我欲に支配された平成の御代からの再生

2019.05.05 Sunday

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    2019年5月1日、明治以降初めての譲位(生前退位)が行われ、
    新しい御代、令和が始まった。

     

    元号制度は、紀元前140年に中国の前漢で生まれ、
    その後、東アジアを中心に使用が広まっていくが、
    現在、元号制度を採用しているのは世界で日本だけである。

     

    元号を使うメリットは色々とあるが、
    私が最も感じる利点は、「過去を総括し、そこから学びを得る」事だと思う。
    「明治の時代とは○○だった」と言う風に、総括することができる。
    実際には改元とは、古い元号から間を置かずに行われるので、
    急に何かが大きく変わるわけではない。

     

    ただ後から振り返ると、明治、大正、昭和、そして平成と、
    確かに時代毎にかなりの違いが見て取れる。

     

    改元を迎えると、何となく日本人は気持ちをリセットして、
    新たな心新たに前向きになれる国民性があるのだろう。
    だから、改元は日本にとって、社会が大きく変革する契機になる可能性が高い。

     

    但し、変革とは必ずしも良い方向になることを意味するわけではない。
    平成という時代は日本社会に大きな傷をつけ、社会の持続性を大きく毀損した時代だと私は考えている。

     

    社会や国家が破壊され、滅亡する最大の理由は、
    どんな時代も、どんな国家でも、利己主義の蔓延だ。
    自分、もしくは自分に近しい者だけの利益を重視し、
    全体の利益を軽視、無視した考えが蔓延した時、国家は滅亡する。

     

    平成の時代に蔓延した、「自由や平等、人権」という美名は、利己主義を正当化した。
    「国家や会社の為に働くのは格好悪い事だ」
    「男女は平等、子育ては夫婦で等しく分担すべきだ」
    「仕事は自由に自分がやりたい職につくべきだ」
    「会社や学校で、社員や生徒に何かを強制するのは止めるべきだ」etc・・・

     

    こんな考えが、蔓延したのが平成の時代だ。
    これらは一見すると、社会全体の幸福を考えた立派なものに見えるが、
    実は単に「自分“だけ”は辛い想いをしたくない」という事に過ぎない。

     

    上皇陛下は平成の時代を振り返って「戦争の無い時代」と言い、
    その事を良かったと評価した。
    自己中心的な考えが蔓延っている日本人を象徴するお言葉であり、
    まさに、日本国憲法に定められている通り、天皇陛下は「日本国民の象徴」だと思う。

     

    大東亜戦争で日本が敗戦した後も、世界では戦争が絶えた事はない。
    確かに日本人が直接戦火を交える事は、戦後一度もないが、
    それは、米ソの冷戦構造の中、日本の戦略的価値が高かった為、
    アメリカが守ってくれたからに過ぎない。

     

    そして、第二次世界大戦後に世界中で起きた戦争の多くは、
    日本の同盟国であるそのアメリカが当事者であり、
    その戦争の殆どを日本は支持してきた。
    アフガン戦争では後方支援としてインド洋に海上自衛隊を派遣しているし、
    イラク戦争では陸上自衛隊を派遣している。

     

    目の前でイジメが行われているのに、それを見て見ぬふりをするどころか、
    積極的に支持し、イジメの手伝いをする・・・
    普通の感覚なら、イジメに加担しているとのと同じだろう。
    だとするなら、戦後の日本とは実質的には戦争に参加しており、
    汚い仕事は他人に行わせ、自分たちは安全な場所で楽な仕事をしていただけだ。
    平成と言う時代は、決して「戦争の無い時代」などでは無いのである。

     

    新しい御代が始まり、日本国中がお祝いムードに包まれている。
    その事自体は、素晴らしい事だと思う。
    日本人に生まれて良かったと強く感じる瞬間だ。
    しかし、過去の事を直ぐに忘れ去り、教訓にしないのは日本人の悪い癖だ。

     

    「平成」は、失敗の連続だった時代であり、
    国土の多くを焦土にされた、あの敗戦よりも大きな傷を負った時代だろう。
    「平成」に何が起こったのかを考えてみたい。

     

    ■本来の民主主義のメリット

    日本社会に利己主義を蔓延させた大きな原因は、「民主主義の浸透」だろう。
    日本人の多くは、民主主義とは何なのか?を殆ど理解していないにも拘わらず、
    民主主義を絶対的なものと考え、金科玉条のごとく大切にしている。
    民主主義の対局に位置する独裁を嫌悪し、
    時に政治家や上司を貶める為に、「独裁的だ」というような言葉が使われる。

     

    独裁政治とは何故悪なのか?
    実は、独裁体制というシステム自体は悪ではない。
    どんな政治体制でも、利己的になる事が悪なのであり、
    独裁体制とは、そうなりがちな政治システムと言うだけだ。

