日本史に学ぶ5−江戸時代に繰り返された改革の意味−

2019.09.11 Wednesday

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    JUGEMテーマ:歴史

     

    約100年続いた戦国時代と言われる内戦時代は、
    飛躍的な生産能力の向上という結果を日本にもたらした。

     

    いつの時代も、戦争は人類社会の進歩を加速させる。
    我々がスマホやインターネットを当たり前のように使い、
    気軽に飛行機で海外旅行ができるのは、第二次世界大戦があったからだ。
    あの大戦が無ければ、今の我々が手にしている生活は、
    もっと未来に実現するものだったのは間違いないだろう。
    だからと言って、戦争が肯定されるべきではないが、
    戦争にはそのような側面が間違いなくある点を無視すべきでもない。

     

    物資が無ければ戦争は遂行できない。
    だから、戦国時代を通じて日本の耕地面積は増加し、
    より効率的に作物を生産するための農業技術も進歩する。
    作られた作物は、素早く戦場に送り届ける必要がある。
    だから、戦略物資を輸送するための交通インフラが著しく発展する。
    戦国時代を通じて強化された経済基盤をそのまま受け継ぎ、江戸時代は始まることになる。

     

    四公六民、五公五民という言葉は多くの人が教科書で習っただろう。
    これは当時の税率を表す言葉で、四公六民とは収穫高の4割を年貢として納め、
    残りの6割を農民の所有とする事を意味する。
    簡単に言うと税率40%ということだ。

     

    ところが、当時の年貢とは基本的に「米」で納める。
    農業技術の発達は、単位面積当たりの収穫量の増加をもたらし、
    江戸時代では多くの農民は「米」以外の作物も作っていた。
    そして、余剰生産物を市場で売却し、様々な商品に交換する。
    米以外の作物を市場で売ることで手にしたお金は課税されない。
    江戸時代には今のような所得税や資産課税というような概念は無かった。
    従って、江戸時代の人々の実質的な税負担はずっと軽かったのである。

     

    ちなみに、現代の日本では税負担率は約43%と財務省から発表されており、
    この数字だけを見ても、江戸時代よりも現代は遥かに重税であることが分かる。
    「厳しい身分制度の下で、庶民は権力に搾取されていた」
    このようなイメージを与える歴史教育は、実は大間違いなのである。

     

    モノの量がどんどん増えるという事は、必要とされる貨幣量も増えることを意味するが、
    当時の貨幣は金貨や銀貨であり、
    新たに金山や銀山が発見されない限り物理的に量を増やすのは困難だ。
    モノの量に対して貨幣量が不足すると、お金の価値が上がりモノの価値が下がる。
    これをデフレ状態と呼ぶ。

     

    デフレ基調が続くなら、人々は価値が上がっていくお金をできるだけ使わないようになり、
    お金が動かなくなる。
    5代将軍綱吉の頃には、国内の金山銀山は殆ど掘りつくされており、
    必要な貨幣の供給が滞る状態が差し迫っていた。

     

    この状況を打破したのが、萩原重秀が発明した「通貨発行益」だ。
    貨幣の金銀の含有量を下げ、新たに大量の貨幣を発行する。
    綱吉が採用したこの重秀のアイデアによって、幕府は莫大な通貨発行益を得る。

     

    また、大商人たちは通貨の大量発行によって、所持している貨幣価値の目減りを恐れ、
    貯蓄を投資に回す。
    その結果が、元禄時代の空前の好景気なのである。

     

    「通貨発行益」により、幕府の財政問題は解決したかに見えたが、
    自然災害という不幸が幕府を直撃する。
    自然災害は日本に住むものが背負う宿命と言っても良いものだ。

     

    元禄景気の絶頂期である1703年には「元禄地震」、
    1707年には「宝永地震(南海トラフ地震)」と「富士山大噴火」。
    更に、1708年には京都で「宝永の大火」が発生し、甚大な被害を出す。

     

    地震や噴火の被害は広範囲に及ぶが、
    被災者の救援や復旧は中央政府である江戸幕府の役割だ。
    そのため、幕府は莫大な財政支出が必要となる。

     

