今の日本は「国家」なのか?

2019.09.30 Monday

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    我々日本人は日本国という「国家」の構成員であり、
    殆どの日本人はその事を当たり前に受けて入れている。
    だが、「国家とは何か?」の問いに明確な回答を提示できる人は少ない。

     

    百科事典では国家を以下のように定義している。

     

    「一般に、一定の領土と国民と排他的な統治組織をもつ政治共同体をいい、
    また一定の地域(領土)を基礎に固有の統治権によって統治されている継続的な公組織共同社会」
    -ブリタニカ国際大百科事典-

     

    「領土がありそこに住む国民が存在し、国民が子孫を残す事で持続的な社会」
    要約するとこんなところだろうか。
    また、国際社会においては「主権」を持っている事も国家の重要な構成要素だろう。
    主権とはごく単純化して言うなら「自分たちの事は自分たちで決められる権利」となり、
    この主権が無いから、植民地時代の被植民地地域は「国家」とは見なされない。

     

    しかし、このような国家の定義は実はとても新しいもので「近代国家」とも呼ばれ、
    日本においては江戸時代までは「近代国家としての日本国」は無く、国境や領土の概念もない。
    また、上記に挙げたような国家の定義はあくまで「概念」を示すものであり、
    国家の本質は別にある。

     

    国家の本質とは人間が自分達の命を守るために生み出した単なる道具であると言うことだ。
    近代国家の概念が生み出された最大の理由は、
    人間の生命を脅かす最大の脅威である「戦争」の形が変わった事に依る。

     

    古代における戦争とは、局地戦であり「点」の戦いだ。
    戦闘単位も非常に小さく、部族や町や村の単位での戦いであり、
    実際に戦闘を行うのは騎士や武士と言った支配階層と彼らに雇われた傭兵だ。
    日本史で言うなら、室町時代の初期まではこのような形で戦争は行われた。

     

    その後、鉄砲に代表される重火器の発明により戦闘の形は「点」から「線」に変化する。
    長篠の戦で有名な信長の鉄砲隊は、鉄砲隊を横一列に並べた「線」の戦いの象徴と言える。
    しかし、戦術面では大きな変化はあったが、実際の戦闘参加者は大きく変わらず、
    騎士や武士、傭兵が中心となる。

     

    戦争の形に劇的な変化を与えるのはフランス革命とその後のナポレオン戦争だ。
    フランス革命により、それまで社会を守る役割を担っていた王や貴族は打倒され、
    人民自身が自分たちの社会を守る必要が生じた。
    限られた騎士や武士、傭兵達による戦争から、一般の大衆達が参加する戦争へと変化する。

     

    一般大衆は高度な基本教練が求められる「横隊」、即ち線の戦いは不可能であり、
    散開して戦闘が行われる「散兵陣形」による戦いに戦術は変化する。
    つまり、線から面へ戦闘の形は変化するのである。

     

    戦争の形が点や線の戦いの段階において、
    自分たちの生命を守るために「近代国家」のようなものは不要だ。
    実際の戦争は訓練された少数の戦闘のプロ達によって行われ、
    例えるなら肉食獣の「縄張り争い」のようなものだ。

     

    ところが、面の戦いとなるとそうはいかなくなる。
    大量の兵士が動員され、大規模な戦闘がいたるところで発生する事になり、
    自分達の生命を守るためには、「面」で戦略を考える必要に迫られる。
    他の国家との境界線を定めその境界線内を領土とし、
    領土を「面」と捉えて守る必要があるのである。

     

    現代の戦争は第二次世界大戦を通じて面から体(立体)へと更に変化している。
    航空機や潜水艦、ミサイル技術の発達により立体的に捉えなければ、
    自分たちの生命を守る事はできない。
    だから、現代の国家は「領土」以外に「領空」や「領海」という、
    高さの概念を加えられた立体的な境界線を定めている。

     

