日本史に学ぶ6−江戸幕府はなぜ滅びたか−

2019.09.22 Sunday

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    JUGEMテーマ:歴史

     

    約260年続いた江戸幕府が終わりを迎える幕末期は、
    戦国時代に並ぶ非常に人気の高い時代だ。

     

    小説、映画、ドラマ、漫画、ゲーム・・・様々なエンターテイメント作品の題材に選ばれ、
    毎年1年間をかけて放送されるNHKの大河ドラマも、
    「困ったら幕末」といった感じで、幕末期が題材にされる。

    幕末期の人気は、こうしたエンターテイメント作品によって定着したイメージに依るものだろう。

     

    「凡そ三百年、惰眠をむさぼっていた日本人の前に、
    突如として強大な軍事力をもった欧米列強の白人たちが現れる。
    動揺し、混乱する日本。
    この危機に祖国を救うべく勤王の志士が立ちあがる。」

     

    幕末期を題材にした殆どのエンターテイメント作品は、
    このような時代設定を基に物語が展開していく。

     

    エンターテイメントとして楽しむ分には問題は無いが、
    あくまでフィクションとして捉えるべきだ。
    坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通、桂小五郎、伊藤博文、山形有朋、
    吉田松陰、高杉晋作、そして新選組の面々。
    綺羅星のごとく英雄的人物達が登場するが、
    彼らに対して、現代に生きる多くの人々が抱いているイメージは、
    その殆どが事実と異なり、過剰に美化されたものだ。

     

    現代社会は、実は明治以降から大きく変わってはいない。
    室町時代から安土桃山時代への変化、
    江戸時代から明治時代への変化、
    こういった変化に比べると、明治から今に至る変化など無きに等しい。
    敗戦を境に、それ以前と比べて大きく変わったかのような教育を受けるが、
    「新しい時代が始まった」と言えるような変化は無いのである。
    明治、大正、戦前昭和を纏めて「〇〇時代」と呼ばないのが、その何よりの証拠だ。

     

    歴史は作られるものであり、今に残されている歴史資料は必ずしも真実を記録したものではなく、
    記録された時代の権力者や社会情勢などに大きな影響を受ける。

     

    現代日本は基本的に明治政府の延長線上にあるので、
    自分たちが打倒した江戸政権を悪く書く。
    国民を苦しめ、日本を亡国の危機に追いやった「無能な政権」、
    そんな風にしなければ、武力をもって江戸幕府を倒した事を正当化できない。
    幕末期に登場する人物達が英雄的に描かれるのは、こういった思惑が強く影響している。

     

    現実は、薩長が行った事は軍事クーデターでありテロ行為であり、
    維新の志士たちを育てた吉田松陰の私塾とは、言うなればテロリスト養成所だ。
    坂本龍馬は武器商人であり、言うなれば「死の商人」だ。

     

    そもそも、薩長は当初は開国路線を進める幕府の政策を、
    開国に否定的だった孝明天皇(明治天皇の父)の意向を無視したものだと反発し、
    「尊王攘夷」を掲げ江戸幕府を倒すのだが、
    薩長を中心に構成された明治政府は、「富国強兵」「文明開化」をスローガンに、
    積極的に西洋文明を取り入れる政策を進める。

     

    戊辰戦争の大義名分とは建前に過ぎず、内実は薩長によって仕掛けられた権力闘争だ。
    江戸幕府は国際情勢の変化を十分に理解していたので、
    この権力闘争に徹底抗戦することは、欧米に付け込まれる隙を与えるだけだと考え、
    大政奉還により自ら権力を天皇に返上し、江戸城を無血開城する。
    真に日本の危機を救うべく行動したのは、実は江戸幕府の側とは言えないだろうか?

     

    とは言え、江戸幕府の力は衰え続けており、
    世界情勢の変化についていけなくなっていたのも事実だ。
    全国300余りの諸侯による連合政権である江戸幕府は、
    大名達の支持なくしては成り立たないが、その支持も失いつつあった。
    薩摩藩、長州藩、土佐藩といった僅な数の藩に江戸幕府が倒されたのは、
    江戸幕府に味方する藩が殆ど無かったからだ。
    何故、全国の大名たちは幕府に味方しなかったのだろうか?
    幕末とは本当はどんな時代だったのだろうか?

