日本史に学ぶ1−応仁の乱が変えた日本史−

2019.07.20 Saturday

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JUGEMテーマ:歴史

 

2020年に現行の「大学入試センター試験」が廃止され、
それに変わる新しい試験として「大学共通テスト」が導入される。
これまでの日本教育は「知識」を記憶することを重視し、
試験は「正しく知識を理解しているか?」をチェックすることを最大の目的としている。
だから、現行のセンター試験はどの問題も正解が一つだけ存在する、
マークシート方式が採用されている。

 

大学共通テストでは記述式問題が導入され、
「思考力」「判断力」「表現力」と言った新しい評価軸が追加される。
戦後最大の教育改革とも言われている今回の教育改革だが、目指す方向性は正しい。
だが、残念ながら大きな成果は期待できないだろう。

 

戦後の日本教育の最大の問題は、「重視する科目の選択ミス」だと私は考えている。
国語、数学、英語、この3科目が日本では重視されており、
今回の教育改革でもこの点は変わらない。
記述式問題が採用されるのも国語と数学だけだ。
そしてもう1つ大きく変わるのが英語であり、
これまでの「読む」「聞く」に加えて「書く」「話す」が追加される。
地理歴史、公民、理科といった他の科目は現行から大きな変更はなく、
重視している科目が何なのかは明らかだろう。

 

現代日本人に最も不足している能力とは、「なぜ?」と疑問を持つ姿勢だ。
この姿勢を喪失したことが、今の日本社会を包む閉塞感を払拭できない大きな原因だ。
戦後日本の「奇跡」とも評される経済的発展は、
先行者の真似をする「キャッチアップ型」だった。
欧米が試行錯誤の末に導き出した成功パターンを模倣することで、
効率的に日本は成長することができた。
しかし、アメリカに次ぐ世界二位の経済大国となり、
日本自身が先行者側になったとき、日本人はどうして良いかわからなくなってしまった。

 

先行者を追いかけている時は、いちいち「なぜ?」という疑問を持つことは、
成長の速度を阻害する要因となる。
「理由なんて考えないで、欧米の真似をしなさい。」という事だ。

 

「なぜ?」という姿勢を持てなければイノベーションは生まれない。
そして、様々な事に疑問を持てる視点を育む最良の教育は「哲学」だ。
ところが、日本の教育では哲学は大学で専攻しない限り学ぶ機会がない。
だから、現代日本人の多くは思考力が非常に低く、より良い判断ができない。

 

「思考力」や「判断力」を重視しようという方向性は正しい。
だが、そうであるなら「哲学」を義務教育レベルで取り入れ、注力すべきであろう。

 

「哲学」に次いで、重視すべき教育は「歴史」だ。
今の日本の歴史教育は縄文時代から始まり、
ひたすら時間軸に沿って「政治的な出来事」を羅列するだけだ。
これでは何の意味もなく、教育とすら言えない時間の浪費だ。

 

歴史を学ぶ最大の意義とは、「過去から教訓を得ること」だ。
歴史とは先人達の膨大な試行錯誤の記録であり、
その試行錯誤の結果、今がある。
現代社会特有の問題と考えることの殆どは、
歴史を正しく学ぶと過去にも似たような事があったことが分かる。
だから、歴史には目の前の諸課題に対する解決策のヒントに溢れている。

 

特に日本は世界最長の歴史を誇る国だ。
古事記を出発点とするなら2600年以上。
現代科学で確認できる範囲でも1500年以上の歴史を誇る。
それだけの長い時間、日本人は今と変わらないこの日本列島という場所で、
今と変わらない大和民族が歴史を育んできたのである。

 

中華人民共和国は、過去の清とは全く違う国だ。
今のエジプトはピラミッドを作った古代エジプトとの繋がりは殆どない。
こういった国々でも歴史を学ぶ意味は大きいが、
ずっと継続している日本が、歴史から得るものは諸外国よりも遙かに大きいだろう。

 

それなのに、現代日本人は自国の歴史を殆どしらない。
徳川家康によって江戸幕府が作られたのは知っているが、
なぜ豊臣政権が倒れ、江戸幕府が成立したのかは殆どの人が知らない、考えもしない。
明治維新は知っているが、なぜ200年以上続いた江戸幕府があっけなく倒されたのかは、
殆どの人が知らない、考えもしない。
これでは、歴史から何か教訓を得ることなど全くないだろう。

 

「なぜ?」という疑問を持ち歴史を学ぶと、そこから様々な教訓を得ることができる。
それは、社会的な課題を解決するための助けになるだけでなく、
個人の人生を切り拓く助けにもなる筈だ。

 

これから、何回かに分けて日本史について考えてみたい。

 

■「日本」とは何か?

