言葉の汚れを落とすために

2019.05.26 Sunday

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    もう日常茶飯事のようになってきたが、また政治家の失言が話題になっている。
    日本維新の会に所属していた衆議院議員、丸山穂高氏が今回のターゲットだ。

     

    失言が報じられた後の流れは、過去の政治家達の失言の際と同様で、
    失言をした人間を徹底的に糾弾し、貶める。
    そして、「国会議員として不適切」「議員を辞めるべき」という結論に誘導する。

     

    今回の丸山議員の失言について、私は発言の内容に問題あるとは考えていない。
    ただ、それを発言した場は大きな問題だろう。
    北方領土でのビザ無し交流事業での場での発言だったわけだが、
    彼がそのような場に居たのは、衆議院の代表としてなのであり、
    一個人でもなければ、一国会議員としてでもない。
    真意はどうであれ、日本政府の公式的な立場から逸脱した発言をすることは許されない。
    その意味において、丸山議員の今回の言動は、
    日本国民の代表としての自覚が全く欠如しており、あまりに脇が甘いと言わざるを得ない。

     

    酒に酔っていた等ということは、どうでも良いことだろう。
    そもそも、日本国民が選挙で議員を選ぶとき、「この人は酒癖が悪くないだろうか?」
    等と言う事は全く考慮していないだろう。
    日本で被選挙権を得る条件は、日本国籍を持っている事と年齢しかないのだから、
    立候補する人間が酒癖は悪くないという保証など全くない。
    酒癖の悪さをもって、「議員に不適格」とするなら、
    そもそも、立候補の段階でフィルタリングする仕組みを検討すべきだろう。

     

    「女のいる店に行きたい」「俺は国会議員だから外出しても逮捕されない」・・・
    このような発言もあったと伝えられているが、これらの発言が本当だったとしても、
    それは、特に驚くに値しないだろう。
    丸山穂高氏は28歳で初当選し、現在35歳だ。
    若者としては至って健全ではないだろうか?
    人は誰しも若い頃は多くの欲望を持ち、勘違いし易いだろう。

     

    「若い人がもっと議会に増えるべき」
    このような意見はよく耳にするが、
    若い議員を選出するという事はこのようなリスクが高まるということだ。

     

    私としては、特に国会議員にあまり若い人を選ぶべきでは無いと考えている。
    考えてもみて欲しい、
    28歳の若者は、どんなに優秀な能力の持ち主だったとしても、
    人の上に立ち、社会や他者に対して大きな責任を持つ立場など経験しようもない。
    社会経験も乏しく、現実社会がどうなっていて、人々がどんな想いを持ち日々の生活をしているのか・・・
    そんなことは本の世界か、まだ短い自分の経験の世界でしか知らない。
    若いエリートであればあるほど、挫折も知らないだろう。

    国会議員とは、日本国民の代表であり、国民に対して大きな責任を持つ立場だ。
    どんなに素晴らしい志を持っていたとしても、20代や30代の若者が担うには無理がある。
    私はこう考えているが、それでも若い人がもっと政治に参画すべきと考えるなら、
    もっと暖かく見守り、「若い議員を育てる」という姿勢で接するべきだ。

     

    さて、今回メインで論じたいのは、政治家の失言についてではなく、
    日本社会で進行している「言葉の軽視」と、

    その事に起因する「言葉の汚れ」についてだ。

     

    日本人はその長い歴史の中、言葉をとても大切にしてきた民族だ。
    この事は、日本語を正しく勉強すれば良くわかる。
    日本語の表現とは実に多彩であり、英語と比べるとその差は歴然だろう。
    他者に対する好意を表現する言葉だけでも、どれだけの表現があるだろうか?

     

    目上の人に対しての言葉として、敬語(謙譲語、尊敬語、丁寧語)があるが、
    これは、日本は天皇や公家、将軍など身分の上の人に対して、
    身分の低い者が自分の言葉で話す事を許されていたという証左でもある。
    敬語が無い言語とは、身分が違うと言葉を交わす事すら許されないということだ。

     

    日本語のように多彩な表現がある外国語としてはフランス語があるが、
    フランス語は他者を貶めたり罵倒したり、悪く言う表現がとても多いという特徴がある。
    一方の日本語は、そういった目的で使う表現は少ない。
    これも、日本人が言葉を大切にしていた証拠なのである。

     