     

    本当の幕末の姿を考えてみる。

     

    ■幕末の開国は”第二次開国”

    中央政府であるのに、全国に徴税権が及ばない。
    米による徴税を基本とした石高制。
    金銀の量に縛られた貨幣供給。

     

    江戸幕府は成立したその時から、このような構造的欠陥を背負っており、
    最期までこれらの欠陥を抜本的に改善することができなかった。
    本質に気が付き改革を試みた者はいたが、
    その後には必ず逆噴射政策を採り、徐々に幕府の力は弱体していくことになる。

     

    だが、それでも世界が平和であれば、江戸幕府の時代はまだまだ続いていただろう。
    しかし、幕末期の国際情勢とは平和とは真逆の状態であり、
    西欧列強による帝国主義の嵐が吹き荒れていた。

     

    スペイン、ポルトガルによる世界侵略は信長の時代には既に始まっていた。
    秀吉以降の日本は彼らの要求に対して長崎の港を開き、
    制限貿易に応じるという“第一次開国”を行っている。

     

    但し、この開国は幕末期のそれとは全く意味が違う。
    第一次開国はあくまでも日本の主導権による行われたものであり、
    「幕府が貿易を制限し、統制する」というものだ。
    幕末期の第二次開国は、逆に西欧列強から「幕府に統制されない、自由な貿易」を強制されたものだ。

     

    第一開国が日本の主導権で行えたのは、ひとえに当時の日本が軍事大国だったからだ。
    100年におよぶ戦国時代で鍛えられた日本の軍事力の前では、
    スペインもポルトガルも幕府の命令に従わざるを得なかった。

     

    しかし18世紀の半ばを過ぎると、イギリスで「産業革命」が起こり、
    これにフランスなどの欧州列強が追随する。
    その後を新興国であるロシアやアメリカが続く。

     

    産業革命以前、乗り物の動力は人力や馬や牛が中心だったが、
    産業革命により内燃機関、エンジンが発明され、その燃料として石炭が利用される。
    様々な産業に機械が導入され、生産の在り方が劇的に変化する。

     

    技術の革新は、世界情勢を一変させる。
    産業革命以前、世界の大国であったスペイン、ポルトガル、清(支那)、日本は、
    その座から一気に滑り落ち、イギリス、フランス、ロシア、アメリカがとって変わる。

     

    ■「黒船来航」の前から決まっていた開国

    1806年、日本と交易を続けていたオランダは「ナポレオン戦争」により滅ぼされ、
    統領ウィレム5世はイギリスに亡命、
    海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で回収して欲しいと要請する。
    イギリスはこれを口実にオランダ船の拿捕やオランダ植民地への侵略を開始する。

     

    この時、日本でも長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、
    オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が発生し、
    これは「フェートン号事件」と呼ばれている。

     

    この事件以降、日本近海に頻繁に外国船が姿を見せるようになったため、
    1825年、幕府は「異国船打払令」出す。
    しかし、あまりにも頻繁に外国船がやってくるため、
    打払令などをやっていたら世界中と全面戦争になってしまうので、
    1842年に「異国船打払令」は撤廃されることになる。
    この時点で、もはや外国との交渉を拒絶するのは難しく、
    いずれ全面的な開国は避けられない状況になっていたのである。

     

    歴史教科書では、1853年のペリー来航が開国の契機であったかのような印象を受けるが、
    ペリーが浦賀沖に現れる約30年前には、既に日本の開国は避けられない状況だったのである。

     

    1840年、支那大陸で「アヘン戦争」が始まり、清はイギリスに敗北する。
    1842年、清とイギリスの間で「南京条約」が締結され、
    日本と同じく鎖国政策を採っていた清は開国することになる。
    ちなみに、この時の条約で香港はイギリスに割譲される。
    2019年9月現在、香港では民衆による激しいデモ活動が行われているが、
    その原因を遡ると、南京条約による香港割譲が出発点となる。

     

    江戸時代、幕府は国際情勢に疎かったかのような印象を持っている人は多いだろうが、
    この認識は誤りであり、幕府は海外の情報をかなり詳しく把握していた。
    当然、アヘン戦争の顛末の情報も幕府に直ぐに伝わり、
    幕府は日本の国防に強い危機感を持つ。

     

    国防体制の強化に幕府は着手。
    江戸や大坂が外国の侵略を受けた場合、
    天領や大名領、旗本領が入り組んでいると防衛に支障をきたすと考え、
    江戸、大阪の中心部にある大名領と旗本領を、外側にある天領と交換する方針を固め、
    1843年「上知令(あげちれい)」を発布する。

