日本史に学ぶ2−創業社長、織田信長−

2019.07.28 Sunday

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JUGEMテーマ:歴史

 

織田信長、この名前は、
日本人なら歴史に興味がない人でも一度は聞いたことがあるであろう、
日本史上最大級のスターだ。

 

小説、映画、ドラマ、アニメ、ゲーム・・・様々な創作物の主役として頻繁に抜擢され、
特に男性の人気が高い人物だ。
そんな彼に対して多くの人が持つイメージは、一言で言うと「覇王」だろう。
そして、このイメージは司馬遼太郎の著書「国盗り物語」の描写が強く影響している。

 

我々日本人の歴史に対するイメージに対して、司馬遼太郎が与えた影響は絶大だ。
例えば坂本龍馬も信長に匹敵する日本史のスターだが、
多くの人が龍馬に対して、
「薩長同盟を実現させ、日本に近代国家としての“夜明け”をもたらした最大の功労者」
こんなイメージを持っているのではないだろうか。
このイメージも、司馬遼太郎の著書「竜馬がゆく」で作られたものだ。
他にも明治維新から日露戦争の勝利にかけての明治時代に対するイメージも、
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の影響を強く受けているだろう。

 

実際の坂本龍馬は一言で言うと「武器商人」であり、イメージとはかけ離れた人物だった。
司馬遼太郎自身も、「『竜馬がゆく』で描かれた人物像はフィクションである」と書いており、
現在、広まっている坂本龍馬像とは虚像と言っても良い。

 

明治時代が過剰に美化され、一部の保守派が「明治回帰」を夢想するのも、
司馬遼太郎が作り出した明治のイメージに由るところが大きい。
素晴らしき「武士道」を基礎に、優れた人材を生み育てた江戸時代の遺産を活かし、
「合理性」を追求し近代化を見事に成し遂げた明治。
その精神を忘れ、「理想主義」に走り最悪の敗戦を招いた戦前昭和。
日清・日露戦争は合理的実践者たる軍神たちによる美しい戦争。
理想主義によって人々を駆り立て、始めた大東亜戦争は愚かで醜い戦争。
全てが間違っているわけでは無いが、明治がそれほど理想的な社会だったわけでもない。

 

小説という言葉の力で、後世の人々の歴史認識にまで影響を与える司馬遼太郎の力は驚くべきものだが、
司馬遼太郎が作り出したイメージに捕らわれる事は、歴史を学ぶ上では障害になる。
歴史を正しく学ぶには、まずは司馬遼太郎の小説のような、
エンターテイメント作品から得たイメージを払拭することが重要だ。

 

「覇王」という織田信長のイメージも、彼の実績を正しく知れば随分と違う事が分かる。
例えば信長の偉業として、
仝|呂砲茲辰峠衢関係を整理
∧芝席離の推進
3攣坡攤造凌篆
ご惱蠅稜兒澆砲茲觚鯆面屬寮鞍
ズ罎覆匹亮治都市を掌握し統制下に置いた
Σ瀛称通の円滑化を推進
Ч馥發良塒廚幣襪鯒鵬、国衆の軍事力を削減
┰ゞ祇力を統制下に置いた
以上の8つの政策が挙げられる事が多いが、
「関所の廃止による交通網の整備」と「国内の不要な城を破壊、国衆の軍事力を削減」以外は、

不十分、不徹底、または事実に反している。

 

旧態依然たる日本のシステムを、武力を背景に破壊した覇王織田信長。
多くの人が持っているであろう、こんな信長観から見ると実際に信長が行った政策は随分と穏健なものだ。

 

信長の業績を政策レベルで見るなら、実はそれほど大業績を上げたわけではない。
しかし、歴史の教科書は信長の政策を過大に評価し、信長を礼賛するが、
信長の凄さとは、偉業とは、こんな政策レベルの事ではないのである。

 

信長の偉大さは、彼を「政治家」として見ても理解することはできない。
彼の偉大さを正しく理解しそこから大きな学びを得るためには、
信長という人物を「実業家」として捉える視点が欠かせない。

 

