日本史に学ぶ3−日本最大の権力者、豊臣秀吉の失敗−

2019.08.10 Saturday

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JUGEMテーマ:歴史

 

豊臣秀吉、彼は日本史のみならず世界史を見渡しても、
これ以上の出世をした人物が見当たらない唯一無二の存在だ。
通説では、秀吉は農民の出とされているが、
史学としては確定的な史実を示すことはできていない。
だが、何れにしても相当に低い身分であったことは間違いない。

 

現代の日本社会は、制度としての身分は皇室とそれ以外の2つしかなく、
全ての日本国民は制度上では同じ身分だ。
だから、秀吉のような平民が内閣総理大臣になることは理論的には可能だが、
現実的には不可能であろう。
「シングルマザーに育てられ、世帯年収は200万円、賃貸住宅で暮らし、学歴は中卒」
このようなプロフィールの国民が、内閣総理大臣にまで上り詰める可能性は、
たとえ高いポテンシャルを有していたとしても、殆どゼロと言って良いだろう。
秀吉とは、現代社会ですら殆ど可能性がない境遇から天下人にまで上り詰めた人物であり、
世界史を見てもこんな例は無い。

 

また、この点はあまり知られていないが、
秀吉が手にした権力は、歴代の日本の権力者達が手にしたそれと比較して、
最も大きなものだった。
その事は、「豊臣」の氏を見ても分かる。

 

「氏」と「姓」は混同される事が多いが、全く違うものだ。
「氏」とは事実上または系譜上、祖先を同じくする同族集団を指し、
「姓」とは1つの家族という集団を指す。
だから、姓が違っていても氏が同じということは当たり前に存在する。

 

「氏」についての詳細は省くが、
簡単に言うと日本において「氏」とは神に由来するものであり、
人間が自由に作ることはできない。
基本的に神の血族である天皇から賜るものであり、そうして作られた氏も皇室に由来する。


更に、「豊臣」を除くと天皇が授けた「氏」は4つしかない。
藤原氏、橘氏、源氏、平氏の4つだ。
藤原氏は大化の改新で有名な藤原鎌足(中臣鎌足)を祖とする。
橘氏は飛鳥時代末期に、元明天皇から女官であった県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)が姓を賜った事から始まる。
彼女は天皇の乳母を務めるなど、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった人物だ。
源氏・平氏はどちらも天皇を祖に持つ氏である。

 

豊臣氏はこれらに続く5つ目の「氏」として秀吉が天皇から賜ったものであり、
これ以降、日本で新しい「氏」は誕生していない。
この「氏」の制度は、明治時代に廃止されているので、
憲法または法律を変えない限りは、今後も新しい「氏」が誕生することはない。

 

豊臣氏は、藤原氏に代わる新たな摂関家の氏として創始された。
摂関家とは摂政や関白に任ぜられる家柄であり、平安時代から藤原氏が独占しており、
秀吉自身が関白に就任する際には、前関白の近衛家の養子となり、氏を藤原氏に改めている。
その後、豊臣氏が創始され、短い期間ではあるが豊臣氏が朝廷を完全に支配する。

 

秀吉がこれほどの権力を持つに至った最大の理由は、
信長の路線を継承し、中央集権的な新しい国家体制を構築したからだ。
信長はゼロから1を生み出し、それを10程度にまでは成長させるが、
本能寺の変後に、信長の後継者となった秀吉は10を100にまで成長させ、
日本国内を完全統一することに成功する。
信長と秀吉を比べるなら、ゼロから1を生み出す能力を除き、
殆どあらゆる面で秀吉は信長を凌駕する能力の持ち主だったと言えるのでは無いだろうか。

 

だが、信長が示したビジョンを達成したところで、秀吉は失敗する。
そのことにより、日本史上最大の権力を有した豊臣政権は、
後を継いだ息子・秀頼の代であっさりと徳川家康の手によって幕を下ろす事になる。

 

秀吉の立身出世、頂点に立ってからの失敗、そしてその後の没落。
この一連の流れは、戦後の日本社会の歩みと酷似している。
戦後の焼け野原から、アメリカを中心とした西側社会が示した道の上を、
追い付こうと必死に走った日本は、世界が驚く速度で対米7割に迫る経済大国に成長した。
しかし、アメリカと肩を並べる先頭グループに立ってからの日本は失敗の連続であり、
徐々に衰退していき、今もこの衰退の流れは止められていない。