    言葉とはとても大切なものだ。
    汚い乱暴な言葉が溢れる社会は、間違い無く悪い社会であり、
    そこに生きる人々の心を蝕んでいく社会だ。
    言葉の大切について論じてみたい。

     

     

     

     

    ■言葉を重視した仏教

    「十善」という言葉がある。
    これは、仏教用語であり「10種の悪をなさないこと」を意味する。
    世界中の殆どの宗教は、「何が悪なのか?」を定義し、
    そういった悪を禁じる戒律が存在する。
    有名なのはユダヤ教の十戒だろう。

     

    十善もそういった戒律の1つと言っても良いが、
    他の宗教の戒律に見られない特徴がある。

     

    仏教では人間の行為の全て身体、口(言葉)、意(こころ)の3種に分けて、
    それぞれに悪行を定義している。
    身体にまつわる悪行は3つ、口は4つ、意は3つの合計で十悪だ。
    つまり、言葉に関する悪が最も多いのである。

     

    十悪を全て列挙すると以下の通りだ。
    まず、身による3つの悪は、
    殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)と呼ばれ、
    順に生き物の命を奪う事、盗みをはたらくこと、邪な男女の交わり(不倫・浮気)を意味する。
    これは仏教以外の多くの宗教でも、ほぼ同じ事が悪と定義されている。

     

    続いて意による3つの悪は、
    慳貪(げんどん)、瞋恚(しんい)、邪見(じゃけん)だ。
    慳貪は財物をむさぼる欲、簡単に言うと「けちで欲張り」な事、
    瞋恚は怒りや憎しみ、邪見は道理を無視する誤った見解を意味する。
    これも多くの宗教で、似たような事が言われている。

     

    最後の口、即ち言葉にまつわる4つの悪とは、
    妄語(ぼうご)、嘘をつくこと。
    綺語(きご)、言葉を無意味に着飾ること。
    悪口(あっこう)、言葉で他人を傷つけること、中傷や陰口も含まれる。
    両舌(りょうぜつ)、他人の仲を裂き、争わせる目的で言葉を使うこと。
    このように定義されている。
    嘘をつくことは、多くの宗教でも悪とされているが、
    他の3つのような事を明確な悪としているのは、仏教の特徴だろう。

     

    仏教で定義されているこれら十悪は、少なくとも日本人なら悪い事だとは思えるだろう。
    だとするなら、今の日本社会とは言葉にまつわる悪行を重ねている人がとても多いとは言えないだろうか?

     

    政治家や芸能人などが不祥事を起こしたとき、
    それに対して、報道メディアやSNSを中心としたネットで溢れる言葉は、
    その殆どは仏教が説く、言葉にまつわる4つの悪行のどれかに該当する筈だ。

     

    仏教が、言葉にまつわる悪行をこれだけ定めたのは、
    このような言葉を野放しにすることは、しまいには社会全体を荒んだものにしていくと考えたからだ。
    そして、この考えが間違っていないことは、今の日本社会を見ると明らかだろう。

     

    ところで、釈迦の時代、大勢の弟子達の中にも、言葉遣いの汚い人もいたらしく、
    仏典には、なぜそうした言葉を使うようになるのか、
    どうすればきれいな言葉を使うようになれるのか、
    釈迦の高弟が、多くの弟子たちを前に語るお経がある。

     

    そのお経の冒頭には、要約すると次のような事が述べられている。
    「荒々しい粗悪な言葉を使い、そうした言葉を生じさせる心を持ち、
    忍耐なく人の言う言葉を素直に聞かない人達には、
    たとえ請われても釈迦の教えを授けてはいけない、信頼してはいけない」

     

    もし、現代日本の学校でこのように実施したとすれば、
    恐らくは教室には殆ど生徒がいない状態になるだろう。
    それほど、今の日本では汚い言葉が溢れている。
    今の学校では、殴る蹴るなどの直接的暴力は殆ど無いだろう。
    だとするなら、現代日本の「イジメ」とは要するに言葉の暴力を意味している。

     

    昭和生まれの人は、家庭や学校で言葉遣いに対して厳しく教育された経験を持つ人が多いだろう。
    仏教のお経に現れているように、言葉とは本来そうやって厳しく気をつけるべき事なのである。

     