     

    しかし、大名達の既得権益にメスを入れる、この上知令は極めて評判が悪く。
    直ぐに撤回され、実行されることは無かった。
    「既得権益によって、正しい政策が実行できない」
    これは現代日本でも繰り返される、日本の悪しき伝統だ。

     

    1846年7月、アメリカ東インド艦隊のジェームズ・ビッドル提督が、
    2隻の軍艦を率いて江戸湾浦賀沖に来航、開国を求めてくる。
    しかし、この時はビッドル提督が弱腰であったため、
    江戸幕府は要求を拒絶し、開国の意思がないことを伝え退去させる。

     

    そして、その7年後、1853年ペリーが浦賀に来航する。
    幕府はペリーが日本に向かって来ることを1年程前から把握はしていたが、
    有効な対策を何らとれずに、「黒船来航」の日を迎える事になる。

     

    ■借金漬けの大名

    江戸幕府は3代家光の時には既に金銀は掘りつくしており、
    慢性的な貨幣不足、即ちデフレ構造に陥っていた。
    貨幣の改鋳により、一時的にはデフレに脱却することはあっても、
    抜本的な構造改革を実施する事が出来なかったことに加えて、
    改革の後には必ず逆噴射政策が採られてしまったこともあり、常に財政難に見舞われていた。

     

    幕府の台所事情も苦しかったが、地方の大名達はもっと苦しかった。
    歴史の授業で習う「参勤交代」とは、
    「3代将軍家光が、各地の大名を1年おきに領地と江戸を往復させることで、
    その費用や江戸での生活の為の出費を強いると共に、
    妻子を江戸に置く事で一種の人質をとった状態を創り出し、
    大名達の力を削ぐことを狙った制度」
    概ねこのような意味を持った制度だったと教える。

     

    しかし、これは歴史的事実に反する。
    武家諸法度には参勤交代について、
    「連れてくるお供の数が増えると、領民の負担が増えるので相応に人数を減らすように」
    といった趣旨の事が書かれており、財政的に大名達を困窮させる目的は無いことが分かる。

     

    また、妻子を江戸に住まわせることに積極的だったのは大名自身だ。
    今でも日本はコネ社会だが、江戸時代は現代とは比べようもない程、
    コネがモノを言う時代だ。
    妻子を政府のある江戸に住まわせる事で、
    顔つなぎをして利権にありつこうと大名達は考えており、その為に積極的に妻子を江戸に置いたのである。

     

    参勤交代は大名の弱体化を狙ったものではないが、
    時代が下るに従い、各藩の財政を圧迫するものになっていった。
    家光の代までは、幕藩体制の安定化のために、幕府はバラマキ政策を実施していたが、
    金銀が枯渇することで、バラマキ政策は終了する。
    現代風に言うなら、地方への補助金がカットされるようになり、
    そうなると江戸にある大名屋敷の維持や参勤交代の費用が重い財政負担になっていく。

     

    ところが、大名達は幕府が気前よく補助金のバラマキを行っていた時の贅沢を捨てられない。
    特に江戸にいる大名の妻たちは、高価な絹織物を大量購入する贅沢を改められなかった。
    「美しくなりたい」という女性特有の願望が、
    国家に大きなダメージを与える例は歴史上数多く見られる。

     

    「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、
    江戸は頻繁に大火に襲われ、その都度莫大な復興費用が発生する。
    大名も江戸屋敷の修繕費用として莫大な支出が必要となる。

     

    大名が取り立てる税も幕府と同じく米であり、米を市場で売却することで現金を手に入れる。
    デフレが強まり米価が低迷すると、大名の財政事情も極めて悪化する。
    幕府は改鋳と言った方法で凌ぐ事もできたが、大名はそうはいかない。
    不足した資金を大名は商人からの借金で補うようになっていく。
    こうして、大名は借金漬けとなり、幕末期には返しきれない程に膨れ上がっていた。

     

    戊辰戦争でなぜ幕府に味方する大名が少なかったのか?
    明治政府の行った「廃藩置県」という、
    大名の既得権益を奪うような政策に対する抵抗がなぜあまり無かったのか?
    その大きな理由は、大名が抱えていたこの莫大な借金にあったのである。

     

