進化論と創造論

2018.10.16 Tuesday

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    2018年5月末、生物学の分野で大きな発見が発表された。

     

    その内容とは、「DNAバーコーディング」という方法を用いて、
    地球上の10万種の動物から約500万のDNAバーコードを比較・分析した結果、
    「全生物種の約90%は10万年〜20万年前に同時に地球上に出現していたことを突き止めた」というものだ。

     

    日本ではこの件に関する報道は殆どされていないが、
    この発見の意味は大変重い。
    何故なら、この発見は長年我々が信じてきた「進化論」を否定する事に繋がりかねないからだ。

     

    進化論とは、生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、
    という仮説に基づき、
    現在見られる様々な生物は全てその過程の中で生まれてきたとする説明や理論群だ。
    日本では、ダーウィンが提唱した理論として有名だろう。
    正確にはダーウィンが提唱したのは、「自然選択(自然淘汰)による進化」であり、
    進化論の中の1つの理論に過ぎない。

     

    この進化論に基づき、全ての生物は原始の海でバクテリアなどの単細胞生物から進化し、
    現在に至るとされている。
    だから、「ヒトは猿から進化した」と日本の義務教育では教えている。

     

    仮に進化論が間違っていたとしたら、それは今の社会の根底を覆す事態になる。
    何故なら、進化論は“神(創造主)”の存在を否定する根拠だからだ。
    近代以降、我々人類は科学を絶対的なものとし、
    科学的に説明できるか否かをあらゆる事を判断する基準としてきた。

     

    宗教の存在は認めつつも、神の様な人間の上位に位置する“何か”の存在は科学的にあり得ないとされている。
    その結果、人間は自分たちが食物連鎖の頂点に位置する地球の支配者だと思っている。

     

    だから、我々は「鯨を捕るな(殺すな)」と叫ぶ口と同じ口で、牛肉や豚肉を食べる。
    人間の生命を至高のものと考え、それ以外の生物の命の価値をその時の都合で決める。
    人権という人間だけが生まれながらに持つ権利を規定し、
    他の生物にはそのような権利は認めない。
    近代以降、人間は神に成り代わったのであり、
    「人間」という神を成立させている根本的な要素が進化論だ。

     

    進化論が間違っているとしたら、
    我々人類は、旧約聖書や数多くの神話で語られているように、
    「創造主」のような超常的存在を認めるしか無くなる。
    そして、創造主が居るなら、我々人間を含めた全ての生物は、
    創造主の所有物ということになる。

     

    今でもサウジアラビアの憲法はイスラム教の経典だが、
    そのような制度が正しいという事になるだろう。
    このように進化論の否定とは、単に学術的な発展ではなく、
    我々の今の生活の根底を揺るがすものになる可能性がある発見なのである。

     

    ■生命が偶然生まれる確率は?

    最初に断っておくと、今回の発見により直ちに進化論が否定されたわけではない。
    実際、学者達の多くは今回の発見は進化論を覆すものではないと判断している。

     

    曰く、
    原生する全ての生物は氷期を経験しており、
    特に10万年から1万年前には最終氷期極大期があり、
    多くの種はそこで大量に絶滅して遺伝的多様性の急激な減少を起こしている。
    今回の研究結果は、この20万年〜10万年前に生き残った種が現行の生物種の基盤になっている事を意味する。
    故に「今回得られた結果は、
    現存するミトコンドリアDNAの変異の90%が20万年以内に生じたものであるということであり、
    種が発生した年代ではない」
    と言うことらしい。

     

    私は生物学に詳しいわけでは無いが、このような説明は一定以上の説得力を感じる。
    しかし、同時に「定説を守ろうとしている」だけにも感じる。
    現代社会はこれまでの定説の延長線上にある発見は簡単に受け入れ信じるが、
    定説を崩す理論に対しては非常に後ろ向きだ。

     

