「人権」は人を弱くする

2019.05.22 Wednesday

0

    21世紀になってから、日本は衰退の一途を辿っている。
    サラリーマンの平均年収は平成9年(1997年)がピークで467万円、
    そこから下がり続け、近年では多少持ち直してはいるが、
    それでも平成29年度の数値が432万円だ。

     

    しかも、平均以下の年収を得ている人は、
    平均以上を得ている数の1.6倍程度という分布になっているので、
    多くの国民は実際には300万円台の年収だろう。

     

    今の日本社会のままなら、所得格差は開く一方なので、
    所得の中央値は、どんどん減る事になるだろう。
    所得に限らず、あらゆる経済指標の値は日本の衰退を如実に表している。

     

    しかし、最も深刻なのが、「日本人の精神」の衰退だろう。
    精神が衰退しているから、経済が衰退していると言っても良いだろう。

     

    平成の30年間で日本人は圧倒的に弱くなった。
    子供達は、「無視された」「LINEグループから外された」
    こんな理由で深く傷つき、時に自殺という道を選択する。

     

    職場での人間関係が少し上手くいかないだけで、うつ病になる。
    些細な事で「セクハラだ!パワハラだ!」と騒ぎたてるが、
    当人同士で一切解決する事ができない、そのつもりもない。
    ただただ、群衆に紛れて安全な場所から石を投げつけるだけだ。

     

    肉体的にも弱くなっただろう。
    高齢化による老人の医療費高等が問題となっているが、
    彼ら老人達は若い頃は、殆ど病院に行っていなかっただろう。
    しかし、今の若者達は直ぐに病院に行く。
    生涯医療費の1人当たりの額は、間違い無く今の若者達の方が多いだろう。

     

    「子供を産み育てる」という人間として最も基本的な行為ですら、
    社会に依存しないとできない有様だ。

     

    日本人をここまで脆弱にしたのは、「人権」という傲慢な価値観だろう。
    「人権」の下に全ての人は等しく貴く、価値がある。
    こんな妄想が蔓延したせいだ。

     

    個人に価値があるのは、それぞれが社会の構成員の一員だからだ。
    そして、社会で生きるという事は、基本的に辛い事の方が多い。
    そういった辛さに立ち向かい、社会に依存せず、自立して生きていく命だから尊いのであり、
    辛さから逃げる事ばかり考え、社会に依存しないと生きていけない命など無価値だ。

     

    こんな事を言うと、「弱いものは死ねと言うのか」と反発を受けるが、
    障害や事故などが理由で社会に支えて貰わなければ生きていけない命は守るべきだ。
    年老いて社会の一線から退いた者も守るべきだ。

     

    しかし、五体満足で本人の気持ちの次第で、
    十分に社会の構成員としての役割を果たせる人間が、
    「辛い」「嫌だ」などと言う理由で、その役割を果たしていないとするなら、
    そんな命を守る必要がどこにあるのだろうか?

     

    弱い者を弱いまま認める事は、決して優しい社会でもなければ、
    弱者のためにもならない。
    弱い者に厳しい人生を生き抜く力を与える事が、真に弱者に優しい社会ではないだろうか。

     

    2019年のゴールデンウィークは、御代代わりと重なり、
    史上最大の10連休となった。
    連休が終わった時、あるTV番組で「五月病」について話題にしていたのだが、
    そこで発せられた、知識人と呼ばれる人の言葉に私は耳を疑った。

     

    曰く、「学校に行きたくなければ、無理にいかなくても良い」だそうだ。
    こんな言葉を鵜呑みにし、それを実行する子供達は、
    どんな脆弱な大人に育つだろう?
    そして、何よりも許せないのは、この自称インテリは、
    自分の子供には決して同じ事は言わないだろう事が容易に想像できるからだ。

     

    こうして、社会の中に格差が広がっていく。
    基本的には人間社会も、自然界と同様に弱肉強食社会なのである。
    その事を忘れ、弱者を弱者のまま放置するような事ばかりを唱えるから、
    日本社会は衰退する。

     

    日本政府の主要政策の殆どは、日本人を弱くする政策ばかりだ。
    「楽になる」と思う政策は、人を弱くする政策でしかない。
    人生トータルで見ると、結局は辛い思いをすることになる。