    「国家とは何か?」
    その答えは実はとても単純なものであり、「自分たちの生命を守るための道具」だ。
    しかし、日本人は世界でも類を見ない程、国家意識が希薄であり、
    「国家とは何か?」「何のために存在するのか?」を殆ど考えない。
    あれこれ煩く言えば飴をくれる存在程度にしか考えていない人も多いだろう。

     

    そこに暮らす人たちの生命を守る為の道具が国家なら、
    今の日本という国家は、その道具の役割を果たせていない状態であると評価できるだろう。

    人類は国家以外に自身の命を守る為の道具を未だ見つけていないのが現状であり、
    だとすれば、日本国と言う道具がその役割を果たせない現状は、
    本当はとても危険な状態なのである。

     

    我々はもっと真剣に「国家とは何か?」「国家は何のために必要なのか?」を考えるべきであり、
    子供たちにも義務教育課程で、国家について考えさせる事が大切だ。
    国家の存在意義を失いつつある日本という国家について考えてみる。

     

     

    ■日本とは何か?

    さて、日本人は国家意識が希薄な理由とは何だろうか?
    最大の理由は、日本人にとって国家とは空気のように当たり前に存在するという事実だ。

     

    元々、国家などと言う存在は自然界には無く、人間が勝手に作り出した概念に過ぎない。
    概念は見る事は出来ないし、実感することも難しい。
    だから、境界線を定め「この境界線の中が我々の国家である」という事に拘る。
    諸外国において、国家と国境は不可分であり何よりも重要となる。

     

    EUは多国間の共同体だが、ポルトガル人は隣接するスペインとの境界線には関心があるが、
    同じEU加盟国であるポーランドと、非加盟国であるウクライナとの境界線には興味がない。
    EUという壮大な夢は、結局は近代国家に取って代われるものではなく、
    イギリスのEU離脱はその象徴と言えるだろう。

     

    一方、日本においては天皇陛下という存在が国家を体現してきた。
    万世一系の天皇と民が暮らし、天皇は民のために祈り、民は天皇に感謝と敬愛の念を抱く。
    この天皇と民の関係が「日本」という国家であり、
    日本という国家は世界で唯一と言って良い「実体」のある国家だ。

     

    実体はあるが、天皇という存在はあまりに当たり前にそこにある。
    だから、殆どの日本人は「日本」という国家の存在を意識していない。
    空気の存在を意識しないのと同じだ。
    「無い状態」について現実味をもって考えられないものは、
    「有る状態」も同様に現実味を持って考えられない。

     

    天皇の存在と国家が同質化している、日本独自の国家観は近代国家の概念とは全く異なる。
    その為、日本は諸外国のように境界線、即ち国境に対しての意識も希薄なのである。
    勿論、四方を海に囲まれているという地理的要因の影響もあるが、
    島国自体は日本以外にも世界には数多く存在しているが、日本のような国家観は無い。

     

    そもそも、日本列島も北海道、本州、四国、九州など多くの島で構成されているが、
    本州に暮らす人々が津軽海峡や関門環境を意識する事はなく、
    北海道に暮らす人々が津軽海峡を意識する事もない。

     

    天皇と民との関係が同じなら、人種が違っていても、
    近代国家の概念的には別の国家の国民でも、
    日本人は自分と同じ日本人のように考えられるのだろうと私は思う。

     

    ■英霊達は確かに日本を守った

    大東亜戦争の時、なぜ日本はアジア地域を西欧列強がそうしたように単純な植民地にしようとしなかったのか?
    戦前の日本列島以外の支配地域に対して、
    日本人は神社を建て神道を持ち込み、教育を施した。
    日本人は本気で人種や文化の違いを超えて、
    天皇陛下の下で1つの共同社会を作れると思っていたのだろう。
    そして、その思いは実は今でもそれほど変わっていないようにも思う。

     