 

秀吉の成した事を知るということは、実は信長の目指したビジョンの答え合わせとなる。
そして、秀吉の失敗を知ることは、現代にも活かせる大きな教訓を得る事になる。
今回は豊臣秀吉を中心に日本史を見てみたい。

 

「清須会議」が示す、皇位継承順位の大切さ

秀吉が天下人の道の扉を開けるのは、
本能寺の変の後、間もなく行われた「清須会議」だ。
これは、信長の死に伴う織田家の跡継ぎ問題及び領地の再分配に関する会議だ。


信長は生前に、既に家督を息子の信忠に譲っていたのだが、
本能寺の変において、当主信忠も明智軍の攻撃を受け二条新御所で切腹してしまう。
信長から家督を継いで間もない信忠は、自分の次の後継者をまだ指名していなかった為、
次の当主を誰にするか決める必要が生じてしまったのである。

 

少し話はそれるが、血統での継承を基本とする枠組みの中で、
予め後継者の順位をできるだけ多く決めておく事は重要だ。
もしも、信長か信忠が予め継承順位を10位くらいまで定めていたなら、
その順位に従って自動的に次の織田家の当主は決まり、
恐らく織田政権は新しい当主の下で継続していただろう。
秀吉が天下人になることは無く、織田家の重臣として生涯を終えた可能性は高い。


日本の皇室が、なぜこれほど長く続いているのか?
その大きな理由は、皇室だけが皇位継承のルールと順位を明確に定めていたからだ。
皇室の存続を願うなら、旧宮家を戻し皇位継承者の数を増やすことが急務なのは、
清須会議の経緯を見ても明らかだろう。

 

■野心無き者が力を持つと身を滅ぼす

秀吉は、明智光秀を打ち取った最大の功労者として清須会議に参加する。
信長は子供が多かった為、次男・信雄がいたが、
信雄は弟である三男・信孝と非常に仲が悪く、信雄に家督を継がせると、
信孝が間違いなく反乱を起こすだろうという話で参加者は一致する。

 

更に、信長と共に死亡した長男の信忠には、既に家督が譲れていることもあり、
信忠の嫡男であり、当時まだ2歳であった三法師(後の織田秀信)に跡継ぎに決まる。
無論2歳の当主など何もできないので、傅役(もりやく)に堀秀政が就任する。
秀政は秀吉と非常に親しい間柄であり、秀政を通じて秀吉は織田家の実権を掌握していく。

 

領主のいなくなった信長の直轄地と光秀の領地の分配でも、秀吉は大きな恩恵を受ける。
秀吉に分配された領地は、山城・丹波全般と河内の一部であり、
全て政治の中心地である京都周辺だった。
秀吉は今後「天下統一」を進めるに当たり、大きな地の利を得たのである。

 

秀吉にとって最大の幸運は、信長家臣団で唯一秀吉に対抗できうる力を持っていた、
柴田勝家が、天下への野心などとは無縁の男だったことだ。
それゆえ、勝家は秀吉が京都周辺で着々と天下取りの動きを進めている間も、
自領である越前を動かなった。
勝家は最終的には秀吉と戦う事になり、その戦いに敗れ自害することになる。

 

「野心的」という言葉は日本ではあまり良い意味では捉えられないが、
力があるのに野心を持たないと存在とは、他者に警戒され結局は滅びるという教訓だ。


憲法9条を掲げ、どれだけ世界に対して「平和国家日本」をアピールしても、
世界3位の経済力、世界屈指の軍事力、高い技術力、こういった強大な力を持つ日本は、
諸外国から見ると常に警戒すべき対象なのである。
中国や韓国、ロシアといった隣国が敵対的なのは、歴史的経緯や反日教育のせいだけではないのである。
勿論、唯一の同盟国であるアメリカも常に日本には警戒心は抱いている。
このことを忘れ、「攻撃される筈はない」等と高を括っていると、
柴田勝家のように滅ぼされる運命が待っているのである。

 

天下統一の完成

清須会議後、秀吉は邪魔者を次々に排除する。
まずは次男・信雄と三男・信孝の争いに乗じて、秀吉は信雄の側で、
最大のライバルであり、信孝の側に付いた柴田勝家と対決する。
この戦いは秀吉の圧勝となり、信孝と勝家は自害する。
翌年には仲間だった信雄と対立、信雄は徳川家康を引き入れ秀吉に宣戦布告をする。
いわゆる「小牧・長久手の戦い」だ。
この戦いは信雄・家康側が勝利を収めるが、
それはあくまで局地戦での勝利に過ぎず、戦争全体では秀吉の圧勝だった。