尾張の代官から始まり、苦労して尾張を統一し、
「桶狭間の戦い」で大きな賭けに勝利した信長は、
言うなれば、叩き上げの中小企業の創業社長であると言える。
そして、信長の短い生涯の殆どの期間、彼は中小企業の社長だった。
信長が“大企業”の社長だったのは、彼の生涯が終わる本能寺の変の3年前ぐらいからだ。

 

中小企業の業績を定量的に測るなら、「大きな業績」とは言えない結果になるのは当然だ。
だから、信長の業績が定量的にはそれほど大きくないのは当たり前なのであり、
定量的な評価に囚われると、信長の真の姿は見えてこない。

 

「伸び盛りの中小企業のシビアな創業社長、織田信長」
これが本当の信長に近いイメージではないだろうか。
そして、そんな信長の行動理念は時代を超えて現代の会社経営や国家戦略の実現にも通用する。
創業社長織田信長が何を成したのかを論じてみたい。

 

■経営者信長で見る安土桃山時代

さて、「創業社長」とはどんなタイプの人間だろうか?
端的に言うと「ゼロから1を創り出すタイプ」と言える。
信長の後を継いだ豊臣秀吉は、同じ天下人でも信長とは全くタイプが違う。
秀吉は「1を10や100にするタイプ」だ。
家康も秀吉と同じようなタイプだと評価することができるだろう。

 

戦国時代から江戸時代までの流れを企業に例えてごく簡単に纏めると、
創業者信長が立ち上げた零細企業が、現状を維持しつつ改革の方向性を示しつつ、
中途半端ではあったがその方向性に沿って経営を進め、
短い時間で一部上場企業へと成長。
大きくなった力で、改革の速度を上げようとした矢先に、社長は急死してしまう。

 

後を継いだ二代目社長、秀吉は先代の路線を堅持し遂に国内No1企業の座を手に入れる。
その勢いのまま海外展開を行おうとするが、国内での勝ちパターンが海外で通用せず失敗、
立て直しの最中に病死してしまう。

 

海外進出失敗のダメージで社内が混乱する中、
「信長、秀吉の路線を継続すべき」と考えるグループと、
「改革路線の変更」を求めるグループ、2つの派閥に社内は大きく分裂し、
熾烈な権力闘争が起こる。
この闘争に勝利したのは「改革路線の変更」を求めるグループのリーダーである徳川家康だ。

 

家康は信長・秀吉によって巨大化した会社を、いくつもの小さな会社に分社化し子会社とする。
海外展開は取りやめ、徳川株式会社を頂点とする企業グループで国内市場に専念し、
260年にも渡り国内市場を支配することになる。

 

信長が起こした変化はそれほど大きなものでは無かったが、後世に大きな影響を与えた。
秀吉、家康の統治はあくまで信長の延長線上と言えるのである。
信長によって進むべき道が示され、
その道に沿って信長・秀吉の2代で3歩進み、家康によって2歩下がった。
3歩進んで2歩下がる、この時代の日本の歩みとはこのようなものであった。

 

■「百姓が持ちたる国」を目指した信長

信長が示した大きな方向性の1つは、「経済の主導権を武士・民衆に移す」ことだ。
信長以前、日本の経済の主導権は寺社勢力が握っていた。
信長自身の経済的支援者も寺社勢力であり、尾張の「津島神社」と「熱田神宮」だ。
だから、信長は他のどんな戦国武将よりも寺社勢力の強さと怖さを熟知していた。

 

津島神社は、天照大御神の弟であるスサノオを主祭神とし、
全国に約3千ある津島神社・天王社の総本社。
熱田神宮は三種の神器の1つである草薙の剣をご神体とし、
伊勢神宮に次いで国家的な崇拝を受ける神社だ。
この2つの寺社勢力からの支援なしに、信長の立身出世は無かっただろう。

 

信長はその生涯で、様々な寺社勢力を攻撃する。
最も有名なのは比叡山延暦寺の焼き討ちだろう。
こういった寺社勢力との戦いを通じて、
信長をあたかも宗教弾圧者のように教科書は描いているが、
これは間違った認識だ。

 

ヨーロッパにおいて教会の破壊や信徒の虐殺が行われる時、
殆どの場合、加害者は敵対する宗派だ。
プロテスタントが加害者ならカトリックが被害者であり、逆もまたしかりだ。
王がカトリックなら当然プロテスタントが弾圧の危機にさらされる。