    ■人が言葉を汚す原因

    さて、悪い言葉を生み出す原因はどのようなものなのだろうか?
    仏教では、人が悪い言葉を使うメカニズムを16の状態に分析して述べている。
    要約すると、
    「悪しき欲を貪る、自分ばかりよくありたいと思う、
    不満の原因を他に求め怒る、忠告してくれた人に八つ当たりをする、
    猜疑心が強い、悪意を持つ、媚びへつらい要領よく他人を欺く、
    自分の考えに固執する、傲慢である。
    このような心の状態にある時、人は悪い言葉を使う」

     

    これもまた、今の日本社会を顧みれば全く正しい分析と言えるだろう。
    自己中心的で内省もしない、他者との関係を敵味方の関係で捉え、
    敵と見なした存在はないがしろにする・・・
    こんな心を持った日本人は確実に増えている。
    そして、こんな心が言葉を汚す大きな原因だ。

     

    冒頭で、若さは暴言を吐く可能性を高めるという趣旨の事を述べた。
    だが、今回の丸山議員の吐いたとされる程の暴言は、
    今の高齢者と呼ばれる世代が、丸山議員と同じ頃の頃は思っていても言葉にしなかっただろう。
    それは、多くの人が言葉遣いに対して厳しい教育を受けた結果、
    社会全体に溢れる言葉が、今よりもずっと綺麗だったからだ。

     

    丸山議員は、自分が発した言葉がそれほど汚いものだという認識はないだろう。
    そして、そういった認識は彼の個人的問題ではなく、社会全体の問題と言える。

     

    ■率先して言葉を汚すエリート達

    言葉とは、100%模倣で習得する。
    だから、日本に生まれ育つと特に教育しなくとも、ある程度の年齢で言葉を話す。
    逆に生まれて直ぐに、例えばアメリカに渡りそこで暮らすとすると、
    その子は、特別に教育しない限り、日本語は使えない。
    若い人ほど言葉が汚れているのは、その上の世代が原因なのである。

     

    現代日本社会では、エリート呼ばれる、本来は模範となるべき立場の人間が、
    積極的に言葉を汚している。
    それどころか、そうすることを推奨すらしている。

     

    代表的な人物として、橋下徹元大阪市長が挙げられる。
    彼の政治手法は、敵対構造を作り出し、有権者にその構造を分かり易く見せる事だ。
    そして、これは彼自身が幾度となく公言しているが、
    国民に何かを訴える時は、強いメッセージを打ち出す事を必要としている。
    そんな彼が打ち出すメッセージは、その多くが攻撃的な言葉だ。
    「アホ、ボケ、ポンコツ学者etc・・・」
    このような言葉は彼の口から、日常的に発せられる。

     

    仏教の教えに当てはめるなら、橋下徹という人間は間違い無く悪人であり、
    釈迦の教えを聞く事すら許されない存在となるだろう。

     

    私は彼の言わんとすることや、志向する社会像は賛同する部分もある。
    高い実行力や、勉強熱心であろう事が容易に想像できる理路武装など、
    尊敬する点も数多くある。
    私は大阪市民でも大阪府民でもないので分からないが、
    彼の政治により大阪が良くなった事も数多くあるのだろう。
    だが、そうだとしても、橋下徹という人間は政治を司るエリートには相応しくないと思う。

     

    彼自身も他者から口汚い言葉で、数多く罵られ攻撃されている。
    つまり、橋下徹という人間の周りには汚い言葉が溢れると言うことだ。

     

    無論、橋下氏は言葉を汚すほんの一例に過ぎない。
    現代の政治家の決して少なくない数の人が、
    Twitterやネット番組を活用し、橋下氏と同じような言葉の使い方をしている。

     

    政治家達が率先して、汚い言葉を使い、それを正当化するような社会で、
    子供達の言葉遣いを教育できるわけがないだろう。
    「そんな言葉をお友達に使ってはダメですよ」と教え、
    「国会議員は使っているよ」と反論されたら、なんと答えれば良いのだろうか?

