生み、社会を乱す、悪の源だ。
    人類はこのことを、文明の始まりから理解していたのだろう。
    だから、宗教を生み出した。
    多くの宗教が死後の世界や魂の不変を説くのは、このような理由からだろう。

     

    そう考えると、今世界が新型コロナウイルスに恐怖しているのは、
    宗教の存在が希薄化し、魂の存在を忘れてしまっているからとも言える。

     

    科学を宗教に対立するものと捉え、その科学を盲信する風潮が広まった結果、
    科学的に証明できない魂の存在を我々はある意味否定している。
    「生きる」と言う事が、「肉体的が科学的に生きている」事になってしまった。

     

    ■幸せとは何か?

    では、そんな人が「自殺」という道を選ぶのは何故だろうか?
    自殺の根本的な原因は「孤独」だ。
    つまり、「自分は誰にも必要とされていない」と言う想いが深まった時、
    人は自ら死を選ぶ。

     

    これは、実は自殺では無い死、即ち「寿命」でも同じだ。
    高齢者でも社会との係わりが密である人、
    健康であることは既に様々なデータから明らかだ。

     

    人の肉体は魂に支配されており、
    魂が「自分は誰にも必要とされていないな・・・」と考えると、
    細胞のリニューアルを停止し、寿命が短くなる。

     

    「幸せの形は人それぞれ」
    こんな言葉をよく耳にするが、これは間違っていると私は思う。
    人間の全ての魂は誰かに必要とされることを望んでおり、
    それを実感出来る事があらゆる人にとっての「幸せ」だろう。

     

    「誰かに必要とされたい」という想いは、
    つまりは、「群れ(社会)への貢献」だ。
    群れに対して貢献することで幸せを感じられる。
    そんな魂が人間の本質だから、「人の命は尊い」のだろうと思う。

     

    政治家は年寄りが多いが、これは肉体的に衰え、
    「自分は誰にも必要とされなくなる」と考え、
    その恐怖から逃れようとする心理が強く働いているだろう。
    若い人が政治に興味が無いのは、実は当然の事であろう。

     

    若い政治家も、その人のそれまでの生き方を見ていると、
    子供の頃から受験勉強に明け暮れ、結果高学歴を取得した者、
    検事や弁護士、医者などを卒業後数年勤めた者、
    タレントやスポーツ選手だった者・・・こういった属性の人が多い。

     

    「群れへの貢献」の観点で言うなら、
    実はこういった属性の者は、同年代で普通に企業に属して働いている者比べて、
    「群れへの貢献」は低い人生を歩んでいる。

     

    受験勉強に明け暮れる学生は、群れとの関わりが低く、
    「自分が必要とされている実感」が持てない。
    成績優秀で褒められる事は多いだろうが、実は彼ら彼女らは孤独だと私は思う。
    だから、普通の人に比べて「自分が必要な人間である」事の確認することへの渇望が大きい。

     

    政治家や官僚という職業は、「全体への奉仕者」とされているので、
    そのような渇望に応える職業として、これ以上のものは無いのである。

     

    孫正義に代表される「カリスマ経営者」と呼ばれる人達も、
    歳をとる毎に、投資事業や、社会貢献を掲げた事業に夢中になる。
    これも、「自分が必要とされている実感を得るため」と言えるだろう。

     

    ■働く事の意味

    「自分が必要とされていること」を実感できる最も簡単な手段が、
    「仕事に就くこと」だ。
    社会の誰かが必要としているから、職業として成立しているのであり、
    仕事をすることで人は常に、自分が必要とされているという想いを持つ事ができる。

     

    この点は、非常に重要な事であり、今の日本人が忘れつつある事だ。
    「仕事=カネ儲け」という考えはアメリカ的な考えで、
    戦後日本に急速に広がっている。
    だが、本来仕事とは「人生」なのである。

     

    同一労働同一賃金や、成果主義と言うような考えは、
    まさに「仕事=カネ儲け」という考えが前提にあることで、
    決して人を幸せにするものではない。

     

    「自分は自分の仕事を一所懸命にやっている」
    「隣の同僚はいつもサボりながらやっており、溢れた仕事は私に押しつけられる」
    「なのに、同じ給料なのは不公平だ」

     

    こういった考えは確かに当然のようにも見える。
    だが、「仕事=人生」とするならどうだろうか?

     

    手を抜いて仕事をし、あまつさえ自分の仕事を他人に押しつけるような生き方は、
    胸を張れる生き方だろうか?誰かに必要とされている実感を得られるだろうか?

     

    明らかにサボっている同僚のツケを支払わされているのに、
    文句も言わず会社の為に一所懸命に働く人は、単なるお人好しのバカだろうか?