日本の歴史を学ぶ時、最初に知らなければならないのは、
「日本とは何なのか?」と言う事だ。
今の我々が考える「国家」という概念は、「近代国家」という概念であり、
欧州で17世紀に誕生したものだ。
日本では明治維新後に浸透した考えであり、
この「国家」という概念で、「日本とは何か?」を考えても意味はない。

 

万世一系の天皇と民が暮らし、天皇は民のために祈り、
民は天皇に感謝し供物を捧げる。
この天皇と民との関係が「日本」だ。
「君民共治」とも呼ばれるこの日本独自の天皇との関係こそが、
日本を日本たらしめているものであり、
この関係が続く限り、日本という国は存在し続ける。

 

源頼朝、足利義満、織田信長、徳川家康・・・
長い歴史の中で数多くの権力者が現れ、それ以前の体制を変えていったが、
どの権力者も皇室を守ってきた。
大東亜戦争の敗北時、ポツダム宣言を受諾する唯一の条件として、
当時の日本政府が提示したのは、「皇室の維持」だ。
天皇と民との関係が日本なら、皇室が滅びたら日本は滅びてしまう。

 

大日本帝国憲法から日本国憲法に変わっても、
二つの憲法に書かれている天皇についての記述は、
文体は違っても内容は基本的に変わらない。
憲法の条文上も天皇と民の関係は守られたのである。

 

勿論、今でもその関係は何ら変わっていない。
毎年行われる一般参賀では、数万人の国民が皇居を訪れ日の丸を振る。
皇族の方々が行幸されると、沿道には多数の国民が詰めかける。
皇室の価値や歴史など殆ど知らないであろう、
10代の若者達ですら、平成から令和の改元を迎える時、
誰に言われるでもなく、街に自然に集まりお祝いをする。
これが「日本国」なのである。

 

小学校で初めて歴史を学ぶ時。
まず、教師はこの事を教えるべきだ。
「日本とは何なのか?」を知らずして、“日本の”歴史は学べないだろう。

 

■応仁の乱から始める日本史

さて、日本の歴史を学ぶ上での大きな障害は、
皮肉な事に「日本の歴史が世界最長」であることだ。
限られた時間の中で、古事記の神話から現代までの歴史を正しく学ぶ事は難しい。
200年以上続いた江戸時代に教科書が割いているページは20ページにも満たない。
これでは、正しく歴史を学ぶ事は無理であり、そこから何かを得ることも叶わない。

 

この問題を解決するには、ある程度の割り切りをして古い時代を切ることだ。
今を、未来を作る事に役立てる事を第一に考えるなら、
あまりに古い歴史と今を繋げる事は高度であり、特に義務教育においては難しいだろう。
だから、ある程度古い歴史についての教育は、高等教育に譲る割り切りは必要だ。

 

では、どこから学ぶのが最適だろうか?
私は室町時代、より正確に表現するなら応仁の乱以降の歴史から始めるのが良いと考える。
室町時代は今の歴史教育では、あまり時間を割かない時代だ。
初めての武家政権が誕生した、前の時代である鎌倉時代、
織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信など・・・
数々のスターが存在した、後の時代である戦国時代、安土桃山時代、
それらの時代に比べると、地味な印象が持たれ人気も無い。

 

しかし、応仁の乱とは日本の社会構造を劇的に変えた重要な出来事だ。
私は明治維新以上の出来事だと考えている。
また、前後11年に及ぶ戦乱で、京都は焼け野原になるが、
その際に数多くの文献や歴史的建造物が喪失している。

 

今、京都には神社仏閣を中心とした数多くの歴史遺産が存在し、
重要な観光資源となっているが、
これら多くのは、応仁の乱後に再建されたものだ。

 

当時存在した数多くの文献は、応仁の乱以前の日本の歴史を知る貴重な資料になり得たが、
それらが喪失することで、
実は応仁の乱以前の日本の歴史は良くわからないことが多くなってしまった。

 