    天皇は諸外国の王や皇帝と異なり搾取せず、民の為に祈りを捧げてくれる。
    何かを強制することもなく、それぞれの文化や宗教も認めてくれる。
    そんな存在に対して民は感謝する。
    「こんな関係を拒絶する人なんているわけない」
    そう考えても不思議ではないだろう。

     

    そして、現に中国や韓国も含めて、あの戦争で日本が支配した地域に住む人々から、
    「日本軍に酷い事をされた」「日本人に酷い事をされた」
    という主張が出る事はあっても、「天皇に酷い事をされた」という主張は殆ど見られない。
    神道という宗教を使って、天皇と民との関係を教えようとしたのに、
    神道に対しての否定的な声も全くと言って良い程ない。

     

    ローマ法王の訪問を拒絶する国はあるが、
    天皇陛下の訪問を拒絶する国があるとは思えない。
    宗教と密接な関係のある存在が、何処でも受け入れられるというのは奇跡的な事であり、
    「天皇と民との関係」は本当に世界中の人々が受け入れられるもののように思える。

     

    明治政府は短期間で西欧列強に並ぶ為に、日本を近代国家にしようとした。
    その為に、キリスト教など一神教における神の如く、天皇を絶対的な存在に置き、
    それをもって、全ての日本人に「国民意識」を植え付けようとした。

     

    天皇の為に命を捧げた神風特攻隊は、そういった明治政府の政策の結果と捉える向きもあるが、
    古来より続く、日本人と天皇の関係の延長線上と捉えるべきだ。

     

    あの戦争で命を落とした多くの日本人は、天皇という個人の為に戦ったわけではない。
    国家とは自分の生命を守る為の道具であり、その点は諸外国も日本も変わらない。
    だから、日本人は自分と家族の命を守る為に日本国という国家を守ろうと、
    命を顧みずあの戦争を戦った。
    「天皇=日本」なので、「天皇陛下の為に」とは「日本国のために」と同じ意味を持ち、
    国家を守るとは自分や家族を守る事と守る事を意味するのである。

     

    その意味において、あの戦争で日本人は日本国を確かに守ったと言えるだろう。
    今でも天皇陛下は確かに皇居におられ、民のために毎日祈りを捧げ、
    殆どの日本人は、今も変わらず陛下に感謝と敬愛の念を抱いている。
    確かに日本国という国家は今この瞬間も存在しているのである。

     

    ■「平和を愛する諸国民の公正と信義」は存在しない

    但し、日本国が国家としての役割を果たせているかどうかは別の問題だ。
    繰り返すが、国家とはそこに暮らす人々の生命を守る為の道具であり、
    国家が国民の生命を守れないなら、存在することに何の意味もない。

     

    戦後制定された日本国憲法の前文には、

     

    「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、
    われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

     

    このように記されている。
    日本の国防を考える時、必ず憲法9条の存在が障害になるが、
    実は憲法9条は前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を前提にしており、
    この前提無くしては成立しない。

     

    「諸外国の人々は皆、法や約束を守る。
    そして、あらゆる国家間の諸問題はお互いに公正な立場で話し合い、問題解決ができる」
    「だから軍隊は必要ない、持たない」こんなロジックだ。

     

    日本国憲法の最大の問題は実はこの前文にある。
    何故なら、「平和を愛する諸国民の公正と信義」等と言うものは残念ながら存在せず、
    それが国際社会の常識だからだ。

     

    「平和を愛する諸国民の公正と信義」が幻想なのは、
    北朝鮮による日本人拉致を見ても明らかだ。
    拉致を実行した北朝鮮に平和を愛する心も信義も無いのは言うまでもないが、
    諸外国も北朝鮮が拉致を認めているにも関わらず、殆ど何もしてくれない。

     

    日本国憲法は敗戦の翌年となる昭和21年11月3日に公布され翌年の5月3に施行された。
    施行から3年後の1950年6月25日、北朝鮮は38度線を越えて韓国に侵攻を始め、
    朝鮮戦争が勃発する。
    これは「平和を愛する諸国民の公正と信義は信頼できず存在しない事」が明らかになった事を意味しており、
    この時点で日本国憲法は改正すべきだったのである。