     

    素晴らしい人間、より社会に必要な人間は言うまでもなく後者だ。
    前者のような人間は良く言えば「要領が良い人間」なのかも知れないが、
    このような人間を必要と感じる人は少ないだろう。
    従って、幸せではない。

     

    勿論、人間社会においてはお金も大切だ。
    しかし、「生活=お金」なのであって人生はお金ではない。
    だから、日本は年功序列、終身雇用が長らく採用されてきた。

     

    ■世界一優秀な民族の根幹

    「仕事=人生」「生活=お金」こういった考えは、
    冒頭に挙げたハリスの日記に記された「最も優れた人民」の根幹だ。

     

    世界に誇る技術が日本に溢れているのは、日本が古来より技術者を大切にしてきたからだ。
    技術者という職業は全体への貢献が大きい仕事でもある。
    一方で、技術とは膨大なトライ&エラーの繰り返しで磨かれるものであり、
    お金の側面から見ると、決して稼げるものではない。

     

    チャイナや朝鮮では技術者は虐げられてきた。
    彼らが日本に来たとき、技術者である自分たちを敬い大切にする日本に感動を覚えた。
    だから、彼らは長い間日本に留まり、時に生涯を日本で過ごし、
    大陸伝来の様々な技術を日本人に教えた。

     

    そういった技術を、今度は日本人の技術者が磨き改良し、
    オリジナルを遙かに超える、日本独自の技術に昇華する。
    我が国が歴史の殆どの期間で最先端なのは当然なのである。

     

    欧米は奴隷社会で発展し、自分で働かない人間の方が偉い。
    多くの奴隷を抱える人が優れているのであり、
    奴隷とは商品なのだから、多くの奴隷を持つにはカネが要る。
    仕事とはカネ儲けに他ならず、カネを持つものが最も尊敬を集める。

     

    江戸時代の身分制度、「士農工商」はこれとは全く逆の考えで、
    まさに「仕事=人生」であることを体現している。
    カネ儲けが生業の商人は身分の一番下なのである

     

    すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
    賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
    児童は、これを酷使してはならない。
    -日本国憲法第27条-

     

    この条文に謳われている「勤労の義務」は、国際的には珍しい条文だ。
    「働く権利」を謳う憲法はあるが、
    勤労を義務としている憲法は先進国では珍しく、これはとても日本的だ。

     

    別の義務として「納税の義務」が謳われている事を考えると、
    憲法レベルでも「仕事=カネ儲け」は否定されているとみるべきだ。
    仕事をすることは納税の手段ではないのである。

     

    「仕事=人生」であり、仕事をすることが国民の幸せのベースであるという、
    日本の良き伝統を条文化したものであると評価できる。

     

    ■「不要不急」の仕事はあるのか?

    仕事はその人の生き方そのものであり、幸せに直結するものであるなら、
    「仕事をするな」と社会が要求する今の状況とは何なのだろうか?

     

    政府やTV、新聞は「不要不急の外出は控えて下さい」と繰り返し言う。
    なんと傲慢な事だろうか。

     

    「不要不急の外出」には、「不要不急の仕事」という意味を含んでいる。
    つまり、「あなたの仕事は必要ない」と言われているようなもので、
    それは、「誰かに必要とされたい」という人間の魂の否定だ。

     

    しかも、呼びかける側は仕事をしているのだから、
    「自分たちの仕事は必要だ」と暗に言っているようなものであり、
    そういった人達はさぞ幸せを感じている事だろう。

     

    本来なら、国民はこんな傲慢な発言を許してはならないのだ。
    「自粛を要請するならカネをくれ」という主張は、
    自らが「要らない人間である」と言うことを認めるような行為だ。

     

    勿論、ウイルスが社会に蔓延し肉体的に死ぬ人が大量に発生するなら、
    外出を控えることで、そんな状態になることを少しでも防げるなら、
    自粛することが「群れへの貢献」となる。

     

    現在の、国民自らが積極的に自粛を促す姿は、
    過度に個人を尊重した結果でもあるだろう。
    社会的結びつきが希薄になったことで、
    そもそも「貢献すべき群れ」の存在が感じにくくなってしまった。

     

    そこに加えてアメリカ的な「仕事=カネ儲け」という価値観が蔓延することで、
    多くの日本人は仕事をしていることで、
    「自分が必要とされている実感」を感じ無くなってきているのだろう。

     

    だから、新型コロナウイルスの脅威を過大に捉え、
    「群れに貢献したい」という魂の叫びを「自粛しよう」という言葉で発露している。

     

    だが、そんな行為は欺瞞に過ぎず、群れへの貢献では決して無い。
    結局最後は、「自分は不要な人間」という想いを深めるだけとなり、
    それはその人の人生を不幸なものにするだけだ。