    征夷大将軍とは、天皇を守る役割でもあるので、
    火事で大きな被害を受けた、天皇の居る京都の復興も幕府の重要な役割であり、
    ここでもまた、大きな財政支出が発生することになる。
    これらの支出によって、通貨発行益によって得た財政黒字も瞬く間に底をつくことになる。

     

    ここから、江戸幕府の財政赤字との戦いが幕末まで続く事になる。
    その有様は、現代日本と非常によく似ている。
    江戸時代に繰り返された改革の歴史を見ていこう。

     

    ■江戸幕府を崩壊の一歩手前まで追い込んだ男

    1706年の綱吉の死後、6代将軍・家宣(いえのぶ)の側用人として台頭してきたのが新井白石(はくせき)だ。
    彼は、幕府の財政を立て直すためには、支出を減らして、
    歳入に見合った歳出に抑えるべきという考えの持ち主だった。

     

    現代でも「経済の専門家」なる肩書を持つ人間が、
    TVや新聞などを通じて頻繁に語る考え方であり、
    所謂「財政均衡主義」「緊縮路線」という考え方だ。

     

    現代社会でもこういった考えが多数派であるのと同じく、
    江戸時代においてもこの考え方は主流を占めていた。
    新井白石とはそういった考えを代表する知識人だったのである。

     

    「収入の範囲内に支出を抑える」
    これは、多くの人にとって非常に分かり易く正しいものに聞こえるが、
    国家の財政を家計と同列に捉えた愚かな考え方だと私は思う。

     

    家計は仕事で得る収入の範囲内の支出しか許されない。
    収入を超える支出が必要になると、誰かに借金するしかない。
    しかし、貸主は当然、借主の返済能力を超えて貸し出す事はなく、
    借主の返済能力は、借主個人の寿命を上限に算出される。

     

    一方、国家はこれとは全く異なる。
    国家は今の歳入以上の支出が必要なら、「増税」という形で歳入を増やすことができる。
    また、国家には寿命がないので、
    貸主が“国家が持続すると考える限り”幾らでも借入することができる。
    そして、最も重要な点は「国家は通貨を発行することができる」と言うことだ。

     

    国家がそれを通貨と保証し、皆がその通貨を使えると思っている限り、
    ただの紙切れでも通貨になり得る。
    だから、我々は「日本銀行券」という紙を通貨として利用し、
    この紙を得るために日々働いている。

     

    荻原重秀はこの貨幣の本質に気が付いていた人物であり、
    だからこそ、金銀の含有率を減らすという手法で、大量の新規貨幣を発行し、
    莫大な通貨発行益を幕府にもたらすことができた。

     

    重秀の後ろ盾は綱吉の御用人の柳澤吉保(よしやす)だったが、
    綱吉の死により吉保はすぐに失脚し権力の座から引きずり降ろされる。
    その結果、重秀は後ろ盾を失い、「緊縮派」である白石の台頭を許すことになる。

     

    家宣は将軍就任から僅か3年足らずで若死にしてしまい、
    当時4歳だった家継が将軍に就任する。
    この頃から白石の横暴に歯止めが利かなくなり、重秀は勘定奉行から罷免されてしまう。
    そして、白石は貨幣の金銀含有量を慶長時代に戻すという逆噴射政策を実行する。
    ただでさえ、貨幣が不足気味の市場から、更に貨幣を減らす政策を採ったのである。

     

    白石は金銀が流出したことが幕府の財政問題の本質であると考えていた。
    だから、なるべく金銀が流出しないようにすれば財政が立て直せると思い込んでいた。

     

    「米などの農産物は貨幣よりも貴く、お金は賤しいものだ。
    だから、農業以外の産業は仮の需要でありバブルである」
    こんな思想が、白石が囚われていた考えの根底になる。

     

    白石と同じような思想を持っている人は、現代日本でも決して少なくない。
    特にバブル崩壊を契機にこういった思想は日本社会に蔓延しており、
    バブル期のような派手にお金を使う事を嫌悪する人が多い。
    好景気とは皆が積極的にお金を使う状態を指すのだから、
    お金を使うことを賤しい事と考える思想は、結局のところ「好景気=悪」という事になる。

     

    白石の間違った政策は、激しいデフレと景気の低迷を招く。
    もし、このまま白石が幕府の中枢で権力を行使していたら、
    江戸幕府は景気悪化と財政難で明治維新を待たずに崩壊していただろう。

     

    ■暴れん坊将軍は何を成したのか?

