日本史に学ぶ4−本当の江戸時代の姿−

2019.09.09 Monday

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    JUGEMテーマ:歴史

     

    徳川家康が1603年3月24日に征夷大将軍に任命されてから始まった江戸時代は、
    実に265年間と言う長きにわたって続く事になる。
    江戸幕府は鎌倉幕府から始まる武家政権で最長であると同時に、最後の武家政権でもあった。

     

    実は室町幕府も237年間続いており、江戸幕府が突出した長期政権だったわけではない。
    ただ、室町幕府は後期の約100年間は戦国時代と呼ばれる内戦状態であり、
    実質的な統治能力は著しく低下していた事を考えると、
    江戸幕府は長期政権であると同時に、非常に安定していた政権と言えるだろう。

     

    江戸幕府が日本史に類を見ない長期安定政権だった大きな理由は2つ考えられる。
    1つは、信長・秀吉によって進められた中央集権的な国家体制の成果と反動だ。
    信長・秀吉により全国の大名達の力は大きく削がれており、
    豊臣家を打倒するだけで、ほぼ権力は掌握できる状況が整っていた。

     

    同時に、諸大名は旧体制への回帰も切望しており、
    江戸幕府はそのような望みを受けて幕藩体制と呼ばれる、

    地方分権色が非常に強い社会体制を構築した。
    各藩の地方自治権、徴税権を認め、その上に徳川家が君臨する。
    同じ「天下統一」でも、「秀吉の天下統一」と「家康の天下統一」では全く意味が異なり、
    「家康の天下統一」とは全国300余りの諸侯が徳川家に忠誠を誓った中央集権体制ではない。

     

    日本人は基本的に「強いリーダー」が嫌いだ。
    これは日本人の国民性として現代でも受け継がれている。
    強いリーダーに対する憧れを常に持つが、
    実際に強いリーダーが現れると反発し、足を引っ張ろうとする。
    現政権である安倍政権は、たかだか7年程度続いているだけだが、
    安倍政権に批判的な側からは、必ずとって良い程、「独裁的」「強権的」という言葉がでる。
    「強い」事が大きな批判の理由の1つになるのが日本人だ。

     

    信長・秀吉が進めた中央集権的な体制は、
    戦国時代という内戦状態を終わらせる為には有効ではあったが、
    諸大名は将来的な自分たちの立場に不安を抱えていたであろうことは、想像に難くない。
    関ヶ原の戦いや大坂の陣で、徳川方に味方した大名が多かったのはその証左と言える。

     

    2つ目の理由は、戦国時代という内戦を通じて、当時の日本は世界最強国家だった事だ。
    鉄砲の保有数は世界一、豊富な実戦経験を積み練度も高い兵士達。
    当時、東南アジアに植民地を広げていた西欧諸国も、日本には簡単に手を出せなかった。
    だからこそ、徳川政権は「鎖国政策」を採ることができた。
    日本が「外国と貿易をしない」と言えば、他国はそれに従うしか無い。
    当時の日本とは、国際的にもそれほどの力を有していたのである。

     

    外圧が無ければ、基本的に日本は何かを大きく変えようとはしない。
    これもまた、日本人の国民性だ。
    そして、徳川政権を終焉に導いたのは、黒船来航に代表される外圧だ。
    江戸時代の初めには世界最強の軍事大国だった日本は、
    鎖国政策により、江戸時代後期には西欧列強に全く太刀打ちできない弱小国家になってしまう。
    最早、外圧を跳ね除け日本独自の道を進むことは難しくなり、社会を変える必要が生じた。
    それ故、江戸幕府は滅び、明治維新が始まるのである。

     

    日本が日に日に軍事的に弱小国になっていく江戸時代だが、
    逆に大きく発展したこともある。
    それは経済であり、江戸時代とは、経済の主役が武士から大衆に移った時代だ。

     

    現代日本に生きる殆どの日本人は、正月や節分、ひな祭りなど様々な年中行事を行う。
    これらの起源は古事記や日本書紀に語られる日本神話であるものが多いが、
    江戸時代以前までは貴族や武士だけのものであった。
    それが大衆にまで広がるのは、江戸時代からだ。
    江戸時代に年中行事をイベントとして楽しむ文化が定着したから、
    戦後、クリスマスやハロウィンのような、本来は日本には全く馴染みのない文化でも、
    我々は取り入れて楽しむ事ができるのである。

     