     

    もしも、常に社会全体や臣民の事を第一に考え、政策を実行する独裁者だったとしたら、
    その独裁国家に暮らす臣民はこの上なく幸福だろう。

     

    独裁体制とは、国王や貴族等の少数の特権階級によって運営される。
    この権力者達が、自分や自分の一族の事を第一に考え政策を実行すると、
    多くの場合、大多数の国民は不利益を被る。
    そして、国民にはそんな不利益な政策を止める術が殆どない。

     

    一方の民主主義体制は、選挙を通じた全国民の政治参加を前提とする。
    この場合、個々の国民が利己的な考えて政策を選んだとしても、
    最終的には社会の最大公約数的な政策に収束する。
    シンプルに言うと、「社会の過半数の利己主義を満たす政策」になるだろう。
    そう考えられている。

     

    「そう考えられている」とあえて述べたのは、実際は違うからだ。
    その事は、今の日本社会を見るとよく分かるだろう。
    待機児童、夫婦別姓、同性婚・・・
    社会的課題としてこれらは頻繁に取り上げられるが、
    実際にこういった事が、身近な問題として降りかかっている人は少数だろう。

     

    勿論、民主主義とは必ずしも少数を切り捨てるわけではない。
    少数意見であったとしても、それが最終的には社会全体の利益に繋がるものであるなら、
    それは尊重すべきであり、議論に値する意見だ。

     

    ■少数の為の民主主義という矛盾

    しかし、果たして上に挙げたようなイシューは、そういった類いの主張だろうか?
    待機児童が存在するのは大都市部だけであり、その殆どが東京だ。
    その東京においても子供がいる家庭の半数以上が待機児童というわけでもなく、
    数パーセント程度だ。
    これが語る事実は、「待機児童は殆どの国民にとって無関係」ということだ。
    そして、国家を挙げて待機児童を減らすと、一体全体にどんな利益があるのか?
    この点が最も重要だろう。

     

    待機児童を減らす⇒働きながら子育てがし易い社会の創造⇒少子化対策
    こんな理屈がよく述べられるが、これは詭弁だ。
    全国民の1%にも満たない、大都市の待機児童を減らしたところで、
    出生率に一体どんなインパクトがあると言うのだろうか?

     

    夫婦別姓はどうだろうか?
    これは、それを望む人以外には全くメリットはないだろう。
    「望まない人に何もデメリットがないから良い」
    このような意見は良く目にするが、これはとても危険な思考だ。

     

    日本は長らく夫婦同姓が基本とされてきた。
    武家など一部の特権階級は別姓もあったが、多くの農民、町民は夫婦同姓だ。
    そんな何百年も続いている制度を変える事で、
    「何もデメリットがない」等と、なぜ言えるのだろうか?
    もしも、思いも寄らない弊害が後に発覚したら、一体誰がその責任を取るのだろうか?

     

    「誰にも迷惑をかけないからOK」ではなく、
    「社会全体に明確な利益があるか?」
    古くから続く制度や伝統、文化を変える時は常にこのことを第一に考えるべきだ。

     

    同性婚も同様だ。
    歴史上、我が国で同性婚が一般化した事は一度もない。
    戦国大名には同性愛者が多かったとも言われているが、
    彼らのような絶対的な権力者ですら、同性婚は実行していない。

     

    私個人の考えでは、同性愛者とは病人のようなものだ。
    同姓、異性を問わず、他人を好きになると殆どの場合、性欲を伴うだろう。
    セックスとは子供を産む為の行為であり、性欲は本能として生まれながらに備わっているものだ。
    だから、人間は同性に性欲を覚えないように作られている。
    同性を好きにならないように作られている、と言い換えても良いだろう。
    故に、同性愛者とは何らかの異常をきたした人と言って良い筈だ。

     

    異常があるなら、その原因を調べ治療する方向を模索するべきだ。
    「同性愛を認める」ではなく「同性愛者を治療する」
    社会全体のリソースを投入するなら、こういった方向にいくべきではないだろうか?
    同性愛が治療できたら、異性と結婚し子を残す可能性が向上するのだから、
    その方が、遙かに社会全体の為になる。

     

    多数に利益はなく少数だけを救済する民主主義は、独裁体制よりたちが悪い。
    歴史が証明しているように、独裁体制の殆どは武力を伴う革命で打倒された。
    それは、倒すべき対象が明確だったからだ。
    しかし、民主主義体制下では倒すべき対象がおらず、
    せいぜい、その時の政府の政治家を引きずり下ろすくらいしかできない。
    しかし、それでは間違いを正す為に膨大な時間が必要となるのだ。

     

    民主主義は「良い選択」をするものではなく、
    「よりマシなものを選択する」制度だ。
    更に言うと「糞の中から少しでもマシな糞を選択する」制度だ。
    そういったことを繰り返し、長い時間をかけてより良い社会の構築を目指すのである。