    ■変化に対応できない江戸幕府のシステム

    国際情勢の変化に対応するには、日本社会も変化する必要があった。
    だが、幕府も多くの大名もこの変化についていけなかった。
    その大きな理由は身分社会だ。

     

    徳川幕府の設立当初、武士たちは戦士であり、
    戦争で功績を上げる事で出世ができる、明確な評価基準が存在していた。
    しかし、平和な世の中になってこの地位が世襲される事で大きな問題が発生する。

     

    戦士としての「戦闘能力」と官僚としての「事務処理能力」は比例しない。
    まして、親子でそういった能力が遺伝することもない。
    江戸時代の中頃には、
    政治の中枢を担うのは「先祖が昔、大きな戦いで功績を上げた」というだけの者で占められるようになっていた。

     

    70年以上も平和が続く今の日本も、実はこういった江戸時代の状況とあまり変わらない。
    子供の頃に偏差値が高く、良い大学に入ったとしても、
    厳しいビジネスの現場では殆ど役に立たない。
    中小企業に東大生が行けば、周りからは「能力の低い人だ」と思われる。

     

    だから、高学歴者は競争の無い身分社会を構築しようとし、
    公務員や大企業に入る事を望むのである。
    しかし、この身分社会はあくまで日本国内でしか通用せず、
    国際社会では、日本の大企業の社員であることに何の価値もなく、
    激しい競争に勝ち抜かなければ、簡単に蹴落とされてしまう。
    近年、日本企業の存在感が国際的に低下し続けている理由が分かるだろう。

     

    それでも江戸時代には、この身分社会の欠陥を補完する仕組みも同時に存在した。
    それが、身分の頂点にいる将軍の絶対的権力だ。
    将軍の信任さえあれば、
    どんな身分の低い人でも幕府の最高役職である老中を上回る力をもって、
    政治を運営することができた。
    この仕組みによって抜擢されたのが新井白石であり田沼意次だ。

     

    今の日本には将軍のような絶対的な権力は存在しない。
    そのような状況下で、日に日に固定化されていく身分社会をどう打破するのかは、
    日本の大きな課題の1つと言えるだろう。

     

    ■「倒幕」の機運を決定づけた失策

    「黒船来航」で、日本の鎖国体制は事実上終焉し幕府は西欧諸国と様々な条約を結ぶ。
    日米和親条約、日米修好通商条約は教科書でも出てくる条約であり、
    別名「不平等条約」として有名だ。
    「関税自主権の放棄」「治外法権を認める」など日本にとって一方的に不利な条約であり、
    この条約が幕府に対する反感を高めたと教科書は教える。

     

    しかし、これは少し考えるとおかしいな話だ。
    鎖国体制であった江戸時代で、
    「自由に関税を決められない」事に反感をもつ者がそれほどいるだろうか?
    函館、横浜、神戸、長崎、新潟、こういった地域に限定した開国という状況で、
    「外国人に対する裁判権がない」事に反感を持つ者がそれほどいるだろうか?
    不平等条約であることは間違いないが、これが攘夷、倒幕の動機になるとは思えない。
     

    幕府の政策に強い不満を生んだのは、「為替レートの設定ミス」だ。
    日米修好通商条約第5条で決まった為替レートは次のようなものだ。
    「両国の通貨を交換する際に金銀の含有量の重量ベースで交換することを認める」

     

    ペリーが来航した頃に日本で使われていた天保一分銀は「一分」と刻印されることにより、
    4枚で金貨(小判)1枚と交換できた。
    しかし、天保一分銀が含有している銀の量は8.55gだったが、
    天保小判は金6.38g、銀4.84gを含んでいた。

     

    当時の金と銀の交換レートは1:16だったので、
    小判1枚を銀に換算すると106.92gとなる。
    天保一分銀は4枚集めても銀の含有量の合計は34.2gにしかならず、
    もし天保小判と天保一分銀を単純に銀の含有量だけを基準として交換する場合、
    天保小判1枚に対して、天保一分銀は12.5枚必要だった。

     

    このようになっていたのは、金の不足を補うためであり、
    「一分」と刻印することで銀貨の価値を約3倍増させていた。
    天保一分銀はたまたま成分として銀を含んでいるだけであり、
    銀の重量は貨幣価値と関係なくなっていた。

     