私が源頼朝の肖像画だと教科書で教えられた有名な絵は、
今は頼朝ではなく、室町時代の人物のものという説が有力になっており、
今の教科書では「伝源頼朝像」という表記で紹介されている。
「この肖像画は源頼朝と伝えられている」という意味だ。
頼朝ほどの功績を上げた人物の肖像画が作られていないとは考えにくいので、
私は本物の肖像画は応仁の乱で焼失したのではないかと考えている。

 

■応仁の乱によって天皇からの権力移譲が完了した

応仁の乱の前後で何が大きく変わったのだろうか?
まず政治面では、「朝廷(天皇)の権力が完全に喪失し、完全に権威を司る存在になった」と言う点が挙げられる。

 

教科書では、飛鳥・奈良時代は天皇が権力と権威を有し、
平安時代になると藤原氏に実質的な権力は移り、
鎌倉時代に武士に権力が移ったというような流れで教えられる。

 

しかし、藤原氏は天皇の親戚になることで権力を行使していたわけであり、
実際の権力行使は天皇の名において行われた。
分かり易く言うなら、藤原氏が天皇に対して「こういう命令を出すように」と、
指示していたようなものだ。

 

平安時代末期から鎌倉時代にかけて権力者であった、
平清盛や源頼朝は、そもそも桓武天皇、清和天皇の末裔であり、
その血筋をもって権力を行使した。

 

頼朝の血筋は3代で途絶え、鎌倉幕府の運営は実質的には北条氏が行うが、
北条氏はあくまで「執権」という立場であり、
征夷大将軍の位は引き継いでいない。
それは、天皇の血を引いていない北条氏では権力の正統性が弱いからだ。
北条氏は執権の職を独占し世襲し、幕府の実権を掌握するが、
将軍職は公家や皇族を京から迎える形で名目的存在としていた。

 

室町幕府を開いた足利家も、平安時代における藤原氏に近い形で権力を行使していた。
皇室に自分の娘を嫁がせる事で外戚関係を作り、
その関係を後ろ盾に権力を行使したのである。
室町時代までは天皇の権力はまだまだ大きく、政治に大きな影響を与えたいたのが実情だ。

 

応仁の乱以降、この皇室の権力は急速に弱まり、
江戸時代には殆ど今と同じ権威のみを司る存在となる。

 

■室町時代以前の神社仏閣の存在意義

では、なぜ応仁の乱を境にこのような変化が起きたのだろうか?
その理由は経済にある。
日本の歴史教育は経済的視点が殆どなく、第一に政治でサブとして文化を教える。
だが、人間にとって最も大切なのは「生きる事」、つまり経済だ。
経済が低迷し、人々の生活が困窮したとき、歴史は大きく動く。
人は経済的に困窮すると、普段は見向きもしない過激な思想や主張に飛びつくからだ。
まさに「衣食足りて礼節を知る」ということだ。

 

鎌倉幕府が滅びたのも、室町幕府が滅びたのも、
大東亜戦争に突入したのも・・・
歴史的な大きなイベントの多くは、経済的困窮が大きく影響している。
しかし、日本の歴史教育では概ねこの点を無視しているのである。

 

室町時代までの日本は、実は独自の通貨はなく、
支那(中国)の銅銭を通貨として利用していた。
支那の銅銭を得る手段は言うまでもなく貿易だ。
つまり、日本のものを支那で売り、銅銭を手に入れる。
現代日本では、政府(実際は政府の子会社である日銀)が「円」という通貨を発行するが、
室町時代以前は、貿易=通貨発行だったのである。

 

貿易を取り仕切っていたのは、室町時代以前は寺社勢力だ。
何故なら当時は仏教の総本山は支那であり、
日本国内の寺社は仏教の留学で、頻繁に支那を訪れていた。
こういった留学僧によって、支那とのパイプが作られ、
そのパイプを活かして寺社勢力は貿易業も行っていたのである。
つまり、当時の寺社とは巨大商社であり中央銀行でもあったのである。

 

日本では、仏教が大陸から伝来する際、他のアジア諸国のように簡単には受け入れず、
日本土着の宗教である神道と融合させ一つの信仰体系として再構成し取り入れた。
そして、神道の頂点に君臨するのは天皇である。
従って、皇室は寺社に対しても多大な影響力を有していた。
天皇のお膝元である京都や奈良に、数多くの寺社が存在するのはこのような理由からだ。
そして、このことが天皇の権力の源でもあった。

 