     

    ■平成を象徴した最後の選挙

    夫婦別姓や同性婚のような、1000年という単位で続いている制度を変えるなら、
    同じくらいの時間が必要だと思うべきだ。
    ところが、現代日本ではあまりに短時間で変えようとする。
    日々の生活の苦しさや大変さを、安易に制度のせいにし、
    「改革」という名に期待し逃避し、そしてそんな改革は失敗する。

     

    失敗を反省することなく、「改革」の旗の旗手に責任をなすりつけ、
    次の「改革」の旗に群がる。そして、同じ失敗を繰り返す・・・
    これもまた、平成の時代に繰り返されたことだ。

     

    利己主義は、必ず「責任回避」を伴う。
    何故なら、自己の利益を追求するなら、責任を認める事はできなくなるからだ。
    短期的には自己の責任を認める事は、自分に不利益を及ぼす。
    だから、自分の過ちを認めると言うことはとても難しいことなのだ。

     

    4月に行われた、統一地方選挙で大阪では大阪維新の会が圧勝した。
    維新の会は、今の日本で唯一と言って良い「多少マシな野党」なので、
    私は自民党支持者だが、維新も応援している。

     

    大阪維新の会が掲げる最重要政策は、「大阪都構想」だ。
    大阪市は解体、東京23区のような特別区に再編し、
    上部組織として大阪府を大阪都とする構想だ。
    実現すれば、日本の地方自治体の在り方を根本から変える可能性がある大改革だろう。

     

    大阪都構想という政策については、私は良いのか悪いのかまだ判断しかねる。
    賛成でも反対でもない。
    ただ、今回の選挙結果を見て、平成に繰り返された数々の失敗を重ねた。
    平成を締めくくる最後の選挙としては、象徴的な結果とも言える。

     

    大阪の自民党がダメ過ぎたというのも確かにある。
    ただ、大阪府民、大阪市民の果たしてどれだけが都構想の意味を理解しているのだろうか?
    大阪都構想が実現すると、後からそれが間違えだと気が付いても、
    今の大阪の形に戻す事は容易ではないのだ。
    不可能と言っても良いかも知れない。

     

    今回の選挙結果で即都構想の実現となるわけではない。
    最後には住民投票というプロセスがある。
    ただ、維新は都構想の実現の為の政党であると言っても良く、
    維新圧勝と言う結果は、都構想を実現させるという意思と言えるだろう。

     

    大阪維新の会の基本的な理念は、「改革」の旗の下での「無駄のカット」だ。
    つまり、必ず傷みを伴うものなのである。
    これは、小泉内閣のスローガンだった「傷みを伴う改革」と全く同じだ。
    国民の高い支持を基盤に断行された小泉内閣の改革は、
    日本社会に大きな傷を残した。

     

    「無駄を削減すれば予算は幾らでもある」
    そう言って、子ども手当や高速道路無料化など、
    数々のバラマキ政策を掲げて政権を取った民主党政権もまた、
    日本に大きなダメージを与えた。

     

    “本当に”無駄なものなら、それは確かに是正すべきだ。
    しかし、世の中に本当に無駄なものが一体どれだけあるのだろうか?
    行政の無駄とは、主として支出を指すわけだが、
    政府や自治体が支出をしているということは、必ずそれを受け取っている人達がいる。
    その支出で生計を立てている人がいる。
    そういった人にとっては、無駄などではなく重要な行政の支出だろう。
    誰にとっても無駄なものなど、世の中にはそう多くはない筈だ。

     

    「改革」に逃避し、現実から目を逸らすのは令和の時代は止めるべきだ。
    苦しい事や不条理と感じることがあるなら、
    その殆どは、自分の選択の結果であり、自分にその原因がある。
    政府や行政に自分の人生の幸せを要求するのは間違いであり、
    それは自ら進んで奴隷になるようなものだ。

     

    ■利己主義は結局は経済的利益を奪う

    経済的な貧しさも人を奴隷化する。
    現代社会では経済的な貧しさは、人から自立性を奪い、
    行政や社会システムに依存した人生に成り果てる。
    そして、平成を通じて日本人は間違い無く貧しくなった。
    平成の30年間、主要国では日本だけが全く成長していない。

     

    ここにも利己主義が深く関係しているだろう。
    「自分のやりたいことをやる」
    「仕事とは自分の為にやること」
    「会社の為に尽くすなど時代遅れ」
    こんな考えが大手を振って歩くようになったのが、経済低迷の理由の1つだ。

     

    本来、あらゆる仕事とは他人の為に行う行為だ。
    社会のどこかに、商品やサービスを必要としている人がいるから、
    それを供給することで報酬という対価を貰い、仕事となる。

     