 

ところが、信長が戦った寺社勢力は特定の宗派に限定されず、
むしろ、主要な各宗派が一通り弾圧されている。
それは、信長が寺社勢力と戦ったのは、政治的・軍事的な理由に基づくものだからであり、
この点が、世界に数多ある宗教弾圧と決定的に異なる。
信長はあくまで自分に軍事的、政治的に対立する勢力だけに向けられており、
日本では戦国時代でも現代と変わらず信教の自由が当たり前のように認められていた。

 

もしも、信長の寺社勢力との戦いが歴史上数多ある宗教弾圧のように、
特定の宗教や宗派の殲滅を企図する“一般的な宗教弾圧”だったとしたら、
現代でも政治に与える宗教の影響は小さくなく、政教分離は不完全な状態だったかも知れない。

 

世界で日本ほど政教分離が成立している国は少ない。
欧州やアメリカですら、キリスト教が政治に与える影響は大きい。
アメリカ大統領は、就任時に聖書に手を当てて宣誓する。
イスラム社会は、未だに政治と宗教は不可分であり、
サウジアラビアの法はイスラム教の教典だ。

 

人類は政治と宗教を切り離す為に、これまでに膨大な血を流してきており、
今現在も流れ続けている。
我が国も信長のだけを見ても、多くの血が流れている。
だが、日本はいち早く政教分離を実現することで、
宗教によって国民同士が殺しあうような事は考えられなくなった。
これは、現代にも残る信長の功績と言えるのかもしれない。

 

信長は寺社勢力との抗争に勝利することで、
経済の主導権は武士と民衆に移っていくことになる。
もっとも、これは信長の時代では不完全なもので、
完全な移行が完了するのは、秀吉の時代になってからだ。

 

■「一所懸命」からの脱却

信長が示したもう1つの大きな方向性は「土地と武士の切り離し」だ。
これまで武士達は、先祖から受け継いだ土地を守り、
それを子孫に継承することを何よりも大切に考えていた。
信長はこの武士と土地との関係を切り離す事を目指した。

 

現代社会でも、日本では土地は別格の資産だ。
金融機関で借り入れをする際、土地は最高の担保になる。
「自分の家(土地)を持って一人前」というような考え方は、
現代でもまだまだ根強い。
「子孫に継承する」という意識は希薄になったが、
それでも、日本では一生をかけて支払うローンを組んでまで持ち家を購入する人が多い。
現代にも未だに残っている、この「土地信仰」を武士だけとは言え切り離そうと言うのだから、
これは、「改革」というよりは「革命」に近い極めて大胆なものだった。

 

信長がこの革命を実現するために行った手段が「城割(しろわり)」と「検地」だ。
城割とは城郭を取り壊す事を意味する。
信長の城割は内堀の埋め戻しを行うほど大規模なもので、
城郭としての機能を殆ど停止させるくらい徹底したものだった。
もしも、城郭としての機能が残っていると、
土地に縛られた者が立て籠もり、そういった事が国中に跋扈すれば、
せっかく進めた改革が逆戻りする可能性があった。
つまり、城割は逆戻りのリスクを大幅に減少させる政策だった。

 

検地とは田畑の収穫量を正確に計る事だ。
これにより、領地を石高で表すことができるようになった。
例えば「加賀100万石」とは、1年で100万石の米が取れる領地ということを意味する。

 

検地は「先祖伝来の土地」という従来の考え方に風穴を開ける。
1万石の領地は、全国各地にある他の1万石の領地と等価になる。
これまで、領地というのは交換不能だと考えられていたが、
ある領地とある領地が石高で等価なら、
傘下の1万石の大名を別の1万石の領地に配置転換しても、「文句はないだろう」となる。
そして、大名の配置を決めるのは、「武家の棟梁」である信長だ。

 

実際に、信長は勢力を拡大する過程で、部下達を頻繁に配置転換している。
秀吉は、当初近江長浜の城主に任命されたが、
その後、播磨一国を与えられ中国地方を攻略する責任者に据えられた。
ただ、信長の領地は日本の主要部分ではあったが、全国ではなかったので、
畿内のように徹底した検地は間に合わなかった地域が多い。
徹底した全国的な検地は有名な「太閤検地」であり、
実施したのは、言うまでも無く後継者秀吉である。