    だからこそ、今年のノーベル医学賞・生理学賞を受賞した本庶佑氏は
    「世の中のことは嘘が多い。
    教科書が全て正しかったら、科学の進歩はない。
    基本は人が言っていること、教科書に書いてあることをすべて信じない。
    なぜかと疑って行くことが重要」
    と語ったのだろう。

     

    特に進化論のような理論は、
    生物は何億年もかけて進化するとされているので、
    実際に進化の過程を見ることが殆ど不可能であり、証明が難しい。
    一方で、進化論に対する疑問は数多く生まれる。

     

    例えば、進化論とは要するに「生物は偶然生まれた」と言うことを意味するが、
    極単純な単細胞生物であるバクテリアでも、
    DNAには大量の遺伝子情報が存在しており、
    その量は、1000ページの本に匹敵すると言う。

     

    果たしてこのような偶然は発生しうるのだろうか?
    偶然1000ページの本に匹敵する遺伝子情報が構成される確率とは、
    例えば、赤ん坊が適当にキーボードを叩いて、1000ページの物語ができるような確率だが、
    このような事が本当に起こりえるのだろうか?

     

    情報科学の世界においては、「情報」に関する自然法則が確立されているが、
    それは、「情報は、知的な発信者のみが生み出せるもの」という法則だ。
    この法則に則ると、進化論に言われているような自然淘汰や偶然の積み重ねで、
    最初のDNA(=情報)が誕生する可能性はゼロだろう。

     

    更に仮にDNAが偶然完成したとしても、
    生物の細胞が生き続けるには、少なくとも3種の複雑な分子である、
    DNA、RNA、タンパク質が組み合わされなければならない。
    RNA分子とたんぱく質分子も、偶然ではあり得ないほどの、
    極めて複雑で高度な構造を持っている。

     

    しかも、これらの分子が偶然存在できたとしても、
    それらが完璧な方法とタイミングで組み合わせられなければ、
    生物は絶対に誕生しないのである。

     

    あらゆる生物の構造とは、それほどに高度で複雑なものであり、
    これが偶然に発生するとは到底考えられないと思うのが普通の感覚だろう。
    実は進化論者も、それが実はゼロと言っても差し支えない程に低い確率なのは分かっている。
    その証拠が、「地球外生命体は存在するか?否か?」の議論だ。

     

    生命が偶然生まれる確率は、殆どゼロであることが分かっているから、
    これほど広大で、幾億の星が存在するにも関わらず、
    地球外生命体の存在は論争の種になるのだ。

     

    ■日本人が進化論に無関心なワケ

    このように進化論に対する疑問は数多く生まれる。
    アメリカでは、今でも全国民の4割は進化論を信じていないと言う。
    日本人は何の疑問も持たず、進化論を受け入れる人が多いが、
    これは異常と言っても良いのかも知れない。

     

    日本人が進化論にあまり興味が無いのは、
    「人は何のために生きているのだろう?」と言う根源的な疑問をあまり抱かないからだろう。
    この事は日本では哲学があまり発展しなかった事からもうかがい知れる。

     

    興味深いことに、日本の創世神話である古事記には、
    島や神を生む記述は沢山存在するが、人間の創造に関する記述がない。

     

    古事記では既に人間は存在しているという前提で、
    イザナギ・イナザミの二柱の創造神は話をしている。
    つまり、日本神話では人間は「いつの間にかいた」存在となっている。

     

    日本民族が人という存在に対して関心が低い大きな理由は、
    日本列島という土地が、世界的に見て極めて平和な地域だったからではないかと私は考える。
    まず、日本列島は生命が生きるために最も重要な水が、ほぼ無尽蔵に存在する。
    気候は温暖であり、森林は豊富、危険な猛獣も殆どいない。
    それでいて、島国であるため外国からの侵略の脅威も低い。
    自然災害が多いと言う負の面があるものの、
    人が生活する環境としては、他に類がない程に安全な地域と言えるだろう。