 

1584年11月、秀吉は圧倒的に有利な条件で信雄と単独講和を成立させ、
信雄は事実上、秀吉の臣下となる。
この時をもって、秀吉は信長の後継者として武家の棟梁と認識されるようになる。
家康は戦略的には完敗しているにもかかわらず、
素直に秀吉の軍門には下らなかったが、
1586年10月、天下の形勢には勝てず、大阪城に出向き秀吉に臣従を誓う。

 

家康を臣従させる凡そ1年前には、紀伊・四国・越中は既に平定。
1587年には九州を平定。
1590年に関東で最大勢力を誇っていた北条氏の討伐を開始(小田原征伐)。
この動きを見て、東北の最大勢力、伊達政宗を始めとする奥羽の大名達は小田原に参陣し、
事実上秀吉の臣下となる。


その後、奥羽地方の一部の国衆が秀吉に反旗を翻すが、1591年、総勢6万の大軍を派遣しこれを鎮圧する。
これをもって、秀吉による天下統一は完成し、
約100年続いた戦国の世は終わりを迎えることになる。
信長の死から約9年というスピードであった。

 

■秀吉が行った新日本の基礎工事

天下人秀吉は、信長の行った政策を引き継いで着々と改革を進める。
「城割」「検地」「刀狩」「関所の廃止」など、その分野は多岐に及ぶが、
そのどれもが、信長がやろうとして、中途半端に終わっているものだった。
秀吉により信長改革が全国的に進められた事は、
その後の徳川幕府の土台となり、この土台があればこそ、
江戸時代は260年にも長きに渡り続いたのである。

 

「城割」によって、旧体制(室町時代以前)への回帰を求める勢力が現れたとしても、
拠点となる城が軍事的には殆ど機能しない。
江戸幕府は豊臣政権に比べると、遥かに地方分権型だったのにも関わらず、
幕末期を除くと、殆ど反乱が起きていないのは、「城割」に由るところが大きい筈だ。

 

「検地」は江戸時代にも行われており、形を変えて現代にも受け継がれている。
現代で言うところの「国勢調査」「確定申告」などがそうだ。
また、日本の戸籍制度の祖も秀吉の「太閤検地」と言ってよいかもしれない。
収入を正確に測り、それに税率をかけて徴税を行うという土台が完成したのである。

 

「刀狩」は農民一揆を防ぐ事に大きく寄与した。
豊臣政権以降、農民一揆は起きたとしても、その規模はかなり小さくなる。
現代日本において、民間人が武器を持たないのは当たり前であり、
例えば補導された少年がナイフ1本でも所持していれば、厳しく追及される。
諸外国に比べ、日本では凶悪犯罪の発生率が極めて小さく、
政治的なデモ活動などでも、死人が出るような事態は極めて稀だ。
このような社会を作れたのは、「刀狩」の影響が大きいだろう。

 

「関所の廃止」は、戦国時代の戦時体制とも相まって、
国内の物流インフラを飛躍的に発展させた。
江戸時代には「お伊勢参り」に代表されるように、
庶民の国内旅行が広まるが、その大きな理由の1つは、この国内インフラの発達だろう。
戦国時代以降、日本では大規模な内戦は発生していないので、
今でも、この時代に整備されたインフラを整備・拡張することで、
世界でも最高レベルの交通インフラが張り巡らされている。

 

■徳川の世に禍根を残した貨幣政策

他に、秀吉の政策で注目すべきは「貨幣価値安定化政策」だろう。
これも信長政策の1つではあったが、この分野では信長は殆ど成果を出せなかった。
しかし、これは信長の能力が不足していたとか、やり方が悪かった等が原因ではなく、
仕方のない結果だ。
全国統一が道半ばの状態で、国内の貨幣価値を安定させる事は至難の業であり、
秀吉が天下を統一することによって、ようやく安定した通貨制度を整備できる環境が整ったのである。

 

室町時代以前、日本の貨幣は支那(明)の銅銭を使用していた。
貿易によって支那から銅銭を得て、国内通貨として利用しており、
当時の日本は言うなれば「中央銀行が不在」という状態であった。
しかし、支那の銅資源が枯渇し、支那との貿易も途絶してしまう事態を受けて、
日本は慢性的な貨幣不足、つまりデフレ状態であった。