    だから、より多くの人が必要とする商品やサービスを提供できる人が、
    より多くの報酬を手に入れる。
    つまり、お金持ちになれるわけだ。

     

    こんな最も基本的で単純な仕事の仕組みを忘れ、
    「自分の為に」などと自己中心的な考え方で仕事をするから、
    収入が上がらないのだ。

     

    やりたいことを仕事にできるのは、ごく稀だ。
    まして、やりたいことで大金を手にできる可能性は、
    宝くじに当たるようなものだと思うべきだろう。

     

    自分の収入に不満があるなら、その原因の殆どは自分自身にある。
    学歴が低い事が理由ではない。
    日本の教育が悪いわけでもない。
    会社や社会の制度が悪くて認められないわけでもない。
    利己的な考えで仕事を捉え、仕事をしているからだ。

     

    ■我欲を抑えるカギは宗教

    このように利己主義の蔓延は、日本社会を破壊しつつある。
    平成の30年間とはそんな破壊が進んだ時代と言えるだろう。
    しかし、これは日本だけの問題ではなく、欧州やアメリカでも進行中だ。
    つまり、民主主義を採用している国々は壊れつつあるということだ。

     

    この破壊の進行を止め、立ち直るのはとても民主主義下ではとても難しいだろう。
    人間は、本質的には利己的な生き物であり、
    民主主義と言うシステムは、個々の持つ利己的な性質を増幅させるからだ。

     

    人間とは面白い生き物で、誰もが利己的にも関わらず、
    それを堂々と表明することは悪いとも同時に考えている。
    だから、大衆という群衆に紛れ、個を特定されない状況になると、
    利己的な行動を躊躇無くとる。

     

    しかも、先進国と言われる民主主義国家では、
    人権や平等、自由と言った美名が利己的な行動や言動を正当化してくれる。

     

    この状況を人間だけの力で変えるのは、恐らくは不可能だろう。
    だから、我々の遠い祖先達は神を、つまり宗教を生んだ。

     

    天皇の証である三種の神器、その中でも最も重要とされているのが鏡(八咫の鏡)だ。
    これは、天照大神が孫であるニニギノミコトを地上に使わした時の、神勅に由来する。

     

    ニニギノミコトとは天皇陛下の祖先にあたる存在だが、
    高天ヶ原から地上(要するに日本)に降り立ったときに、3つの神勅を与えられた。
    その2番目の神勅は「宝鏡奉殿(ほうきょうほうでん)の神勅」と呼ばれ、
    現代語に翻訳すると、

     

    「これに自分の姿を写しなさい。そして自分の我欲によって民を苦しめてないか、
    もしそこに【我】があったならば、その我を取り除きなさい。」

     

    と言うような意味のものだ。
    【かがみ】から【が(我)】を取れば【かみ】となる。
    つまり、日本における神とは「我欲」が無い存在を意味し、
    それがなし得ることができた者は、誰でも神と呼ばれる存在になれた。

     

    だから、日本に数多くある神社には普通に人間達が神と祀られている。
    靖国神社の英霊達は、国家の為に我欲を捨てて命を投げ出したから、
    神として祀られているのである。

     

    神社で参拝し手を合わせる時、必ず正面には鏡が祀られている。
    鏡には当然自分の姿が映り、自分を拝むという事になる。
    これには、「鏡に映る自分自身の神を拝み、自分の行動を自覚する」という意味があると言う。

     

    神社とは、
    「ご神鏡に映った参拝者自身の自分の中にある神様を自覚できる場所」でもある。
    日本人の多くは、毎年1度は何らかの形で神社に参拝する筈だ。
    その時に、こういった日本古来の宗教観を思い出すことができたなら、
    きっと、利己的な考えを抑制することに繋がる筈だ。

     

    キリスト教でも仏教でも、イスラム教でも・・・
    古くから存在するあらゆる宗教は、自己中心的な考えを悪として否定している。
    他人の為、社会の為に、我を取り除ける人間を善い人と説いている。

     

    宗教とは社会秩序を維持するためのシステムと見なす事ができる。
    つまり、それぞれが我欲を剥き出しにする社会は秩序が維持できないと言う事だ。

     

    我が国の君主である天皇陛下は、神道という日本の宗教の最高司祭だ。
    もしも、皇室を大切に思い、敬愛の念があるのなら、
    失いつつある、日本人の宗教観を取り戻すべきだろう。
    そうでなければ、我々は天皇陛下の臣民足る資格は無い。

     

    神道はあらゆる宗教に寛容だ。
    だから、神道でなくともキリスト教でも仏教でも、
    自分の宗教を持つ事が、この壊れかけている社会を再生する糸口になる筈だ。

     

    令和の時代は、日本人の善き精神を取り戻し、
    利己主義から解放される時代になることを願ってやまない。

     


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