     

    弥生時代に朝鮮半島経由で、渡来人が日本列島に渡ってくることになるが、
    それまで住んでいた縄文人と激しい争いがあったような形跡は見られず、
    緩やかに平和的に同化していったと考えられる。
    これは世界史的にはあまり例がない事だろう。
    ある地域に他民族が流入してくると、殆どの場合、争いが起こり、
    その争いに敗れた民族は滅んでいく。
    これが世界の歴史の原則だ。
    民族の移動が発生する大きな理由は、食料や水の問題であることを考えると、
    日本列島は豊富な食料や水があるので、
    他の地域で見られるような取り合いが大規模には発生しなかったのだろう。

     

    日本民族にとって、最大にしてほぼ唯一の脅威は自然であった。
    だから、日本民族は自然に対しての興味関心が高く、
    逆に人間に対する興味関心は低かったのでは無いだろうか?

     

    日本以外の地域においては、最大の脅威は常に同じ人間であった。
    奪い合い、殺し合い、弱い者は淘汰される・・・そんな世界が日常だ。
    そんな世界では、人は「何のために自分は生きているのだろう?」と考える。
    こうして哲学は発達し、宗教に答えを求めたのだろう。

     

    ■神との決別

    しかし、文明が発達し科学が確立すると、
    次第に宗教、創造主の存在は人間にとって邪魔になってきた。
    創造主はどんなに願ってもその姿を見ることはできず、
    声を聞くこともできない。

     

    神の意志は、常に神の代弁者を自称する司祭や預言者の言葉によって示される。
    司祭や預言者は紛れもなく人間であり、神の意志は人を支配する為の道具となっていった。
    ヨーロッパでは、長らくローマ教会が「神の代理人」であり、
    各国の王はローマ教会に認められることで、その正当性を得た。

     

    その後、王権神授説という考え方に変わり、
    「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、
    また王権は、人民は言うに及ばずローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた
    神以外の何人によっても拘束されることがなく、
    国王のなすことに対して、人民はなんら反抗できない」
    とされ、国民に対する絶対的支配の理論的根拠となった。

     

    進化論とは、そういった根拠を崩す理論である。
    進化論が正しいとするなら、創造主は存在せず、
    全ての生物は偶然から生まれた存在となる。
    だとするなら、国王が特権的な力を持ち、それを血統で継承する事に正当性はなく、
    国王に正当性が無いのなら、国王によって選ばれる貴族の持つ特権の正当性も失われる。

     

    進化論がなければ、欧米の民主主義は生まれなかっただろう。
    自由や平等、人権と言った概念は「創造主は存在しない」事を前提にしていると言える。

     

    ■旧約聖書はフィクションなのか?

    現在、生物の起源を説明する理論は、大別して進化論と創造論の2つしかない。
    「宇宙から飛来した」と言うような説もあるが、
    これは、本質的な答えになり得ない。
    何故なら、「その飛来した生物はどのようにして生まれたか?」という、
    同じ疑問が生まれる事になるからだ。

     

    創造論とは、旧約聖書の創世記に書かれた事が真実だとする考えであり、
    天地万物を創造した「創造主なる神」の存在を前提としている。
    旧約聖書が正しいとされる根拠は、他の宗教の教典に比べ旧約聖書は詳細に記述されており、
    その記述内容の中には、現代科学で説明できる事柄が多いからだ。

     

    例えば大洪水で有名な「ノアの方舟」だが、
    創世記の記述によると、神はノアに方舟の正確な寸法を伝えている。
    その寸法から導き出される方舟のサイズ比率は30:5:3で、
    これは黄金比と呼ばれる比率であり、
    高さ30メートルの高波に遭遇しても、浸水・転覆・破損をしない強度であることが確認されている比率だ。
    そして、現代の大型タンカーもこの比率で建造されている。

     