 

そんな状態に拍車をかけるように、戦国時代による戦時体制は、
国内のインフラ能力や生産能力の飛躍的な向上をもたらす。
つまり、モノの量の増加に貨幣量が全く追い付かない、超デフレ状態に陥る。
この状態を打破するために、大名たちはそれぞれの勢力圏で独自通貨を発行し、
日本にはローカル通貨が乱立する状態になる。
例えるなら、東京では円、大阪ではドル、福岡ではユーロ・・・
そんな状態をイメージすると分かり易いだろう。


勿論、ローカル通貨同士は交換可能ではあるが、その交換レートは不安定だった。
室町幕府の力が強ければ、幕府が一括して交換レートを定めるような事や、
幕府が通貨を発行する事も可能だったろうが、
応仁の乱以降、機能不全を起こしていた室町幕府には不可能であった。

 

貨幣価値が不安定になると、人は交換手段に過ぎないお金を信用しなくなる。
そして、モノそのものが貨幣の役割を兼ねるようになる。
所謂「物品貨幣」だ。
価値が安定していた米や絹などを貨幣の代わりに、様々な支払いに使用する。
持ち運びが不便なので、実際には信用取引が行われ、
中央政府が、所管の物品を保管する倉などに支払いを命じた書類を出し、
その書類が現代で言うところの小切手のような役割を果たす。

 

秀吉は貨幣価値の安定を目指し、
年貢(徴税)や少額決済には米を「物品貨幣」として使う事を容認すると共に、
高額決済には金貨や銀貨を使う政策を採った。
全国の主要な金山・銀山を直轄領とし、一定の品位を保った金銀貨を大量に鋳造する。
同時に全国的な「太閤検地」によって、
換金性に富んだ米を税として、中間搾取を極力排除して確実に徴収する。
日本史上最大の権力者、豊臣秀吉の権力の源泉はこの貨幣政策であろう。
今も昔も変わらず、経済を支配するものが最大の権力者なのである。

 

但し、物品貨幣を容認した秀吉の貨幣政策は、
目の前の課題解決には有効ではあったが、将来的に大きな禍根を残す事になる。
秀吉の貨幣政策は、基本的に徳川幕府にも継承されることになるが、
物品貨幣を基盤にした徴税システムである「石高制」に、
徳川幕府は苦しめられることになる。

 

■日本の生命線「シーレーン」

信長が目指した国造りを、ほぼ達成した秀吉は海外に向けて動き出す。
「秀吉の朝鮮出兵」とも呼ばれる、「文禄・慶長の役」だ。
この2度に渡る朝鮮との戦争の原因を、
「戦国時代の終結により不要になった戦力を国外に振り向かせて臣下を統制しようとした」
「秀吉の征服欲、名誉欲」
このように分析、結論付けた説は古くから唱えられている。

 

確かにそういった側面もあるのだろうが、主目的は違うところにあると私は考える。
朝鮮半島への出兵は天下統一の2年後(1592年)に始まるが、
本能寺の変の3年後(1585年)に、秀吉は出兵計画について既に語っている。

 

秀吉は信長のビジョンを最も理解し、共感していた人物だろう。
だからこそ、天下統一後も信長政策を着々と実行してきた。
信長は間違いなく海外を見据えており、
その主たる対象は、東南アジア地域に急速に勢力を伸ばしていたスペインやポルトガルだ。

 

秀吉も信長と同じものを見ていたとするなら、
秀吉の意図とは、スペインやポルトガルといったヨーロッパ勢力に対抗するため、
海禁政策(鎖国政策)を採る支那(明)に軍事的な圧力をかけ、
東シナ海、南シナ海の主導権を握る事にあったのでは無いだろうか。
それは、現代で言うところの「シーレーンの確保」であり、
支那の征服などは全く意図していなかった筈だ。
秀吉がヨーロッパに対して危機感を抱いていたことは、
1587年のバテレン追放令を見ても明らかだろう。

 