    そんなタイミングで神風が吹く。
    7代将軍・家継はたった3年で病死、その後を「暴れん坊将軍」で有名な吉宗が継ぐ。
    白石の横暴と経済政策の失敗は誰の目にも明らかだったため、
    吉宗は真っ先に白石を失脚させる。

    そして、吉宗によって「享保の改革」が進められることになる。

     

    しかし、吉宗も白石と同じ、もしくはそれ以上の「緊縮派」であり、
    「享保の改革」も当初は白石と同じく「緊縮財政による財政健全化」を目指すものだった。

     

    江戸時代、国家を運営していたのは武士達であり、幕藩体制は武士たちの連合政権だ。
    武士達は米の現物支給で給料を貰っている。
    だから、米価を高値で維持することが幕藩体制、
    ひいては徳川政権を維持するための最優先事項だと吉宗は考えていた。

     

    吉宗の時代、米の値段は一定でも、他のモノの値段が上昇傾向であり、
    米の価値は相対的に低下傾向にあった。
    武士たちは給料として米を得て、それを市場で売る事で現金を手にし、
    米以外の生活物資を調達していたので、
    米の価値が相対的に下がる事は、給料が減る事と同じになる。

     

    江戸時代の初期はまだ日本人の生活レベルは低く、
    米の生産量は人口増加に追い付いていなかった。
    そのため、あらゆる農作物の価格は主食である米の価格に連動していた。
    だが、吉宗の時代には米の生産量は人口を支えて余りあるほど増加し、
    人々の需要は米以外の農作物に移っていた。

     

    そこで、吉宗は米価の高騰政策を採る。
    最も有名なのは世界初の先物取引市場「堂島の米の先物取引」の推奨だ。
    投機的な取引により米価の上昇を期待したが、殆ど成果を上げる事はできなかった。

     

    また、日本酒の製造を推奨し米の消費を増やす事で米価を上げようとした。
    これも殆ど成果を出すことは無かったが、
    現代日本で多種多様な地酒が全国にあるのは、この政策のおかげだ。

     

    凡そ20年間、吉宗は様々な米価の高騰政策を実施するが、その全てが失敗に終わる。
    いつの時代も産業政策や価格統制は成功しない。
    これは歴史が与えてくれる教訓なのだが、この教訓は殆ど活かされない。
    現代日本でも、AIやIT、自然エネルギー技術など、
    政府が産業を選んで、その振興を図ろうとしているが、まず間違いなく失敗するだろう。

     

    吉宗が真の改革を成し遂げようとするなら、
    米を税収の基本とする「石高制」を変えることだった。
    しかし、吉宗はこの抜本的な構造改革を行う事ができず、
    「石高制」という「聖域」は残しつつ、それ以外について徹底的な構造改革をした。
    これが「享保の改革」の現実だ。

     

    吉宗は大岡忠相(ただすけ)から「貨幣の鋳造」を何度も進言されているが、
    当初はこれに一切興味を示さなかった。
    ちなみに、大岡忠相は時代劇で有名な大岡越前だ。

     

    1736年、万策尽きた吉宗はついに忠相の進言を受け入れ、「貨幣の鋳造」に踏み切る。
    これが「元文の改鋳」だ。
    金銀の含有量を半分に減らした新しい貨幣が発行される。
    「元文の改鋳」は「通貨発行益」を狙ったものではなく、
    デフレ対策として貨幣の供給量を増やすことを主目的としたが、
    それでも、幕府に莫大な通貨発行益をもたらすことになる。

     

    また、貨幣の供給量が増える事でデフレが止まり物価は上昇に転じる。
    その動きに連動して米価も上がる。
    ここで、既に吉宗が何年もかけて取り組んできた年貢米徴収強化政策の効果が発揮される。

     

    「貨幣の供給量を増やす」という金融政策の発動が遅きに失したとは言え、
    それ以外のあらゆる政策を徹底的に実施していた吉宗の政治は初めて報われる事になる。
    そして、江戸幕府は財政再建を達成し、
    吉宗は「中興の祖」として家康や家光に匹敵する将軍として尊敬される。