     

    ■新型コロナは既に「既知のウイルス」

    新型コロナウイルスは最早「未知のウイルス」ではない。
    欧米が既に身を挺して、このウイルスの脅威度を示してくれた。

     

    今の世界で、今回のウイルスの感染者を出していない国は無いと言ってよく、
    十分に将来を予測できるだけのデータは揃っている。

     

    4月の初旬、初めての緊急事態宣言が出された時、
    専門家会議は、「このままでは40万人以上の死者が出る可能性がある」と言った。
    それから1ヶ月、増えた死者の数は500人にも満たない。

     

    こう言うと「それは、外出自粛したからだ」と言う意見が出るだろうが、
    それは有り得ないだろう。
    あの時点までの日本国内での感染拡大スピードから、

    40万人もの死者を出すような感染拡大スピードになった国は、
    世界中のどこにも例が無い。

     

    100%有り得ないとは言えないが、
    そうなる可能性は、明日巨大隕石が落下する事を恐れるレベルだ。

     

    まだ中国でしか流行していなかった、1月の段階での自粛要請なら理解できる。
    この時点では「未知のウイルス」であり、
    どれほどの脅威度のものか不明だった。

     

    だが、4月の段階では「既知のウイルス」になっていたのだから、
    緊急事態宣言は全く不要であるだけでなく、
    「特定感染症」の指定から外しても問題なかっただろう。

     

    危機が叫ばれる「医療崩壊」は、
    新型コロナウイルスを「特定感染症」に指定した故に起こりうる事だ。
    通常のインフルエンザと同じ対応に切り替えていれば、
    医療崩壊など起こる筈もない。

     

    ■幸福追求の権利を放棄してはいけない

    しかし、今更こうして過去の事を言っても、

    現実は自粛が続く状況であり、
    その事により、生活に困窮する人は間違いなく増える。

     

    だが、だからといってカネを無心するのは間違っている。
    日本には最後のセーフティネットとして生活保護制度が機能しており、
    最悪でも食べていけなくなるような事は無い。

     

    戦争や震災のように、物理的に大きな破壊が起きたわけでもないのだから、
    幾らでも再起は可能だ。

     

    今、国民が真に求めるべきは一日でも早い自粛の解除だ。
    その上で、政府には萎んだ需要を喚起する為に大規模な支出を要求すべきだ。
    無論、消費税の減税、ないし撤廃も強く求めるべきだろう。

     

    需要を旺盛にするという事は、
    「誰かを必要とする人が増える」という事を意味する。
    そしてそれは、「誰かに必要とされている」という実感に繋がる。

     

    これこそが、国家が国民を幸せにするためにやるべきことなのであり、
    何もしなくても困らないように、現金を渡すことでは無い。
    そんな事をしても、国民は幸せにはなれない。

     

    冷静になって現状を俯瞰して考えてみよう。
    自分を客観視してみよう。

     

    「困っている、もっとカネを配ってくれ」
    毎日、国家にこう要求する人生は幸せだろうか?

     

    「支援が遅い、政治家は俺たちの気持ちが分かっていない」
    毎日、責任者探しをし、責任追及する人生は幸せだろうか?

     

    「あの店は自粛していない、けしからん、通報してやる」
    毎日、こうやって自分の正義を押しつける人生は幸せだろうか?

     

    「年金受給者、生活保護受給者、公務員、彼らはコロナでも収入が減らないから、
    彼らに他と同じようにカネを配るのはおかしい」
    毎日、こうやって他人の取り分を減らそうとする人生は幸せだろうか?

     

    「2m程度は人との間隔を空けて下さい」
    「手洗いをしっかりしてください」
    「咳やくしゃみをするときは、口に腕を当てて下さい」
    政府にこんなことまで要請される人生は幸せだろうか?

     

    こういった事をよく考えて見て欲しい。
    こんな事を続けても、あなたは「人から必要とされる人間」にはならない。
    それどころか、「不要な人間」になっていくだけだ。

     

    「この程度のウイルスなら、皆で少し注意しながら生活すれば乗り越えられるね」
    「少し怖いけど、いつも以上に頑張ってみんなで働こう」
    「政府は、需要を喚起して下さい。徴税を軽くして下さい」
    「元に戻ったら、ちゃんと税金はお支払いしますから」

     

    こう望む人生の方が幸せではないだろうか?
    医学的に生きている事が、幸せではない筈だ。
    「どう生きるか?」にその人の幸せの核心があり、
    多くの場合、仕事をすることで人は幸せを獲得できるのである。

     

    カネに囚われ、国家に飼われるペットになってはいけない。
    日本という国を巨大な動物園にしても、
    そこに我々国民の幸せは決してないのである。

     

     


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