     

    国会議員とは、成人した大人達が選んだ代表だ。
    汚い言葉を使う人間を国会議員にしているのは、親である大人達だ。
    そして、政治家が言葉を汚すのは、
    汚れた言葉に一時の快感を覚え、支持する大人達が有権者だからだ。

     

    ■必要性が高まる宗教、離れる宗教との距離

    様々な宗教が悪を定義するのは、
    人間と言う生き物は、意識しないと悪を犯す習性を有しているからだろう。
    「神」という人間以上の存在を作り、その存在からの教え、戒律として悪を犯す事を禁じなければ、
    人間社会とは悪が蔓延り、滅ぶものなのだろう。
    だから、人間はその文明の始まりと同時に宗教を生み出したのだろう。

     

    特に現代社会は、宗教の必要性が高まっていると言えるだろう。
    民主主義とは、主権を持つ国民皆が社会の規範足り得る存在になる必要がある。
    有権者が、汚い言葉に熱狂し、言葉を汚す候補者を議員にするようでは、
    社会は荒廃していくだけだ。

     

    インターネットの誕生とその普及は、人がもつ善の心を壊してしまう。
    Twitterを通じて、フルネームを挙げて汚い言葉で攻撃する橋下氏だが、
    その人を目の前に置いて、同じ言葉を浴びせかけるのは躊躇するだろう。

     

    インターネットは、人類史に残る偉大な発明だ。
    だが、その功罪を計るなら罪の部分も非常に大きい。
    目の前に居る生身の人間には、なかなか使えない言葉が、
    ネット上だといとも簡単に使えてしまう。
    これは、本当はとても恐ろしい事なのであり、
    インターネット社会である現代こそ、宗教の必要性は高いだろう。

     

    にも拘わらず、19世紀以降、我々人類と宗教との距離は離れるばかりだ。
    本来、科学とは神を、宗教を、補完するものであるのに、
    今や、「科学的ではない」という理由で神の存在は否定される。
    科学は宗教を補完するものから、宗教を否定するものに成り下がってしまった。

     

    民主主義の下に浸透した、人権や自由、平等という考え方は、
    神という人間以上の存在を否定し、認めない。
    キリストや釈迦の言葉は2000年以上経った現代にも残っているのに、
    たかだか数十年しか生きていない人の唱える「理屈」を、
    まるで世界の真理のように捉え、
    その「理屈」に合わないものは、「論理的ではない」という理由で否定する。

     

    ■自ら正すために

    本来、汚い言葉を使う事は誰しも不快な筈だ。
    一時的な快感は覚えるかも知れないが、誰かを汚い言葉で罵るとき、
    その言葉を発している側も、不愉快な気持ちになっている筈だ。

     

    汚い言葉を聞くことは自分も嫌な筈だ。
    まして、それが自分に向けての言葉なら深く傷つくだろう。
    ならば、他人も同じ筈だ。
    だから自分は語るまい、こう心かげるべきだ。

     

    自分は悪い言葉を語らせる欲に囚われてはいまいか、
    怒りや憎しみを抱いてはいまいか、
    忠告してくれた人を敵と見なし言い返したりしてはいまいか、
    傲慢で、自分の考えに固執してはいまいか・・・・
    日々自分の心に問い、自ら正していくことが必要なのだ。

     

    自分の心に問う・・・簡単なようでとても難しい事だ。
    公平な立場、客観的な立場で考えているつもりでも、
    人間とは自分を正当化し庇う方向に向かいがちだ。

     

    だから、宗教が必要なのである。
    宗教の教えとは不変であり、その宗教の世界観の中では真理だ。
    聖書に書かれていることも、仏典に書かれている事も変わらない。
    キリストも釈迦も新しい言葉や教えを、我々に直接聞かせてくれることはない。
    ならば、そういった宗教の教えを鏡として、今の自分を映してみることは、
    内に潜む悪を自己正当化せず、自らの力で正す力になる筈だ。

     

    仏教の十悪は、“どんな理由があろうとも“それを行う事は悪なのである。
    人が持つ最も善い部分とは、全ての人が「悪い事をすべきではない」と一致できる点だ。
    だからこそ、どんな人でも正当化しようと試みる。
    「これは悪い事ではない、正しい事だ」
    「悪いかもしれないが、必要な事だ」と。

     

    悪を犯さない事ができるなら、それは理想的だが、
    そんな人間は世界に一人も存在しない。
    だから、まずは悪行を正当化せず、「自分は悪を犯した」と自覚することが必要だ。
    そして、それを実践する事は人間の力だけでは不可能だ。

     

    宗教とは、何かを強制するものではないと私は思う。
    人は皆「善い人でありたい」という願いを持っていることを前提に、
    「何が悪か?」を述べているものだと思う。
    「自分の言葉、行動は善いことだろうか?悪い事をしてないないだろうか?」
    その答えを宗教に求めてみよう。
    どんな宗教でも、その答えはとてもシンプルに答えてくれる。

     

     


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