 

恐らく信長は室町幕府の失敗に大いに学んだのだろう。
これまでのように諸侯がそれぞれの領地の人民を統治する封建制ではなく、
中央集権体制を作り上げようと考えたのだろう。
しかし、信長の時代では時間が足りず、中央集権体制は完成しない。
秀吉は中央集権路線をかなりのところまで進めるが、
家康によって巻き戻されてしまう。
日本で中央集権体制が完成するのは明治維新を待つことになる。

 

■信長の改革は明治維新で完成する

軍事面でも信長が示した方向性は画期的だった。
その基本的な方向性は「兵農分離」と「常備軍創設」だ。
鎌倉時代以降、多くの武士は自分の領地に住み、
直接農業経営に携わるとともに戦がおこると戦士としての役割を果たした。
信長はこれを完全に分離することを目指した。
武士は戦士としての役割を担い、農業経営は農民に担わせる。
このような階級関係を構築しようとしたのである。
これにより、武士達は「常備軍」となり、
戦に対して常に即応体制をとることが可能になる。

 

しかし、この軍事面の改革も中途半端に終わる。
鎌倉時代から400年以上続いた、武士の固定観念を変えるのは容易ではなく、
信長が示した方向性はそれほどの困難を伴う大改革だったのである。

 

それほどまでに信長の目指していたことは、常識を覆す全く新しいものだった。
恐らく信長の描いていたゴールは、完全な中央集権体制の構築、
即ち、全国を直轄地に変える事だったのでは無いだろうか?
秀吉は、まさにこの方向を突き進むが、
家康は秀吉以上には、信長が目指したゴールを向かっていくシビアさは無かった。
江戸時代の幕藩体制は、室町幕府に比べれば信長路線と言う程度であり、
豊臣政権から比べると信長路線の後退だと言える。

 

それは、徳川幕府の力の源泉ではあったが、同時に最大の弱点にもなり、
この弱点は戊辰戦争が起こる根本的な原因となり、徳川幕府は幕を下ろす事になる。
そして、徳川幕府を倒した薩長を中心とする明治政府が、信長路線を完成させるのである。

 

■中央集権体制を目指したワケ

信長はなぜ中央集権体制の構築を目指したのだろうか。
それは国際情勢の変化が大きく影響していると考えられる。
信長は商人やバテレンなどから海外の様々な情報を手に入れていた。
当時、ヨーロッパは大航海時代の真っ只中であり、
東アジアにはスペインやポルトガルが押し寄せていた。

 

「国内がいつまでも小さい国に分かれて争いを続けてれば、
その隙を突いて外国勢力が介入し、植民地化されてしまう。
そうなる前に、一つに纏まり外国勢力に対抗できる体制を整えよう」

 

恐らく、このように考えていたのではないだろうか。
そして、これは幕末に幕府や薩長が抱いた危機感と全く同じだ。
だから、信長も明治政府も強力な中央集権体制の構築を目指したのだろう。

 

一つ注意しなければならないのは、
信長も明治政府も「国家国民を守る為」というような気持ちで、
現状変更を望んだわけではないということだ。
あくまで自身や家族を守る事が出発点だ。
自身や家族を“本気で”守ろうと考えるなら、最終的には日本を守る事に行き着く。
外国勢力の植民地になってしまえば、
征夷大将軍だろうが、守護職だろうが、そんなものに意味はなく、
天皇も大名も農民も・・・全ての日本人は宗主国の奴隷になってしまう。
だから、信長は早く戦国時代を終わらせたいと考えたのである。

 

自分の事を“本気で”考える人間が最も信用でき、最も社会の為に力を尽くす。
これは、現代でも何も変わらない。
今の政治家は「国家国民の為に」などと簡単に言うが、
こんなのは全く信用に値しない。
そして、「自分の事より国民を優先する政治家」を求める国民も愚か者であろう。

真に社会を改革できるのは、”本気で自分事を考えられる人間”だけだ。

 

国内での果てしなき戦いを終わらせる為、信長は争いが起こる構造を分析した。
「先祖伝来の土地を守る」
これは鎌倉時代、室町時代を通じて武士達に浸透した価値観であり、
この価値観に基づき武士達は領土を守る事に最大のプライオリティを置く。