     

    「暴れん坊将軍」で描かれる吉宗像は、その殆どがフィクションだが、
    どうして彼が主役として抜擢されたのか、
    その理由は、この結果を生み出したことにある。

     

    ■現代でも実行されている「寛政の改革」

    吉宗は将軍を引退した後も「大御所」として、
    その生涯が終わる1751年まで権力を握り続ける。
    吉宗の後を継いだ、9代将軍・家重(いえしげ)、10代将軍・家治(いえはる)に仕えたのが、田沼意次(おきつぐ)だ。
    意次は「自由な商売」を推奨し、公共事業によって干拓や交通インフラを整備し、
    初期資本主義経済のインフラ整備に重きを置いた。
    政府が行うべき本来の役割を忠実に実行しようとしたのである。

     

    しかし、意次は時代の変化についていけない人達から恨みを買う。
    そして、変化についていけない人は少なくない。
    これも日本人の国民性と言っても良い特徴で、日本人は極端に変化を嫌う。
    勿論、現代でもこれは全く変わっていないだろう。

     

    元文の改鋳路線は田村意次時代までは継承されるが、
    1786年に10代将軍・家治が死去すると、意次は失脚し、
    経済政策に大きく揺り戻しが起こる。

     

    この揺り戻しが、松平定信(さだのぶ)が行った「寛政の改革」だ。
    11代将軍・家斉(いえなり)は若干15歳の若さで将軍に就任し、
    この若い将軍の後見人となった定信は、新井白石の時と同じように緊縮政策を進める。
    しかも、定信が死んだ後も定信と似た考えを持つ者たちが権力の中枢に居座り、
    1817年に松平信明(のぶあき)が死ぬまで約31年間に渡って緊縮政策が続く。

     

    今でいうところの「失われた30年」と言ったところだろうか。
    だが、現代日本は第二次安倍政権になり多少緊縮路線の緩和は見られるが、
    緊縮の方向を向いていることは変わっていないので、
    これからも時間を失い続ける事になるだろう。

     

    15歳で将軍になった家斉が49歳になった頃、定信の亡霊達の重荷が取れ、
    家斉は人事を刷新する。
    老中首座には、田沼意次と同じ考えを持っていた水野忠成(ただあきら)が就任する。
    これにより経済政策は緊縮路線から転換し、
    忠成就任の翌年の1818年には元文の改鋳から80年ぶりとなる「文政の改鋳」が行われる。

     

    その後、忠成が1834年に死去するまで何度も貨幣の改鋳が実行され、
    市場に供給される貨幣量は増加する。
    このことによって江戸の町は空前の好景気に沸き、「化政文化」が花開く。

     

    ■国際情勢の変化で滅亡へ向かう江戸幕府

    江戸幕府は創始者である家康から3代家光までで、ストックしていた金銀を使い切ると、
    その後は貨幣の改鋳を行って財政の穴埋めをしてきた。
    しかし、この時代に適切な貨幣量を政府が供給することは極めて困難だった。

     

    教科書では「庶民は物価の高騰に苦しんだ」と教えるが、
    これは何の根拠もなく、嘘と言っても差し支えないだろう。
    物価の高騰よりも、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わり、
    「リフレから緊縮へ」「緊縮からリフレへ」と何度も経済政策が真逆に転換されたことが本質だ。

     

    幕府に余裕があるうちは、誤った緊縮政策にも何とか耐え抜くことができたが、
    幕末に近づくほど、その余裕も失われていく。
    忠成の死後、忠成の遠縁に当たる水野忠邦(ただくに)が老中首座になり、
    1841年に大御所の家斉が死去すると、またしても寛政の改革を踏襲した緊縮路線を始める。
    これが「天保の改革」だ。

     

    この時、日本の外に目を向けると、
    欧米列強による「帝国主義」と「植民地支配」は苛烈さを極めていた。
    江戸時代は大きな戦いもなく、鎖国により日本は産業革命からも取り残されていた。
    江戸の時代が始まった頃には、軍事的にも大国だった日本だったが、
    天保の改革の頃には、外圧を軍事力で跳ね除ける力は日本には無かった。