    歌舞伎、相撲、落語・・・
    これら、現代でも人気のエンターテイメントの多くは江戸時代に庶民に広まる。
    現代で言う、漫画のようなものも江戸時代から始まり、
    成人誌の原型といえる性的な創作物まで、庶民の間で楽しまれるようになる。

     

    庶民の教育水準も江戸時代で飛躍的に高まる。
    元々、戦国時代でも日本人の識字率は世界的に見ても高かったと言われているが、
    江戸時代になると庶民の8割が、寺子屋に通い「読み、書き、そろばん」を学ぶ。
    だから、瓦版と呼ばれる現代で言うところの新聞も広く普及する。
    「和算(わさん)」と呼ばれる日本独自の数学も発展、
    日本の数学は西洋に肩を並べる世界最高水準のものだった。

     

    明治維新から短い時間で西欧諸国に並んだのは、決して奇跡などではない。
    江戸時代の蓄積があったから成し得たものだ。
    江戸時代、庶民の中に優秀な人材が溢れていたが、士農工商の身分制度の下、
    そうした人材は国家運営を担う立場に登用されることは無かった。
    明治維新によりこの身分制度は撤廃され、
    数多くの優秀な人材が政治や軍事、外交の職を担えるようになった。
    明治以降の日本の発展は、奇跡などではなく必然と言えるだろう。
    江戸時代の260年に渡る蓄積は、現代でも息づいている。
    明治以後、現代に至るまで、我々は江戸時代の蓄積を食い潰して発展していると言っても過言ではない。

     

    終身雇用や年功序列に代表される、日本型経営も江戸時代の影響を受けたものだ。
    徳川政権は、御三家、譜代大名、外様大名と大名間に明確な格付けを行ったが、
    譜代大名と外様大名を決定的に分けるのは、関ヶ原の戦い前後に徳川の臣下になった否かだ。
    江戸時代以前は、武士が主君を変えるのは珍しい事ではなかったが、
    江戸時代は主君を変えない事が美徳とされ、主君を変える事は、ある種の裏切り行為とされた。
    現代日本でも、まだまだ転職がネガティブに捉えられるのは、
    江戸時代に確立したこういった価値観が強く影響している。

     

    これほどに現代に生きる我々に影響を与える江戸時代だが、
    中学生の教科書が江戸時代に割くページ数は20ページ程度だ。
    そして、そんな僅かな時間で教える江戸時代とは、
    「多くの武士も農民も貧しく、ごく一部の権力者に搾取された時代」
    「鎖国を続け、政治、軍事、文化、あらゆる面で取り残された時代」
    「大規模な飢饉と改革が繰り返された時代」
    こんな認識を子供たちに与える教育だ。

     

    そうなってしまう元凶は「入試テスト」だ。
    知識の量と正確性を確認するしかしない今の入試制度の下では、
    発生した出来事を年代順に並べて覚えるしか無くなる。
    何の脈絡もなく、発生した事象を並べても、その意味も価値も全く分からないだろう。
    そして、そんな知識からは何の教訓も得られない。

     

    「入試でそう出るから覚えなさい」
    本来、これはとても理不尽なことなのだが、
    こういった理不尽さに疑問を持たない生徒が日本では優秀と評価される。
    無批判に「なぜ?」を思わず全て受け入れ、大人になるのはとても危険な事だと私は思う。

     

    本当の江戸時代とはどんな時代だったのだろうか?
    膨大な蓄積を今に残してくれた江戸時代について考えてみたい。

     

    ■歴史教育が教える江戸時代

    さて、現代の歴史教科では江戸時代の事をどう教えているだろうか?
    教科書によって表現や構成に違いはあるものの、
    殆どの教科書では江戸の時代の最初の部分で、

     

    「庶民の多くは“百姓”と呼ばれる農民で、その生活は自給自足に近いものだった」
    「土地を持つ有力な百姓は、庄屋や組頭などと呼ばれ、村の自治を行うとともに年貢を徴収して領主に納めていた」
    「幕府は安定して年貢を取るため、土地の売買を禁止し、米以外の作物の栽培を制限した」
    「また、五人組を作り、犯罪防止や年貢の納入に連帯責任を負わせた」
    「“士農工商えたひにん“と呼ばれる厳しい身分制度が存在した」
    「貿易振興から鎖国政策を採り、オランダ以外の来航を禁止する。
    そのオランダの来航も長崎の出島に限定されたものだった」

     