最強の寺社勢力は比叡山延暦寺(天台宗)だ。
比叡山は傘下に全国に約3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本山である日吉大社も抱えており、
神道の世界でも別格の存在でもある。
比叡山延暦寺の他には、五山(臨済宗)、本願寺(浄土真宗)、日蓮宗などの
寺社勢力が当時の日本の経済を支配する存在だったのである。

 

信長がなぜ比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのか?
本願寺となぜ長きに渡り戦ったのか?
その本当の理由は経済における覇権争いなのである。

 

経済を牛耳る寺社勢力は、会計処理能力も圧倒的であり、
朝廷や公家、大名がもつ全国の荘園の徴税業務を請け負っていた。
応仁の乱により京の都は焼け野原となり、
京にあった数多くの神社仏閣は焼失し、寺社勢力のパワーは大きく低下した。
それに伴い、全国の荘園経営は次第に「守護請」という形で、
守護が直接雇った代官が行う方式にシフトしていく。

 

後に信長を排出する織田一族も、
尾張を領地としていた斯波(しば)氏の代官として雇われていた一族だ。
戦国大名と呼ばれる多くの大名は、このような代官だったのである。
斯波氏の尾張は、1560年に信長によって統一され織田家の領地となる。
これが下剋上だ。

 

■デフレが信長を生み出した

下剋上を可能にするには、大義名分と民衆の支持が必要であり、
それさえあれば、自分の雇い主である守護から力ずくで領地を奪う事ができた。
大衆が信長のような代官を支持したのは、
応仁の乱による寺社勢力の弱体と、それによる経済の混乱に由るところが大きい。

 

もっとも、応仁の乱だけによって経済が混乱し、人々が困窮したわけではない。
そもそも、室町時代は今の言葉で言うところの「デフレ不況」の時代だった。
デフレとは物の量に対して、お金の量が不足している状態を指す。
その結果、物の価値よりお金の価値が上がり、
物価は低迷し、人々はお金を貯め込む。
経済はお金が循環することで活性化するので、
お金を貯め込むことで、お金の循環が滞れば経済は低迷する。

 

景気を良くするためには、借金をしてまで商売をするような人をサポートする必要がある。
ビジネスは何が正解かは分からない。
過去の成功例をどんなに分析し、その結果を実践したとしても、
成功するかどうかは、結局のところやってみないと分からない。
だから、多くの人がチャレンジして、生き残ったものを暫定的な正解とするしかない。

 

イノベーションとは、「生き残ったから」イノベーションなのであり、
生き残れなかったものはイノベーションとは呼ばない。
それがイノベーションかどうかは、やってみなければ分からないのである。

 

デフレ経済下では、イノベーションは生まれない。
何故なら、デフレ下では借金の実質的負担が重くなるから、
リスクがより大きくなり、チャレンジを阻む事になるからだ。
「なぜ日本ではGAFAの様な企業が生まれないのか?」
「なぜ日本ではイノベーションが生まれないのか?」
この答えは実はとても簡単で「デフレだから」の一言で結論付けられるのである。

 

人間とは何もしなくても毎年2%ほど成長すると言われている。
それは、人は常に楽をしようとするからだ。
ライオンは常に全力で狩りをするが、人間はそうはしない。
如何に安全に、楽に狩りが出来るか?を考え実践する。
これは人だけが持つ特徴だろう。

 

その結果、生産力、モノの量は常に増加する。
その増加に合わせて適切に貨幣量を増やさなければ、
お金の量が不足しデフレとなる。

 

支那との貿易で貨幣を手に入れていた室町時代は、
貨幣の量を自由に調整することができなかった。
足利幕府4代将軍義持の時代に支那との国交が断絶され、
日本の貨幣量は極端に不足することになる。
室町時代が一貫してデフレ状態だったのは、このような事情からだ。

 

室町時代を通じて、日本はデフレ不況であり人々は困窮していた。
そこに追い打ちをかけるように応仁の乱が発生し、
それまで、中央銀行の役割を担っていた寺社勢力は弱体、
日本経済はさらに混迷を深め、民衆の我慢は限界に達した。
そういった状況を背景に、下剋上は民衆に支持され、
全国各地に戦国大名が割拠する時代、所謂戦国時代に突入する。
そして、戦国時代は信長とその後を継いだ豊臣秀吉により平定され、
日本は新たな社会へと変革するのである。

 

■改革に痛みは必要なのか?