    ここで、日米修好通商条約で定められた重量ベースの為替レートが問題になる。
    天保一分銀は金貨に換算すると重量ベースで3倍の価値が刻印で付与されており、
    海外から銀貨を持ち込んで日本の銀貨に両替すると、
    その価値は3倍になるという現象が起こる。

     

    例えばメキシコドルラルの銀の含有量は23.5gなので、
    一枚のメキシコドルラルで約3枚の天保一分銀と交換できる計算となる。
    日本国内では、天保一分銀4枚で小判1枚と交換できるが、
    メキシコドルラル4枚で、天保一分銀は12枚手に入り、
    それを3枚の小判に交換することができる。

     

    重量ベースでメキシコドルラル4枚と小判を直接交換するなら、
    天保小判は0.88枚しか手に入らない。
    しかし、天保一分銀に交換してから小判にすると3枚の小判と交換できる。

     

    片方を重量ベース、片方を刻印ベースで交換すると、
    メキシコドルラルの価値は約3倍に、天保小判の価値は1/3になってしまう。

     

    これを利用して、海外の商人達は日本に銀を持ち込み金と交換し、
    持ち帰った金を自国で銀に交換することで3倍の量の銀を得た。
    商人達は日本国内の金を買い漁る事に奔走し、大量の金が海外に流出する。

     

    幕府はこの為替レート設定のミスに対して対応を迫られ、
    小判の額面価値を1両に固定したまま、金の含有量を1/3にする改鋳を実施する。
    幕府は金の含有量が減った分だけより沢山の小判を鋳造できるが、
    世の中に出回る貨幣の量が増えればインフレが起きる。
    それが短期間に、しかも急に増加すれば激しいインフレになる。

     

    改鋳による小判の大量発行は、小判の実質的価値を低下させ、
    武士も庶民も激しいインフレによって生活は苦しくなっていった。
    しかし、現代でもそうであるように多くの人は物価が上昇する本当の理由は分からない。
    そんなとき「開国したことが生活悪化の原因だ」という単純な理論を聞けば、
    多くの人々がそれを信じてしまう。

     

    幕府の為替レート設定のミスは、人々の「攘夷」の感情に火を付け、
    開国を推進した幕府は人々の怒りを買ってしまう。

     

    一方、諸藩は借金の返済で破産寸前だった状況を打破するため、
    「藩札」と呼ばれる「発明」をする。
    藩札は金、銀や米などを裏付けとなる資産とした紙幣だ。
    幕府は金の保有残高を重視してため、
    大抵の藩は幕府との対立を避けるため、銀を裏付けとして藩札を発行していた。

     

    幕府の為替レート設定のミスは、金の海外への大量流出を招くが、
    逆に銀は大量に国内に入ってくる。
    江戸末期、各藩は大量の藩札を発行していたが、
    銀の大量流入によって、藩札と銀が上手くバランスすることになる。
    幕府の為替レート設定のミスは、藩の財政問題にとっては大いにプラスであった。

     

    ■薩長同盟の謎

    「明治維新」の政治的プロセスは、
    一会桑(徳川慶喜、会津藩、桑名藩)、薩摩藩、長州藩、
    この三者を見れば分かるようになっている。

     

    まず、1864年の「禁門の変」までは、
    軍事クーデターを起こそうとした長州藩と、
    それを阻止しようとした一会桑+薩摩藩の連合軍が対立する。
    そして、ここまでは長州藩の完敗だった。

     

    しかし、その後に突如として薩摩藩と長州藩は同盟を結び、
    薩長の連合軍と一会桑の対立へと変化する。

     

    1868年1月27日から30日にかけての「鳥羽伏見の戦い」からは、
    本格的な軍事衝突である戊辰戦争へとエスカレートし、
    1年半後の1869年5月18日、函館の五稜郭陥落によって、
    薩長連合軍の最終的な勝利が確定する。

     

    倒幕のターニングポイントになったのは、明らかに「薩長同盟」だ。
    この同盟は坂本龍馬から提案されたもので、
    幕府の包囲網によって武器の購入が禁止されていた長州藩に代わり薩摩藩が武器を購入し、
    兵糧米が不足していた薩摩藩に長州藩が米を提供するという取引だった。
    坂本龍馬の「亀山社中(後の海援隊)」はイギリスのグラバー商会の代理店的ポジションで、
    この取引をサポートする。

     