 

将軍とはそのことにお墨付きを与える権威だ。
武士達は将軍からのお墨付きを得る事と引き換えに、将軍の権威を認めた。
これが「御恩と奉公」の本質である。

 

ところが、応仁の乱をキッカケに社会は混迷し、
当初その地域の支配を将軍から任されていた大名が没落し、
下請けで代官を行っていた武士が台頭する。
「下剋上」の時代の到来である。

 

下剋上で成り上がった新興勢力は、
旧支配者からの略奪を正当化するために、将軍の権威にすがる。
そのために、彼らは将軍に献金や献上品を届け、
将軍が戦う時は戦力を提供する。
将軍はその見返りに略奪した所領を「安堵」する。

 

こんなことを繰り返していたらいつまでも戦乱は終わらない。
恐らく信長は、このような分析結果にたどり着いたのだろう。
信長は自身が下剋上で成り上がった存在であったにもかかわらず、
このような構造の弊害を誰よりも認識していた。

この構造の打破の為に、信長が出した答えが中央集権体制だったのだろう。

 

■本能寺の変の謎

戦いが起き続ける構造を変えようと邁進する信長だったが、
天正10年6月2日(1582年6月21日)、
部下の明智光秀の謀反によって、京都本能寺で短い生涯を終える。

 

「明智光秀は何故、裏切ったか?」
これまでに沢山の説が囁かれているが、
私はそれよりも「なぜ信長があれほど無防備に京都にいたのか?」かの方に興味がある。
京都は「攻めやすく」「守りにくい」場所であり、
ここで無防備になることはいかなる権力者でも危険である。
これは、平安京(京都)に遷都されてから、歴史が語る先人達の教えだ。
先人達の成功や失敗から沢山の学びを得て、進むべき道を示せる信長が、
なぜこの時は先人達の教えを守らなかったのだろう?

 

光秀が裏切った理由は、私は実は単純な事のように思う。
信長は歴史上の人物としては、日本で最大級の人気を誇る人物ではあるが、
実際に彼の様な人が会社に居たらどうだろうか?
恐らく、多くの人は嫌いだろう。
上司なら「パワハラ上司」と思うだろうし、
社長信長が経営する会社は、今の言葉にするなら「ブラック企業」だ。
信長の部下達も同じように思っていたのではないだろうか?
500年近く前の人達も、我々と同じ日本人なのだから、基本的な価値観はそう変わらない筈だ。

 

現代のように信長を裁く司法は存在しない。
直接信長に改善を訴えるなら、最悪切腹を命じられるかも知れない。
仕事を放棄し家に引き籠もれば死罪だろう。
主を変えても、天下統一に邁進し実現性が高い状況では、何れは敵となってしまう。
このような状況で、ブラック企業に勤務していたとしたら?
社長を殺す社員が出たとしても、それほど驚く事ではないように思う。

 

■日本は決して欧米に比べて遅れていない

本能寺の変がなければ、日本の歴史は大きく違うものになっていただろう。
もしかしたら、産業革命はイギリスよりも早く、日本で起こっていたかもしれない。
それほど、信長の示した方向性は画期的であり近代的だった。

 

今の日本では、あらゆる場面で欧米が進歩的とされ、常に欧米を真似ようとする。
そうなってしまった大きいな原因は歴史教育の誤りだ。
信長の時代から江戸時代中期にかけて、日本は間違い無く世界の先端であった。
それは、信長が目指したものが先進的だったからだ。
しかし、家康はこの歩みにブレーキをかけるだけでなく、後退させてしまった。
その間に、欧州では産業革命が起こり、欧米は日本を抜き去ってしまう。
明治政府はこの差を埋める為に、ひたすら欧米を手本に富国強兵を進める。
欧米を進歩的に考える価値観は、この明治政府の政策が強く影響しているだろう。

 

本当の織田信長を知る事は、そんな明治の洗脳から解放されるキッカケになり得る筈だ。
そして、信長路線の継承者である豊臣秀吉のことを知る事も、
欧米信仰から脱する大きな助けになる。
次回は豊臣秀吉をテーマに日本史を考えてみたい。

 


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