後世の我々から見ると、
織田信長の誕生を促した応仁の乱は日本にとって良い事だった評価することができる。
だが、当時の人々の立場に立って考えると、
避けるべき事だったのは間違いない。

 

京の都は焼け野原になり、多くの人々は仕事も住む家も失い治安も悪化する。
戦国時代とは日本が内戦状態だったことを示す。
多くの人々が内戦で命を落とし、国土は荒廃する。
この傷が完全に癒えるのは江戸時代に入ってからだ。

 

歴史を見ると大きな改革が行われる時、社会には沢山の血が流れている。
だが、だからといって安易に「改革には傷みを伴う」などと考えてはいけない。
そのような考えを持つから、歴史から学ぶ事ができず同じ過ちを繰り返し、
避けられた筈の余計な傷みを受ける事になるのである。

 

高度経済成長の終了、バブル崩壊・・・
そこから日本はデフレ不況に突入する。
それは何故だったか?
誤ったバブルの反省をし、「緊縮財政」に舵を取ったからだ。
無駄を削ること、コストをカットすることを至上命題とし、
政府も企業もそれに邁進した。
その結果、供給される貨幣量は不足しデフレ状態になっていく。

 

タイミングが悪い事に、同時期にITが急速に社会に普及する。
これは、生産性の爆発的な向上を意味する。
つまり、そうでなくとも毎年生産性の向上によりモノの量は増えるのに、
その増加スピードが通常よりも大きくなったのである。

 

デフレ下で、多くの国民は困窮した。
キャッチアップで成長できた時代は終わっており、
日本は自分たちで試行錯誤を繰り返し、イノベーションを生み出す必要があったのに、
デフレではリスクが大きすぎてチャレンジができない。

 

そんな状況で、それまで盤石だった自民党政権に揺らぎが生じる。
国民はそれまで見向きもしなかった過激な思想に救いを求める。
社会党と自民党の連立による村山政権。
非自民連立による細川政権。
「傷みを伴う構造改革」を打ち出した小泉政権。
政治は不安定化を極め、国際的にも日本の存在感は低下した。
これは室町時代に例えるなら応仁の乱のようなものだ。
一向に出口が見えない状況に追い打ちをかけたのが、リーマン・ショックだ。
国民の我慢は限界に達し、その結果として選んだのが悪夢の民主党政権だ。

 

■民主主義で信長を生み出すために

しかし、民主党政権は織田信長では無かった。
日本を良い方向に改革するどころか、より悪化させてしまった。
信長も秀吉も家康も、より良い社会を作るための改革を行うには、
民衆の支持が必要であり、その点は今も昔も変わらない。

 

ただ決定的に違う点がある。
彼らは「支持されるか分からない状況でも行動することはできた」のである。
行動した結果を見て、大衆は支持するか不支持かを決めていた。
現代はまず支持を得なければ行動することができない。
言うまでもなく民主主義の社会だからだ。

 

民主主義の下で信長を生み出すには、
国民の少なくとも半数が、信長と同等の判断力を有する必要がある。

それはとても難しい事ではあるが、不可能ではない筈だ。
少なくとも我々は、信長や秀吉が何をしたのかを知る事ができる。
彼らが変えようとした時代と今を比べ、類似点を見つける事ができる。
歴史を学ぶとはそういうことだ。

 

日本の誕生以来、明治維新までに行われた様々な大改革は、
多くの血が流れることはあったものの、結果的にはこの国を発展させる方向に作用した。
しかし、昭和からはそうでないことが増えていった。
大東亜戦争はある程度、日本に民主主義が浸透したから起こった戦争だ。
維新直後の政治体制だったなら、開戦は無かっただろう。

 

明治維新の歴史教育は明らかに間違っていた。
国民が一致団結できる近代国家を作り上げるため、
天皇を神格化する偏った歴史教育を実施した。
そして、そんな教育を受けた国民に選挙を通じて国策を決定する権利を与えてしまった。
この国を民主主義制度の下で良くしたいのなら、正しく歴史を学ぶ事は欠かせないのである。

 

室町時代とは、それ以前の旧体制が一気に壊され、
今に至る日本の方向性が決定づけられた時代だと言える。
日本史全体を通しても、1,2を争う重要な時代なのではないだろうか?
歴史を今に活かす教育にする為に、もっとも効率が良い方法は、
この重要な室町時代を起点に学びを始める事だと私は思う。

 

次回は織田信長を中心に日本の歴史を考えてみたい。

 

 


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