     

    ■拉致されても何もしない国家

    北朝鮮による日本人拉致は、
    日本という国家がその役目を果てしていない事を如実に示している。
    ある日突然、何の罪もない日本人が日本国内で拉致され、
    北朝鮮に連れていかれ日本人として生きる人生を奪われてしまった。
    仮にそれがたった1人であったとしても、
    国家は軍事力を行使しても救出しなければならない。
    その為に多くの兵士の血が流れる事になったとしても、それが国家の存在する意味だ。

     

    自分の家族が、ある日突然誘拐されてしまった。
    誘拐犯は誘拐した事を公言し、何処にいるのかも明らかなのに、
    警察は実力行使する素振りすら見せず、話し合いでの解決を訴える。
    誘拐犯はそんな警察を一切無視して普通に生活を送っている。

     

    もし、国内でこのような事が起こったら多くの国民は警察を激しく非難し、
    「犯人を撃ち殺しても取り返せ」と声を上げるだろう。
    だが、警察は「警官の被害が大きいのでそれはできない」と答える。

     

    北朝鮮の拉致に対する日本国の対応とは、例えるならこのような態度なのである。
    無人の尖閣諸島を中国から守る、日本人が居ない北方領土をロシアから取り返す、
    こんな事は拉致被害者を奪還することに比べれば些末な事だ。
    竹島の奪還も些末な事だと考えるが、
    竹島については韓国によって多くの日本人が殺害、投獄されているので、
    国家として日本は韓国に相応の報いを与える必要がある。

     

    安土桃山時代、秀吉はスペインやポルトガルによるキリスト教の布教活動や、
    国際貿易について寛容な姿勢だった。
    しかし、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買している事を知った秀吉は激怒、
    1587年7月24日、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁則文書、バテレン追放令を発令する。

     

    秀吉の時代、日本には「近代国家」という概念もなければ、「日本人」もない。
    それでも、今の日本国よりもよほど「国家」としての役割を果たしたと言える。

     

    もし現代が戦前の大日本帝国なら、
    直ぐに日本海に帝国海軍を派遣し北朝鮮に対して戦争も辞さない覚悟を見せ、
    拉致した日本人の返還と賠償を求めるだろう。
    もし、その要求が拒絶されるなら躊躇することなく実力行使するだろう。

     

    戦後教育では、今の日本は大日本帝国より良い国になったと教えられる。
    だが、そんな事は真っ赤な嘘だ。
    例え自由が規制されていたとしても、国民の生命を守れない国家に意味はない。

     

    我々日本人は、「国家の役割」をもっと真剣に考えて危機感を持つべきだろう。
    今、この瞬間も多くの日本人がビジネスや旅行で海外に出ているが、
    日本国という国家は、日本人が海外で命の危機に瀕しても守る事ができないのである。
    日本国内で拉致された日本人を取り返す事もできない国家なのだから、
    海外にいる日本人を守れないのは当然だ。

     

    ■最大の敵はいつも内にいる

    日本国をこんな国家にした原因はなんだろうか?
    GHQだろうか?中国や旧ソ連だろうか?
    勿論、これら外国勢力は深く関与しているが、一番の原因は日本人自身だ。
    歴史上、外敵の攻撃だけで滅亡した国家は存在せず、
    最大の敵は常に内に潜んでいる。

     

    この内なる敵を見分ける方法はとても簡単だ。
    「個人の権利や自由を保障しろ」「弱者を守れ」「生活を保障しろ」
    このような事を国家に求める輩だ。
    つまり、殆どの日本人が内なる敵ということを意味する。

     

    個人の権利や自由を国家が奪ってはいけない。
    だが、同時に権利や自由は国家が与えるものでは無く、
    自らの意思で勝ち取るものであり実践するものだ。

     