海洋国家である日本にとって、「シーレーンの確保」は国防上の最重要事項だ。
だが、歴史を見るとこの事を正しく理解している為政者は非常に少なく、
現代においても理解が進んでいるとは言い難い。
2015年の平和安全法制の議論で、適応の例として最初に安倍政権が出したのは、
中東ホルムズ海峡での掃海任務だった。
これは、シーレーンの確保を考えるなら極めて正しい。
だが、野党は「日本からそんな遠方に自衛隊を出すのか」
「地球の裏側まで行って戦争するのか」と非難し、
少なくない国民も「なぜ、そんな遠くまで行くのか?北朝鮮に対応する方が重要」
そんな風に考えた。
日本にとってシーレーンがどれだけ重要かを、全く理解していないという事だ。


朝鮮半島は日本にとって、全く重要ではないとまでは言わないが、
思うほど国防上の脅威ではないと私は考える。
まして、内陸部の北朝鮮など無視しても問題ないだろう。

 

大東亜戦争の失敗も、「シーレーン確保」の重要性に対する理解不足が大きな原因だ。
「満州(支那北東部)は日本の生命線」と捉え、
大陸進出を進め、その結果、米英との対立を深め、真珠湾攻撃へと追い込まれていく。

 

ただ、秀吉はシーレーンの重要性は理解していたが、手段を間違え失敗する。
そして、その失敗パターンは戦前日本と全く同じだ。


シーレーンの確保を第一に考えるなら、
当時ポルトガルが支配していたマカオとマニラ(フィリピン)を目指すべきであったであろう。
琉球、台湾と南下してマカオ、マニラを攻略するルートが圧倒的に効率的だった。
しかし、実際に秀吉が選択したルートは、朝鮮半島を経由して支那経由で、
大陸沿岸部を抑えるものだった。

 

■「プロダクトアウト思考」に拘る日本の失敗

なぜ、秀吉はこのような選択をしたのだろうか。
秀吉を企業経営者と見なして分析すると、1つの答えが見えてくる。
恐らく秀吉は「プロダクトアウト」の思考だったのではないか。
つまり、手持ちのリソースありきで意思決定をした可能性が高い。

 

秀吉の持つ最大のリソースは軍事力であり、且つそれは「陸上兵力」だ。
確かに日本は海洋国家ではあるが、戦国時代における殆どの戦争は陸上での戦いであり、
それを勝ち抜いた秀吉が有する最大の軍事力とは、
陸上兵力であることは議論の余地はないだろう。
この手持ちの戦力の有効活用を最優先に考えた結果が、
朝鮮半島を経由しての支那を制圧するという戦略だったのではないだろうか。

 

戦前、海軍は世界屈指の力を持ってはいたが、規模の面においては陸軍が圧倒していた。
また東アジア地域を見ると、日本陸軍の力は突出していた。
実際、支那大陸に展開した陸軍は、その戦闘の殆どで敗北はしておらず、
終戦まで連戦連勝状態だった。
対して、米国と対峙する海軍は、ミッドウェー海戦後は連戦連敗の状態であった。
陸軍が最後まで徹底抗戦を訴えたのは、実はそう不思議なことではない。
「自分たちは勝っているのに、何故降伏するのか?」
基本的に陸軍はこう考えていたのだろう。

 

秀吉の朝鮮半島での戦いも、戦前日本と全く同じであり、
ほぼ全ての戦闘で朝鮮・明の連合軍を圧倒し連戦連勝を重ねる。
だが、半島の奥深くに侵攻するにつれて、補給線が伸び戦闘の継続が難しくなる。
そこで一度は引き上げ、再侵攻を試みるが、その最中に秀吉の寿命は尽きてしまうことになる。


信長・秀吉と同じ視点で日本の外を見る事ができる者は、
少なくとも豊臣政権の中枢にはおらず、
秀吉の死を受けて、朝鮮侵攻に参加していた大名達はその意義を失い撤退を決める。
戦略目標の達成が戦争の勝利ならば、この戦争は日本側の敗北であった。

 

「プロダクトアウト」の思想は、現代日本でも殆どの企業で主流を占めている。
「いいものを作れば必ず売れる」
こういった考えは、日本人のアイデンティティーと言っても良いかもしれないが、
日本人には面白い二面性がある。
「プロダクトアウト」の対義語は「マーケットイン」であり、
こちらはマーケットのニーズを優先してそれを実現していく考え方だ。
日本独特の精神である「おもてなしの精神」は、
私は「マーケットイン」の思考に近いようにも思う。

 

「プロダクトアウト」と「マーケットイン」
本来、相反する2つの考え方が、どちらも日本人の国民性レベルにまで昇華されて、
根付いているのは非常に興味深い。

 