    このような事を教え、「農業や諸産業の発展」や「新田開発や諸工業の発展」と続く。
    「人々は厳しい身分差別を受け、政府は鎖国のような閉鎖的な政策を実行しているのに、
    なぜ経済が発展するのか?」
    本来はこんな疑問が出てくるべきだが、殆どの人はそんな疑問すら持つことはない。
    既に小学校6年間の教育で、「なぜ?」を思う力を子供たちから殆ど奪っているからだ。

     

    歴史教科書はここから奇怪さを増していく。
    江戸時代が始まって約100年後、元禄文化が花開く。
    庶民の間に歌舞伎が大流行し、井原西鶴や近松門左衛門の作品に人々が熱狂する。
    食事は一日三食が普通になり、七草、節分の豆まき、ひな祭り、こいのぼり、盆踊り、
    我々が日本の伝統文化だと思っている年中行事が庶民の間に広まる。
    厳しい身分差別に苦しみ、幕府によって産業振興は抑制されているのに、
    このような派手な発展は、どう考えておかしいだろう。

     

    ところがこの後に、突如として幕府は財政難に陥る。
    そして、その対応として第8代将軍吉宗によって行われたのが「享保の改革」だ。
    ついさっきまで元禄文化で栄華を極めていたのに、
    なんの理由の説明もなく幕府は財政難に陥るのである。

     

    元禄文化の記述を見ると、明らかに日本は経済的に大発展をしている。
    そして、それは大幅な税収増をもたらす事になる筈だ。
    にもかかわらず、幕府が財政難になるということは、
    経済成長に大幅なブレーキがかかる事件が起きるか、
    幕府の徴税機能が著しく低下するか、その両方が同時に起きたか、
    この何れかの筈だが、教科書にはその点についての説明が殆どない。
    テストで問われるのは、
    「元禄時代が終わると財政難になって、享保の改革が始まった」という事実だけだ。

     

    教科書が教えるこの後もすごい展開を見せる。
    農民の間で格差が広がり、農民はその事に不満を溜める。
    そして、その不満が爆発し、農村では多くの村が団結して、
    領主に年貢の軽減や不正を働く代官の罷免を要求する百姓一揆が頻発する
    このような流れを教科書は教える。

     

    社会全体が豊かになっているのに、農民の間に格差が広がるとはどういうことだろう?
    貨幣経済の発展で、多くの人が今までより良い生活をしているのに、
    何が不満だと言うのだろう?
    一部の人が豊かになっただけで、大部分の人は貧しいまま取り残されたのだろうか?
    だとしたら、様々な年中行事が社会全体に広まって言った事実と矛盾する。

     

    しかも、教科書ではこのような時代にも関わらず、
    「人々は助け合いながら生活を高め、人口の増加も見られた」と教える。
    人口増加は、少なくとも増えた分の人口を支えるだけの食料や水、生活必需品の供給も増加していた意味を持つ。
    貧しくなって百姓一揆が増えているのに、人口も増える・・・
    全く辻褄が合わない事が、教科書上では起きているのである。

     

    この後、教科書は三大改革の残り2つ(「寛政の改革」「天保の改革」)を経由して、
    幕末へと移っていく。
    教科書によれば、江戸時代の改革とは突如として発生した幕府の財政難に対する取り組みだ。
    しかし、幕府は財政難を解決することができず、
    そうこうしているうちに、ペリーが浦賀に来航、
    弱腰外交で不平等条約を結び、開国路線を採る事で、国内の不満が高まる。
    そして、薩長を中心とした討幕運動が始まり、大政奉還、戊辰戦争を経て明治維新に至る。

     

    我々日本人が、学校教育で学ぶ江戸時代とはこのようなものだ。
    殆ど何の意味もない知識を詰め込まれ、それをどれだけ正確に記憶しているかテストされる。
    そして、そのテストの順位がその後の生活の質に大きな影響を与える。
    「なぜ?」を思わない人ほど、この国ではエリートと呼ばれるということであり、
    そんな国でイノベーションが生まれないのは当然と言える。

     

    ■江戸時代を理解するための3つの要素

    教科書が教える1つ1つの事象は、その殆どが事実だ。
    重要なのは、「なぜその事象が起きたのか?」という点であり、
    この点に無関心なままでは、歴史を理解し、何かの教訓を得る事はできない。

     