     

    人間社会と自然界に違いがあるとすれば、
    人間社会は、弱者のままでも「生きていける」というだけであり、
    弱いままでは、人生は辛い事ばかりになる。
    弱い事が死に直結する自然界の方が、見方によっては幸せかもしれない。
    死んでしまえば、辛い思いをせずに済むのだから・・・

     

     

     

    ■働き方改革が目指す社会の本質

    日本人を弱くしておきながら、
    より厳しい社会にするのが今年度から始まった「働き方改革」だ。
    これにより様々な事が変わる。
    例えば、企業は従業に有給を取得させる義務が生じる。

     

    労働者側から見ると、これは喜ばしい事と受け取るだろう。
    しかし、それは間違いである。

     

    そもそも、一連の働き方改革の中身を見ると、
    「労働時間を減らす」という意図が見て取れる。
    つまり、働く事自体をネガティブに捉える考え方が根底にある。
    仕事とは、本来はやり甲斐があり達成感を感じられる行為であり、
    決して、「出来ればやりたくない」といったものではない。

     

    今の日本の労働環境に問題があるとすれば、
    それは「働き方」などではなく、「働かせ方」だろう。
    仕事にやり甲斐や達成感を感じられないから、
    「やりたくない」「休みが欲しい」と思うのであり、
    ここを改革しない限り、働き方をどんなに変えても、何の効果もないだろう。

     

    労働者は、ただただ「やりたくない」と思う事が正当化され、
    実際に休めるようになるだけであり、その先に待っているのは所得の減少だ。
    休日は働いているから価値があるのであって、
    休日が多ければ、その価値は低下する。
    更に、お財布が貧しい休日など辛いだけだろう。

     

    働き方改革の掲げる目的は、「労働生産性の向上」だ。
    労働生産性とは単純な概念で、生み出した価値÷労働時間で求められる。
    つまり、労働時間を減らせば(生み出す価値が変わらないなら)労働生産性は向上する。

     

    日本政府が目指す社会とは、
    「10の成果を10の時間で出す人」よりも、
    「10の成果を5の時間で出す人」が評価される社会だ。
    これは、これまでの日本社会と全く逆の価値観だ。

     

    今現在でも多いが、日本のサラリーマンは残業や休日出勤を誇らしげに話す人が多い。
    残業している同僚を見ると「頑張っている」と思う人も多いだろう。
    しかし、日本政府が目指す社会が実現したとすると、
    これは全くの逆になる。
    残業や休日出勤は、労働生産性の低さの証となり、
    能力が低い社員と評価されることになる。

     

    「10の成果を10の時間でも11の時間でも・・・出してくれれば良い」
    こういった労働環境なら、多くの人は自分の居場所を持つ事ができる。
    だが、「10の成果を5の時間で出してくれ」は、
    どんなに努力しても、できない人はできない。
    そして、そんな人の数は決して少なくないだろう。

     

    結局のところ働き方改革が実現しようとする社会とは、
    弱者を弱者のまま放置し、切り捨てる社会なのである。
    10の成果を出すために、長時間の残業が必要だとしたら、
    確かにそれはその瞬間は辛い事だろう。
    しかし、続けていれば次第に終わるまでに必要な時間は短くなる。
    続けていれば確実に成長でき、個々の成長は社会全体の成長に繋がるだろう。

     

    目先の辛い事から解放することばかりを考えるから、
    弱者は弱者のまま、社会の底辺に隔離される結果にしかならない。

     

    働き方改革が実現しようとする社会とは、本当は今よりずっと厳しい社会なのだ。
    なのに、概ね好意的に受け入れられているのは、
    国民が傲慢になり、自分が利益を得る側に居るという思い込みをしているからだ。
    自分は、労働生産性の高い人間だと、多くの人は根拠もなく思い込んでいる。

     

    しかし、現実は真逆であり殆どの人は10の成果を5の時間で出せる側にはいない。
    だが、その事に気が付いた時にはもう手遅れだろう。
    長時間の残業もなく、パワハラもセクハラもない。
    企業側に非はなく、「あなたの労働生産性は低い」という事実は、全て自己責任となる。
    その先に待っているのは、劣等感に苛まれ、社会に依存しなければ生きていけない、
    そんな暗く辛い人生だ。

     

    ■労働生産性の向上の意義とは?