■海洋国家の思考に成りきれない日本人

秀吉の生涯唯一の失策と言ってもよい朝鮮出兵は、現代にも通用する教訓を与えてくれる。
事実として日本は昔から四方を海に囲まれた「海洋国家」だ。
海洋国家は海上交通の安全を重視し、交易の自由によって経済成長を達成することでしか、
繁栄を手にすることはできない。
これを無視して事を進めても必ず失敗するのである。

 

ところが、日本は海洋国家であるのに陸上国家のような思考をする人が多い。
それは、この国の長い歴史の中で、
これまでに一度も、本土で外国勢力と戦った経験が無いせいではないだろうか?
大東亜戦争も最後は本土決戦を回避した。
だから、外国勢力と本土で戦う事がどれほど怖い事なのかを実感できない。

 

日本人の戦いの記憶とは戦国時代のような陸上中心の内戦や、
日清・日露戦争のような朝鮮半島や支那大陸での戦いが殆どを占める。
対米戦争は、日本が初めて経験した遠く離れた海での戦いであり、
海洋国家の素人と言って良い日本が、世界最強の海洋国家アメリカ、
海洋国家の老舗イギリスを同時に敵とした戦いだったのである。

 

天下統一後に秀吉が着手すべきだったのは、「海軍創設」だった。
信長であれば、そうしたかもしれない。
実際、国内統一だけを考えても、四国や九州を平定するには海を渡る必要があり、
信長はその為に水軍の強化に力を入れていた。
この路線を秀吉も引き継いではいたが、“外洋向けの水軍への進化”という考えには至らなかった。
ここが、信長と秀吉の質的な違いだったのではないだろうか。

 

海軍を創設し、その海軍力をもって、
東南アジアに進出していたスペインやポルトガルを追い出し、
日本を中心とした貿易ネットワークを構築する。
日本が東南アジアに住む人々に、
史実で白人達がしたような奴隷的な扱いをすることは到底考えられない。
人間が他の人間の「所有物である」という考えは、日本人には生まれようがない。

 

歴史的に白人達の植民地だった地域は、今でも発展途上国であり貧しい国々が多い。
それは、白人達が植民地にした地域の時間を数百年レベルで止めたからだ。
もし、信長・秀吉の時代に、日本がアジア地域から白人達を排除することが出来ていれば、
東アジア・東南アジア地域は、
豊かで活力ある、文明の先端地域になっていたと私は思う。
安土桃山時代の日本は、間違いなく世界最強の軍事大国であり、
正しいやり方で、その軍事力を行使すれば、東南アジアの植民地解放は十分に可能だった筈だ。

 

■秀吉の失敗から学ぶ必要性

日本という国の発展も衰退も、海外と如何に適切に付き合えるかがカギだ。
秀吉は信長を傍で見ていたから、ビジョンは間違っていなかった筈だ。
しかし、やり方を誤ってしまい、そのことで日本史上最大の政権は、1代で終わってしまう。
続く、徳川政権は鎖国政策で海外との付き合う事自体を拒否した。
信長・秀吉の貯金で、徳川政権は長期安定政権とはなるが、
江戸時代の日本は、その貯金を食い潰し続けた時代だったとも言える。
そして、貯金が空になり明治政府に取って代わられる。

 

秀吉の時代、世界でも1位2位を争う強国だった日本は、
明治のスタート時点では、欧米に比べて遥かに遅れた国となっていた。
そこから僅かな時間で欧米に肩を並べるが、
またしても、海外との付き合い方を誤り、大東亜戦争の敗北という結果を招く。
もしも、戦前昭和の人々が秀吉の失敗に学んでいれば、
敗戦という最悪の失敗は無かっただろう。

 

今、国際情勢は大きいな変革の時を迎えている。
朝鮮半島の2つの国家は相変わらず厄介な隣人だが、日本が注視すべきは半島ではない。
南シナ海の海洋覇権の確立を狙う中国共産党、
イランとアメリカの対立が顕在化してきた中東地域、
東シナ海、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾、これらの海が現代日本の生命線だ。
そして、最も警戒すべきは同盟国アメリカである。
ここで、国際社会との付き合い方を誤ると、100年の単位で日本の衰退は確定するだろう。

 

適切な国際社会との付き合い方を考えるに当たり、
秀吉の失敗から得られる学びは決して小さくないだろう。
成功事例から学べることは殆ど無いが、
失敗事例から得られる学びは数多いのである。

 


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