    なぜ薩摩藩は一会桑を裏切り長州藩と結んだのか?
    諸説はあるが、どれもこれといった決め手に欠くものばかりであり、日本史の謎の1つだ。

     

    ■必要とされた明治維新

    鳥羽伏見の戦いの時点では、薩長の連合軍よりも幕府軍の方が3倍の兵力があった。
    ところが、徳川慶喜はその「力」の使い方を知らなかった。
    これこそが江戸幕府が滅びた原因だ。

     

    江戸時代、日本経済は飛躍的な発展を遂げる。
    貨幣制度、物流システム、市場経済、保険や金融の分野まで、
    どれをとっても当時のヨーロッパ諸国に負けていない。
    金融分野では日本の方が圧倒的に進んでいた程だ。

     

    しかし、江戸幕府はこの「経済力」を生かし、国際社会に打って出る事をしなかった。
    欧州列強と軍事力の差がそれほど無いうちに、経済力を生かし国際社会に進出していれば、
    恐らく日本は独自に産業革命を起こすことができただろう。
    そして、江戸幕府は別の形として日本政府として今に続いていたかもしれない。

     

    江戸幕府260年の歴史の中で、力を使おうとした人物が何人かはいたが、
    そのような人が死去したり、権力闘争で失脚すると、
    その後に権力の座に就いた者は必ず愚かな「揺り戻し」政策を実施する。
    そんなことを続けている内に、幕府は当事者能力を失い、
    いつしか「烏合の衆」になってしまう。
    これこそが明治維新が必要だった理由だろう。

     

    幕藩体制と明治政府が目指していた先は、それほど大きくは違わない。
    ただ、決定的な違いは試行錯誤を繰り返すスピードだ。
    この違いを生み出した最大の理由は「家格」を基準としたランク主義であり、
    先祖が関ヶ原の戦いで活躍したというだけで、
    政治や経済の要職を担う大きな欠陥を幕藩体制は抱えていた。
    明治維新なくしてこれを打破することは困難だったのだろう。

     

    ■江戸幕府と同じ欠陥を抱えた現代日本

    現代日本社会も幕藩体制のように何をするにもスピードが遅い。
    民主主義は意思決定に時間がかかるシステムだが、民主主義だけが原因ではないだろう。
    同じ民主主義を採用している欧米先進国は、日本ほど遅くはないのだから、
    何か日本特有の問題がある筈だ。

     

    私はその問題とは「学歴」にあるのだろうと考える。
    幕藩体制の「家格」と根本的には変わらない。
    江戸時代と異なり学歴は世襲されないが、
    今の東大生も、10年前の東大生も、20年前の東大生も、
    殆ど変わらないシステムで教育を受け、殆ど同じ知識を詰め込まれる。

     

    政治家も大企業の経営陣も、現代ではその多くが高学歴者だ。
    今の日本の高学歴者とは、「答えがある問題しか解けない存在」だと私は思う。
    「家格」で政治の中枢にいた江戸時代の武士達も同じであり、
    だから、彼らは必ず愚かな揺り戻し政策を繰り返したのだろう。

     

    今の日本も明治維新に相当する強烈な変化が必要な時なのだろう。
    だが、民主主義制度の下では「倒すべき存在」が居ない。
    江戸幕府のような存在は現代にはなく、明治維新のようなやり方は不可能だ。

     

    国民自らが変わらなければならないが、これも不可能に思える程困難だ。
    明治政府は江戸時代の身分制度を徹底的に破壊し「家格」を無価値にし、
    多くの武士達から職を奪った。

     

    現代社会は「学歴」で職を得ている人が殆どであり、
    「学歴」を無価値にすることは多くの国民から今の職を奪うことになるだろう。
    武士は日本全体から見ると少数だったから明治維新は成功したが、
    学歴で身分を得ている者は、現代日本の多数派だ。
    だから、「教育無償化」等と言う愚かな政策に国民は賛同する。

     

    高卒と大卒で生涯所得に差があり、その差を是正しようとするなら、
    本来は「学歴で給与が異なるシステム」を是正すべきなのであり、
    全員を大卒にすることは何の解決にもならない。
    大卒者を増やすという事は、
    結局は東大や京大などの最高学府の身分をより強固にするだけだ。

     

    今の時代だからこそ、我々は江戸幕府がなぜ滅んだのかを学ぶべきだ。
    言うなれば現代は「国民幕府」であり、滅亡に向けて進んでいる状況なのである。

     


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