     

    こういった緊迫する国際情勢の中で「寛政の改革」を踏襲した、
    天保の改革などという“お遊び”をやっている暇は、本来はなかった。

     

    ■江戸時代末期と酷似する現代

    現代日本を取り巻く国際環境も大きな変化を迎えている。
    アメリカと中国の対立は、決定的なものになりつつある。
    今はまだ貿易戦争がメインであり、これは過去に日本も通ってきた道だ。
    アメリカは、経済的にも軍事的にも世界の覇者であることを止めない。
    アメリカの覇権に対する挑戦は絶対に許さない。

     

    戦後の日本は正面からアメリカの覇権に挑む事を避け譲歩をした。
    だが、中国は違う。
    国家を統治していることに何の正当性も無い中国共産党は、
    外国に対して絶対に譲歩できない。
    強い事示す事でしか、中国共産党、習近平は中国の統治者の座に座り続けることはできない。

     

    そして、中国はかつてのソ連がそうであったように、崩壊する事になる筈だ。
    ソ連はアメリカに対抗し、米軍に匹敵する軍事力を維持し続けようとして破綻した。
    留まる事を知らない中国の軍事費の増大は、何れ中国の破綻という結果で終わるだろう。

     

    ソ連の崩壊は、東ヨーロッパに大混乱を及ぼした。
    中国の崩壊も同様に東アジア、東南アジアを中心に大きな混乱を引き起こす筈だ。
    アジア地域の人口の多さを考えると、混乱の規模は東欧を遥かに超える事になるだろう。

     

    北朝鮮による統合を望む大統領を選んだ韓国も大きな火種だ。
    韓国にとって既に日本は敵国であり、
    これは日本も韓国を敵国と見なさなければならなくなった事を意味する。
    米韓の亀裂も日に日に大きくなり、米韓同盟の解消は既定路線だろう。

     

    イギリスのEU離脱は、EUという壮大な社会実験の失敗を露にした。
    EUの実態とは、ヒトラーが夢見たドイツ第三帝国に外ならず、
    そう遠くない未来にEUという枠組みは解消する方向に向かうだろう。
    その過程で、既に大量に入り込んでいる移民の排斥が激しくなり、
    激しい対立が起こるだろう。
    これは欧州の歴史が繰り返してきたことでもある。

     

    中東地域は、イスラエルとイランの対立は激化していくだろう。
    湾岸戦争以降、かつてのように大規模な戦争は中東では起きていないが、
    それは、石油価格が安定し、高値を維持している事が大きい。
    石油に依存している中東地域では、
    石油価格の暴落が国民生活に即影響を与え、人は貧しくなると過激な行動に走る。
    中国の崩壊は、大幅な石油需要の喪失を意味し、それは石油価格の暴落に直結する。
    現代において、中東地域と東アジア情勢は実は密接に繋がっているのである。

     

    今の日本を取り巻く国際情勢とは、幕末期と同じか、それ以上に切迫している。
    「無駄を削減!」「借金を減らせ!」「消費増税!」
    こんな愚かな事をやっている余裕は今の日本には本当はない。
    敗戦後、我々の父母や祖父祖母たちが必死になって築いてくれた余裕は、
    もう殆ど残っていないのだ。

     

    ■民主主義下で明治維新は望めない

    天保の改革という失策で、江戸幕府は余裕を使い切る。
    この事は、日本という国家全体の危機も意味していたが、
    その危機を察知し、国家の未来を憂いた者達によって、
    戊辰戦争が起こり、明治維新に繋がっていく。
    国家滅亡の寸前で日本を立て直す事ができた。

     

    果たして現代日本で明治維新のような事は起きえるだろうか?
    残念ながら、その可能性は殆どない。
    何故なら、今の日本は民主主義制度を採用しているからだ。

     

    大久保利通、西郷隆盛、山形有朋、板垣退助、伊藤博文・・・
    後に「明治の元勲」と呼ばれる、彼ら明治維新の立役者達が、
    もしも現代に存在し、議員に立候補したとしたら?
    間違いなく当選することは無い。
    当選できたとしても、スキャンダルで直ぐに引きずり降ろされてしまうだろう。

     