    そもそも、「労働生産性」が低いと何が悪いのだろうか?
    日本は先進国で最低の労働生産性と言われているが、
    日本国内だけを考えるなら、労働生産性は常に向上している。
    何故なら、働く時間は平成になって間違い無く減っているからだ。

     

    昭和は土曜日も普通に働いていた。
    学校も土曜日は午前中だけだが授業はしていた。
    この20年、GDPは殆ど変わっていないのだから、
    労働時間が減っているなら、計算上の労働生産性は向上していることになる。
    だが、この20年で日本は間違い無く貧しくなっている。
    つまり、労働生産性の向上は、必ずしも豊かさに繋がらないという事だ。

     

    労働生産性の向上が豊かさに寄与するとしたとしても、
    それが、社会全体の幸福に繋がらなければ意味がない。
    この事が重要なのであり、日本社会ではこういった視点が大きく欠けている。

     

    労働生産性の高い社会とは、要するに効率的で無駄がない社会だ。
    逆に言うと、非効率や無駄が許されない社会とも言える。
    だから、平成の時代はコストカットに長けた経営者が、もてはやされた。
    「無駄をカットする」という掛け声の下、多くの公共事業は縮小された。

     

    だが、「幸せな社会」とは、「非効率や無駄が許容される社会」ではないだろうか?
    私は昭和、平成の時代を見てきたが、
    昭和の人達の方が幸せそうに、楽しそうに見える。
    バブル期の日本社会など無駄に溢れていた。
    社会は今より汚かったかも知れないが、人間味に溢れていた。
    多様性も現代よりもずっと自由に表現できたように思う。
    今の日本は、少しでも他人の気分を害すると、袋だたきだ。

     

    経済的な成長は確かに重要だ。
    それをなし得ていたからこそ、昭和の時代は活気があった。
    労働生産性の向上は経済成長を達成する為の手段かもしれない、
    だが、「沢山働いて、沢山稼ぐ」も経済成長の手段であり、
    そうやって、日本は成長してきた。

     

    労働生産性のような概念は、白人社会のものだ。
    そして、彼らの労働観は日本人のそれとは大きく異なる。
    明治以降、サラリーマンという働き方が増えていくが、
    それでも、戦前までの多くの日本人の仕事とは「農業」だ。

     

    農業は、そもそも労働生産性の低い業種と言える。
    とりわけ、家族単位で営まれる日本の農業形態は効率が悪い。
    作物が収穫できるようになるまでは、一定の時間がかかり、天候にも大きく左右され、
    生き物を扱うので手間もかかる。

     

    だからこそ、無事収穫できた時は大きな喜びと達成感を感じる事ができた。
    美味しいご飯を食べる事は、万人が幸せを感じる事であり、
    自分の育てた作物を、美味しそうに食べる人を見ることは、大きな幸福感を得る。
    「労働を美徳」と捉え、積極的に働こうとする日本人の労働観は、
    こういった農耕民族としての歴史が育んできたものだろう。

     

    白人社会は全く異なる。
    彼らはその文明の歴史の始まりから、「奴隷」という身分を作り出した。
    奴隷制度は、経済成長の手段としては最も効率的だ。
    労働を辛いものと捉え、それを強制的にやらせる身分を作り、
    奴隷を基盤に発展してきたのが、白人社会と言える。

     

    欧州では中世の時代に奴隷制度を根絶したが、
    奴隷がなくなった時代に、欧州からアメリカ大陸に渡ったヨーロッパ人は、
    新大陸で再び奴隷制度を復活させた。
    「効率を追い求め、できるだけ働かないようにする」
    白人社会の労働観とは結局はこんなものだ。

     

    ■白人化する日本社会

    日本社会はどんどん白人社会化していると言えるだろう。
    資源が少なく、人材が唯一の資源と言ってもいい国なのに、
    若年層ほど、「楽で楽しそうに見える道」を安易に志向する。

     