    例えば「表現の自由」とは、何を言っても許される事ではない。
    表現の内容によっては出版禁止や放送禁止などの規制を加えることもある。
    だが、こういった事が行われたとしてもそれは「国家が表現の自由を奪った」とは言えない。
    何故なら表現する事自体は一切自由だからだ。

     

    「表現の自由」とは、表現した結果を含めて受け入れ自己決定できる事を指す。
    罰せられることが嫌なら「表現しない」という選択をすることもでき、
    それが「自由」という状態だ。

     

    書籍や地上波で表現できなくとも、例えば自分の庭で表現する事は可能だ。
    「表現すること自体」を罰するなら、その時初めて「表現の自由が奪われた」となる。
    その意味では、「ヘイトスピーチ規制」は表現の自由の侵害だろう。

     

    何れにしても、自由や権利を国家に与えて貰おうとする考えは国家を滅亡に追いやるものであり、
    個人の生活の保障を求める行為など論外だ。
    生活の豊かさ、幸せ、そんなものは自身の力で切り拓くものだ。

     

    ■国家を維持する2つの力

    国家はそこに暮らす国民が、安心して自身の幸せを得る為に日々努力できるように、
    外敵に対しては軍事力を持ち、その軍事力を背景に外交を行い国民の生命を守る。
    国内に対しては警察力を持ち、その警察力を背景に法の支配を確立し秩序を維持する。
    国家を構成する核心的要素は軍事力と警察力であり、
    この2つの力を有し、適切に行使することで、国家はその役割を果たす事ができる。

     

    日本の軍事力とは無に等しい。何故なら攻撃能力が無いからだ。
    より正確に表現するなら、攻撃能力が有っても使えない。
    この事実は強制力がない事を意味し、
    それ故に、北朝鮮が「拉致した人を返す」と自発的に行動しない限り、
    拉致された日本人は返ってこない。

     

    警察力は軍事力に比べれば遥かにマシだが、これも危機に瀕している。
    個人の権利を最上位に置く考えが蔓延し、
    今の日本の警察力は、「発生した犯罪」に対処することしかできない。

     

    例えば、親による虐待を受けている可能性が高い子供がいても、
    強制力を行使して子供から親を排除することはできない。
    自殺を選ぶ程の苛めを受けている子供がいても、殆ど何もすることができない。

     

    国家の宝であり、未来を創る大切な子供を殆ど守る事ができないのが、
    今の日本の警察力の実情だ。

     

    9.11テロや地下鉄サリン事件のようなテロですら、
    命を惜しまない狂信者たちが本気で実行しようとしたら、
    今の日本の警察力では防ぐ事は出来ない。

     

    国家が国家足り得る要素のどちらも失いかけているのが今の日本という国家なのである。

     

    ■自国民を大切にしない国家は滅ぶ

    世界史を見ると、自国民を大切にしない国家の未来は必ず滅びしかない。
    日本を除く殆ど全ての有色人種国家は、欧米の植民地になったが、
    日本だけは欧州の植民地にもならず、
    大航海時代も産業革命も帝国主義時代でも互角に欧米と戦った。

    それは、日本だけが自国民を大切にし守ろうとしたからだ。

     

    欧米の植民地になる前のアフリカでは、
    王は土地だけでなく土地に住む人々も所有していた。
    そんな王たちは私腹を肥やすために自国の人々を交換品として欧米の工業製品を手に入れた。

    奴隷貿易の始まりは、実はアフリカ側が望んだ事でもあり、
    アフリカ自身がアフリカを貧しくし、
    それによって現代でもアフリカは世界で最も貧しい地域なのである。

     

    南米も同様で、インカ帝国の王とはインカ人の所有者でもあった。
    だから、スペインの侵略が始まった時、王の為に戦おうとする民はおらず、
    数の上では圧倒していたインカ帝国は僅かな数のスペインに滅ぼされてしまう。

     