    江戸時代を理解するには、3つの要素を抑えておく必要がある。
    1つ目は、徳川政権の「財政構造」だ。
    当時、今でいうところのGDPは米の収穫量で表しており、その規模は約3000万石だ。
    今の日本政府の税収とは簡単に表現するなら、「名目GDP×税率」となるが、
    徳川政権の徴税権は400万石ほどしかなかった。
    地方分権が強い江戸時代は、
    徳川家は全国3000万石分の中央政府の役割を果たす必要があるのに、
    徴税権が400万石分しかなく、この事が江戸幕府の慢性的な財政難の根本原因になる。

     

    2つ目は、「金融政策」だ。
    秀吉により全国的な通貨制度がある程度整備され、江戸幕府も秀吉の政策を踏襲する。
    金・銀・銅の3種からなる三貨制度が江戸時代に整備されるが、
    秀吉時代と同様、徴税は米を基本としていた。
    幕府も大名も米で徴税し、臣下に米で給料を支払い、
    その米を市場で貨幣に変えて政治や自分たちの生活の糧にしていた。
    つまり、現代で言うところの「管理通貨制度」が存在していなかった。
    この事は江戸幕府滅亡の遠因となる。

     

    3つ目は、「社会制度」だ。
    江戸時代、殆どの庶民は専業農家であったようなイメージを持っている人は多いと思うが、
    安土桃山時代から庶民に占める専業農家の割合は極めて少なく、
    過半数以上が非農業従事者だった。
    つまり、現代日本の社会構造とそう大きく変わらないのである。

     

    ■徳川3代が行ったバラマキ政策の意味

    この3つの要素を頭に入れ、歴史教科書で語られる事実を見ていくと、
    ”本当の江戸時代の姿“が見えてくる。
    江戸幕府とは言うなれば「大名の連合政権」だ。
    将軍は横並びの大名の中でトップにいるというだけで、
    将軍と大名の関係は、現代の総理大臣と都道府県知事の関係とは異なる。
    ところが、将軍と大名、それぞれの役割分担は総理大臣と都道府県知事とあまり変わらない。

     

    総理大臣を長とする日本政府は、日本全体に対しての責任を負い、
    全国のインフラ整備や外交、国防を担う。
    自然災害に対する救助や復旧も、主導するのは政府だ。
    その費用として政府は、各都道府県に住む全ての住民から税金を徴収する。
    都道府県知事は、管轄する都道府県内の地方行政を担い、住民サービスを提供する。
    費用は地方税と国からの地方交付金で賄われるが、
    地方税の税率を決めるのは政府だ。

     

    一方の徳川政権も、徳川家が日本全体に対しての責任を負う。
    徳川家が今でいうところの日本政府だ。
    だが、徳川家が徴税可能なのは、「天領」と呼ばれる直轄地からだけだ。
    江戸幕府は現状勢力からの支持無くしては成立できないので、
    年貢の取り立てという各地の大名の権利を奪う事はできない。
    天領からの税(年貢)だけに頼り、中央政府としての役割を果たそうとするなら、
    支出が嵩み、いずれ財政難に陥ることは明白だ。

     

    無論、この事を家康は理解していた。
    だから家康は、秀吉もそうしたように全国のめぼしい金山、銀山を全て手中に収めた。
    そうして手に入れた膨大な金銀を用いて、
    ついに日本は本格的な自国通貨を鋳造、流通させることができるようになった。

     

    家康から家光までの徳川三代の将軍は、幕藩体制を安定させることに最大のプライオリティを置き、
    全国の諸侯や公卿に反乱を起こさせないように、徹底したバラマキ政策が行われる。
    家光によって造営された日光東照宮はそんなバラマキ政策を象徴する建造物だ。
    徳川三代によって行われたバラマキ政策は、
    現代で言うなら金融緩和と財政出動を同時に行ったことになる。
    そして、これにより日本は大きな経済発展を成し遂げ、元禄文化が花開く土壌を作った。

     

    しかし、金銀の埋蔵量には限りがあり、いずれ枯渇する。
    家光が将軍になって20年ほど経過する頃には金銀の埋蔵量は底をつき、
    極端に生産量が落ち込む状態になっていた。
    それでも、徳川家には莫大な金銀のストックがあり、家光の代では使いきれず、
    4代将軍・家綱は約600万両を相続することができた。
    だが、既に金銀の埋蔵量は枯渇しているので、
    これ以降は手元にある金銀を取り崩しながら、構造的な財政赤字の穴埋めをするしかない。
    「600万両使い切ったら終わり」という過酷な財政運営が江戸幕府に課せられるのである。