    他に旧約聖書は、現代科学でも分からない事の答えが記述されている。
    人間以外の全ての生物は裸で生活しているが、人間だけが服を着る。
    これは初期においては防寒の為と言われているが、
    進化論に則るなら、サルから人に進化する過程で毛皮を失ったからだ。
    毛を失うと、保温や防虫ができず生存上は極めて不利になる。

     

    進化は進歩を意味しているわけではないので、進化が必ずしも優れた方向に進むわけではない。
    だから、「毛皮を捨てる」という生存上不利な進化もあり得るだろう。
    しかし、「人間だけ」毛皮を無くしたというのは不可解だ。
    毛皮を無くした進化をした他の動物は見つかっていない。

     

    旧約聖書には人間だけが服を着る理由について以下のような記述がある。

     

    6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
    それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
    7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。
    そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
    (創世記3:6−7)

     

    これは、有名なエバが悪魔の誘惑に屈して、
    食べる事を禁じられた木の実を食べてしまったエピソードの描写だ。
    食べた木の実は「知恵の実」と呼ばれているが、
    人間だけがこの禁断の木の実を食べ、その結果、自分が裸であることを知り、
    そしてそれが恥ずかしい事だと知り、服を着るようになったと解釈できる。

     

    科学を絶対的なものと考える人にとっては、創造論など論外なのだろうが、
    私は創造論の方が、納得感のある答えを提示していると感じる事も多い。

     

    旧約聖書に綴られている多数のエピソードに似たエピソードは、
    世界中の数多くの神話にも存在する。
    楽園伝説はギリシャ神話やペルシャ神話にもあるし、
    古事記における高天原も、楽園伝説の1つと見なせる。
    大洪水の記述も数多くの神話に記述がある。

     

    似たような事象がこれだけ数多くの神話に登場するということは、
    そういった事実があったと考える方が自然ではないだろうか?

     

    ■宗教と科学

    宗教は、科学と相反する考え方だと思う人も多いが、
    科学は宗教を補完する存在だ。
    20世紀最大の天才アインシュタインは、
    「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」
    このような言葉を残している。

     

    宗教と科学の対立は、「正しいか、正しくないか」ではなく、
    争点が政治にあることが大きな原因だ。

     

    例えば、ガリレオは地動説を唱え裁判にかけられることになるが、
    これは地動説が正しいか?これまでの天動説が正しいのか?という単純な構図では無い。

     

    元々、聖書にある神の言葉の表現は、人間の理解に合わせた解釈が必要であった。
    そして、どう解釈するかは教会に絶対的権威があった。
    にもかかわらず、只の信徒に過ぎないガリレオが、
    再解釈を迫る権威を持っていると思想が「傲慢」だとされた。
    ガリレオ裁判とは「知識を生産・普及させる権威を持つのは誰か」という
    政治的な闘争と捉えることができる。

     

    誰が公共教育における「正しい科学」を決められるのか?
    有権者か、政治家か、裁判官か、それとも科学の専門家なのか?
    教育を支配するのは誰であるべきかの闘争は常に行われている。

     

    先に述べたように進化論の真偽は、現代社会の根幹に拘わる、
    非常に重要な科学的テーマであり、創造論の様な別の主張もある。
    しかも、創造論を主張する人は世界的には決して少なくない。

     

    にも拘わらず、日本では進化論を絶対的に正しい理論のように教え、
    創造論のような他の主張は全く教えない。
    その結果、殆どの日本国民は盲目的に進化論が正しいと思っている。

     

    科学は人間の進歩にとって必要不可欠なものだ。
    科学で証明できる事は「再現」できる。
    つまり、宗教で語られる事象を科学的に証明すると言うことは、
    神の行為を我々人間が、自らの手で実行できると言うことだ。

     

    旧約聖書の記述が真実とするなら、
    それこそが、知恵の実を食べ、楽園を追放されるという代償を払ってまで得たものなのだ。

     

     


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