    AKBに代表されるアイドルグループは、
    「研究生」のようなものを合わせると、1000人を軽く超える人数がいる。
    そして、その多くが未成年だ。
    他人に伝えたい強い想いがあるわけでもない、
    これまで歌や踊りや演技・・・そういった芸を真剣に磨いたわけでもない、
    単に、「アイドルになりたい」「注目されたい」
    こんな動機でオーディションにエントリーする。
    そして、こんな子供達を大人が食い物にする。
    今のアイドルは、その殆どが「奴隷」だと言えるだろう。
    遅くとも20代後半には、賞味期限切れになり切り捨てられる。
    その後の未来に光は無いだろう。

     

    Youtuberやインスタグラマーと呼ばれるようなものも実態は奴隷だ。
    「簡単に直ぐに目立ちたい」
    そんな動機で、Youtuberを自称し必死に毎日動画を制作する。
    これをYoutubeの運営会社であるGoogleの視点で見ると、
    無報酬で勝手にコンテンツを作ってくれている状態であり、奴隷そのものだ。
    Youtuberの99%は、広告収入で生活はできない。

     

    一方で、選択制になった高校の物理を選択する学生は10%程度だと言う。
    物理はとっつきにくく、面白さが分かるまで時間がかかるからだ。
    しかし、日本という国家を維持するために、テクノロジーは欠かせない。
    今の日本の技術を支えているのは、40代中盤〜50代以降の技術者であり、
    後継者は年々減っている。
    このままだと、20年後にはノーベル賞は取れなくなるだろう。

     

    農業、漁業、林業・・・社会の基礎を支える職業に就く若者は減少の一途だ。
    「そんな仕事をするくらいなら、働かない」
    働かない選択肢を堂々と選べるようになっているのが現状だ。

     

    営業職、システムエンジニア、土木業・・・
    やったこともなければ、よく知りもしないのに、
    「辛そう」というだけで拒絶する。
    今の若者達が志向する仕事とは、
    「明日無くなっても困らない仕事」ばかりではないだろうか?

     

    ■人を弱く、傲慢にした「人権」

    人権という考え方の蔓延が、こんな傲慢で弱い日本人を量産した。
    人権の根底に流れている思想は、「人間至上主義」だ。
    「神」という人間以上の存在を、人権は否定する。

     

    災害大国である日本は、毎年のように台風や大雨、そして地震などで大きな被害を受ける。
    だが、我々人類は未だにそういった災害を防ぐ術を持たないどころか、
    災害の予測すら殆どできていない。
    自然に対しては、無力と言っても過言でもない状態だ。

     

    人間同士が殺し合う戦争すら、無くす事ができず、無くす為の糸口すら見つかっていない。
    そもそも、未だに人類は戦争を禁止していない。

     

    人間が生み出した経済システムでさえ、その仕組みが良く分かっていない。
    「経済学」なる学問は存在するが、
    こういった学問が、大恐慌やバブル崩壊、通貨危機などを防いだ例は皆無だ。

     

    所詮、我々人間とはその程度の存在なのである。
    生命体としては最弱と言っても良く、間違いばかりを犯し、
    自然界にとっては破壊者と言っても過言ではない。
    こんな人間が、なぜ人間だけが持つ固有の権利として「人権」なるものを有していると言えるのだろうか?

     

    こんな人間という生物が、生態系の頂点に君臨できたのは、
    「弱い者を見捨てず、少しでも強くしようとした」からではないだろうか?
    そうしたのは、我々人間は社会という集団を形成しなければ、あまりに無力だからだろう。

     

    日本だけでなく、世界はその事を忘れつつある。
    個人を優先する社会は、結局は弱者を弱いまま放置することになる。
    そして、何れは社会を維持できなくなるだろう。
    何兆円もの資産を持っている資産家だろうが、結局は弱い人間に過ぎず、
    社会がなければ1日たりとも生きていくことができない。

     

    「辛い事が無い世界」を目指すのは間違いだ。
    何故なら、そんな世界を作る事は人間には不可能だからだ。
    ならば、目指すべきは「辛い事に立ち向かう力」を養う事だろう。

    その為の第一歩は、「人権」等と言う得体の知れない権利を放棄することだ。

    そんな権利は本当は自分には無い事を自覚することだ。

    「人権」は間違い無く人を弱くし、社会を壊すものでしかないだろう。

     


    政治ランキング

    コメント
    コメントする