     

    ■江戸幕府を延命させた発明

    「元禄時代」は1688年〜1704年の期間を指し、空前の好況を謳歌していた時代だ。
    時の将軍は綱吉であり、幕府の保有する金銀は相当逼迫していた。
    それなのに、なぜ空前の好景気が訪れたのか?
    それは「通貨発行益」と言う”発明“に由るものであり、
    この発明があったから、江戸幕府はその後の約200年を乗り切ることができた。

     

    教科書では「貨幣の改鋳」と呼び、貨幣に含まれる金銀の含有量を減らし、
    同じ金銀の量からより多くの貨幣を作る。
    そうやって増加した分を幕府の財源に組み込む。
    増加した分が「通貨発行益」となる。
    この発明をしたのは、当時勘定吟味役だった荻原重秀と言う人物であり、
    彼は貨幣の本質を見抜いていた人物と言えるだろう。

     

    現代日本で、我々は紙幣を使っているが、これはただの紙に過ぎない。
    このただの紙を、我々は必要なモノと交換することができる。
    だから、この紙を貨幣(紙幣)として扱うのであり、
    モノとの交換を保証しているのは政府だ。
    つまり、貨幣の本質とは「政府が貨幣と保証したもの」であり、
    その意味では、ただの石ころですら貨幣になり得るのである。

     

    重秀はこの事に気が付いた人物であり、もしも彼の考えを発展させることができたなら、
    江戸時代の中期には、現代のような「管理通貨制度」が確立され、
    江戸幕府の滅亡は史実より先に延び、もしかしたら今も続いていたかもしれない。

     

    しかし、「管理通貨制度」は、寛政の改革と天保の改革によって否定されてしまう。
    この結果、経済は大混乱し、幕府は大きなダメージを被ってしまう。

     

    ■歴史に学ばない現代日本の経済政策

    ところで、現代日本は「管理通貨制度」を採用している。
    荻原重秀は管理通貨制度の考え方を採用することで、
    財政破綻まで秒読み状態だった江戸幕府の財政を立て直すが、
    寛政の改革、天保の改革の2つの改革で管理通貨制度は否定され、
    江戸幕府は財政難を繰り返し、徐々に弱体化し、最後は滅びてしまう。

     

    こういった視点で江戸時代を知ると1つの疑問が生じないだろうか?
    「管理通貨制度を採用している現代日本で、なぜ財政危機が叫ばれているのか?」
    という疑問だ。
    平成に入ってから、ほぼ常に財務省や多くの経済の専門家を自称する人達から、
    財政破綻の危機が語られ、国民一人一人に莫大な借金が背負わされていると言われる。
    そして多くの国民は、そんな彼らの言葉を実に素直に信じている。
    だから、「消費税増税もやむなし」となる。

     

    なぜ、平成の30年間で日本は殆ど経済成長できなかったのか?
    なぜ、アベノミクスで多少なりとも経済成長が実現できているのか?
    江戸時代を正しく学べば、その答えは見えてくるだろう。

     

    アベノミクスの1本目の柱は金融緩和だ。
    家康から家光までの3代の将軍が行った政策と同じだ。
    だが、アベノミクスは徳川三代が同時に行った財政出動が全く不足している。
    一応、2本目の柱として「機動的財政出動」を掲げてはいるが、
    これは殆ど実行されていないと言って良いだろう。
    だから、多くの国民が景気回復をなかなか実感できない程度の効果しか出せていない。

     

    なぜ、財政出動ができないのか?
    その理由も江戸時代を知る事で見えてくるだろう。
    現代の日本とは、徳川三代の政策と寛政の改革、天保の改革を同時にしているようなものだからだ。

     

    現代日本は民主主義の国だ。
    有権者である我々日本国民の意思を政府は無視できない。
    消費税8%への増税を1度延期したことからも分かるように、
    安倍総理は本心では増税に後ろ向きである筈だ。
    それでも、10%に増税するのは、国民が正しい選択をできないからだ。

     

    自分たちの負担が増える増税を、「やむなし」と考える国民がこの国には半数近くいるのだ。
    権威にひれ伏し、無批判にエリートと呼ばれる輩の言葉を真に受ける。
    これもまた、正しい歴史教育がなされていないからだろう。
    江戸時代を知ることは、正しい経済政策を選択できる助けになる筈だ

     

    次回は江戸時代に繰り返された「改革」と言う名の失策を見ていきたい。

     


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