    欧州国家と中国の関係も同様で、皇帝は自身の安全と私利私欲の為に所有物である民衆を差し出した。
    家来たちも皇帝が怖いから、自己保身のためにそんな皇帝に従った。
    大東亜戦争でなぜ、同じ有色人種の日本と中国は戦ったのか?
    それは中国が欧米に寝返ったからだと見る事もできる。

     

    だから、中国は第二次世界大戦の戦勝国という事になってはいるが、
    今の中華人民共和国は、白人に寝返り日本と戦った中華民国ではない。
    中華民国は実質的には滅び、台湾という小さな島に存在する一勢力となる。

     

    中華民国に代わり、支那大陸の支配者になった中国共産党にしても、
    実態は農民から土地を奪い収穫物を奪い、
    共産党の幹部だけが私利私欲を肥やすだけの、
    「共産主義」という最悪のシステムを実行し、中華民国時代よりも貧しくなった。
    同じ共産主義国家であったソビエト連邦は、1991年にあっけなく崩壊する。
    アメリカと並ぶ超大国と言われたソ連の歴史は僅か69年で幕を下ろした。
     

    中国共産党もあと少しでソ連と同じように滅びる筈だったが、
    そこに手を貸したのがアメリカであり、日本だった。
    中国共産党は「改革開放」を掲げ資本主義経済を一部導入、日本は改革を資金面で援助した。
    その結果、中国は世界2位のGDPを誇る経済大国となる。
    この本質は中国が人民から収奪している間、中国は衰退を続け、
    収奪を止めたら成長し豊かになったという事だ。

     

    欧米諸国は自国民の生命が脅かされていると感じた時、
    脅威を与える相手に対して、躊躇なく武力を行使する。
    有色人種の地を植民地として、収奪し奴隷のように使役する白人だが、
    国家の役割は確実に果たす。
    だから、今も欧米諸国は先進国として世界に君臨しているのである。

     

    ■国民が望んだ国民を大切にしない国家

    そこに住む国民の生命を守るという、国家の最大の目的を果たさず、
    国家が国民から搾取するだけの存在になったとき、その国家は滅びる。
    我々が毎年日本政府に治めている税金は、「国家を維持するためのコスト負担」だ。
    国家が国家の役目を果たせないなら、徴税は搾取に過ぎない。

     

    今の日本は国民の生命を守ることができないばかりか、
    かつての中国の皇帝のように国民を外国に売り渡すような者達に支配されつつある。
    その者達とは財務省やトヨタに代表される輸出企業であり、
    多くの国民は貧しくなっているのに彼らだけが肥え太っている。

     

    但し、彼らの搾取を許しているのは日本国民自身に由るところが大きい。
    「子供の教育の面倒を見ろ」「育児の面倒を見ろ「老後の面倒を見ろ」「給料を上げろ」
    「休みを増やせ」「自分たちのやりたい仕事を用意しろ」・・・
    こんな事を国家に要求しているのが今の日本国民だ。
    その結果、財務省は増税の大義名分を得て堂々と搾取する事ができるようになった。

     

    輸出企業を守る為、政府は彼らの税負担を軽くする。
    人件費の高騰を抑制するために、「人手不足」を盾に外国人労働者の受け入れを拡大する。

     

    国民の生命を守れない国家にしているのも日本国民自身だ。
    「防衛費を増やすくらいなら社会保障を手厚くしろ」
    「自衛隊は何よりも災害救助を優先しろ」
    「自分たちは国家の為には何もしない、自衛隊は国民の為に命をかけろ」
    これが多くの日本国民の姿だ。

     

    日に日に高まる個人の人生に対する国家の依存度を下げる方向に転換する必要がある。
    国家は我々の命を守る為のシステムであり、
    日本国はその本来の役割を取り戻す必要がある。

     

    日本という国は、世界からみるとあまりに特殊であり、
    我々日本人の殆どは、日本という国家が無ければ生きていけない。
    日本人にとって、国家の重要度は諸外国の人々よりも遙かに高い事を忘れてはならない。

     


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