    初代総理大臣である伊藤博文は、名前も覚えられない程の愛人が居たという。
    たった一人の不倫関係で、引きずり落される政治家が現代では数多くいる。
    それどころか、「言葉遣いが悪い」だけで政治的に死んでしまうことも珍しくない。

     

    荻原重秀、田沼意次、水野忠成、江戸幕府の危機を救った彼らも、
    当時、民主主義制度が行われていれば、政治の中枢に登り詰めることは出来なかっただろう。
    彼らの考え方は少数派だったのだ。

     

    大東亜戦争の敗戦も、民主主義が浸透していた事に大きな理由があった。
    戦争を望んでいたかのようなイメージが持たれている旧帝国陸軍だが、
    それは全くの間違ったイメージで、正しく国際情勢を分析し、
    支那への深入りすることがいずれ米国との決定的な対立を招く事を分かっている人はいた。
    代表的な人物は石原莞爾(かんじ)だろう。

     

    彼は天才と言っても良い程の洞察力を持ち、
    将来起きるであろうことをかなりの精度で予測していた。
    だが、それ故に周囲からは「変わり者」と見られ、権力から遠ざけられた。
    この国で「天才」が指導的立場につくことは困難だ。

     

    信長は本能寺で討たれてしまう。
    秀吉の死後、多くの諸大名が味方したのは家康だ。
    突出した才能を社会全体の為に活かせない、
    この日本人の国民性は大きな欠点であり、改めるように努めるべきだろう。

     

    石原莞爾を閑職に追いやり、権力の中枢についたのが東条英機だ。
    彼は真面目さだけが取り柄の学歴エリートであり、
    ビジョンも無く、進むべき道を指し示す事など到底できない人物であった。
    A級戦犯として現代ではイメージが悪いが、東条英機が現代に居たとしたら、
    彼は選挙で当選し、現代でも総理大臣の座に登り詰める事も可能だろう。

     

    全国民の選挙という、現代民主主義の基盤となっているシステムは、
    日本人の国民性に全く合っていないシステムだろう。
    日本人は強く賢い者をリーダーにすることがひどく苦手な民族だ。

     

    民主主義とは「大衆からリーダーを選ぶ制度」だ。
    だから、一人一人の大衆ができるだけ賢くなることに努めなければならない。
    「政治なんて自分には関係ない」「経済政策なんて難しくて分からない」
    こうやって学ぶこと、考えることを放棄するなら、民主主義なんて止めた方が良い。

     

    ■今だからこそ江戸時代から得られる教訓は大きい

    江戸時代に繰り返された改革は、現代日本でも繰り返されている事であり、
    そこから得られる学びは非常に多い。
    何度も訪れた幕府の財政危機を救ったのは、全て「貨幣量を増加させる政策」であり、
    現代で言うところの「金融緩和」だ。
    そして、景気を悪くしたのは全て「緊縮政策」だ。
    まず、この事実を日本国民は知り、素直に受け入れる事だ。

    そこから「なぜ?」を考えると、様々な事が見えてくる筈だ。

     

    アベノミクスとは何も安倍総理独自の特別な政策ではない。
    歴史で何度も証明されている「正しい経済政策」なのである。

     

    「専門家」と呼ばれる人たちは、概ね歴史を軽視する。
    “今”を絶対視し、自身を過信し、自分が作り出した理論を絶対のものと考える。
    要するに現代のエリートとは傲慢なのだ。

     

    彼らエリート達の考えでは「歴史は常に進歩する」。
    だから、明治時代は江戸時代よりあらゆる面で優れており、
    昭和は明治より優れており、平成は昭和より優れている。
    エリート達にとっては、歴史を学ぶ価値は低いのである。

     

    日本はその長い歴史で、何度も「金融緩和」を行っているが、
    一度も「ハイパーインフレ」などになったことは無い。
    唯一、日本がハイパーインフレと言える状態になったのは、敗戦後の1年余りだけであり、
    その最大の理由は、モノの生産能力が空襲により半分にまで落ち込んだからだ。
    歴史に学べば、日本社会に蔓延っている「自称専門家」が如何に間違っているのか分かるだろう。

     

    次回は、絶大な人気を誇る幕末期を中心に江戸時代を締めくくる。

     

     


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