若い才能をもてあそぶ国民栄誉賞

2018.06.04 Monday

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    平昌オリンピックで2大会連続の金メダルを獲得した、
    男子フィギュアスケートの羽生結弦選手に国民栄誉賞が贈られる事が決まった。

     

    彼の成した偉業は同じ日本人として誇らしく思うし、賞賛に値する大変な偉業だ。
    それでも、私は彼に国民栄誉賞を与える事には大反対だ。
    このような受賞は、国民栄誉賞という賞の価値を無価値にするだけでなく、
    まだ23歳の若者の将来を考えても悪影響でしかない。

     

    安倍政権が始まってから、国民栄誉賞の乱発が横行している。
    国民栄誉賞の第一号は1977年の王貞治氏だが、
    王貞治氏が受賞してから2012年までの受賞者は20人と1団体だ。
    これが第二次安倍政権始まってからは、既に6人が受賞しており、
    今回の羽生選手の受賞が7人目と言うことになる。
    つまり、全受賞者の約35%が直近6年に集中しているという事を意味する。

     

    国民栄誉賞の表彰の仕方を定めた国民栄誉賞表彰規程実施要領では表彰の候補者について、
    「民間有識者の意見を聞く」と定めており、
    首相の要望だけでは決められない仕組みにはなっているが、
    安倍総理の意向が強く働いている事は間違いなく、
    政権の人気取りに利用されている可能性が大変高い。

     

    ただ、政治家が国民栄誉賞を旬の有名人に与える事で、
    国民の人気を獲得できるなら、
    国民栄誉賞は「世論の動向」に大きく左右されるという事も意味している。

    だから、普段あれだけ何でも反対する野党も、

    国民栄誉賞の受賞には全く反対しない。

     

    そして、2000年以降の日本社会は、誰かに望ましい行動をとらせるためには、
    「ムチよりもアメ」、つまり褒め言葉であれ、お金であれ、
    何かしらの報酬を与える事を最善と考える風潮が蔓延している。
    近年の国民栄誉賞の乱発は、こういった風潮を強く反映しているとも考えられる。

     

    確かに、短期的には「ムチよりもアメ」は効果があるだろう。
    しかし、少なくともそれ自体が楽しい活動では、
    報酬を与えられると、人はその活動に興味を失い、報酬を打ち切られた途端、やらなくなる。
    この事を経験的に分かっていたから、
    これまでの国民栄誉賞の受賞者の殆どは、現役引退後の受賞だったのではないだろうか?
    それどころか、美空ひばりに代表されるように、死後に受賞した者も少なくない。
    またプロ野球選手のイチローは、現役中ということを理由に辞退をしている。

     

    近年の受賞者は、「現役」の者が多い。
    レスリングの吉田沙保里、伊調馨。将棋の羽生善治、囲碁の井山裕太。
    個人では無いが、サッカーワールドカップを制した2011年日本女子代表チーム。
    彼ら、彼女らは今も現役だ。

     

    そして、国民栄誉賞の受賞後に成績を落としている傾向が見て取れる。
    吉田沙保里選手は、国民栄誉賞を2012年に受賞したが、
    受賞後のオリンピックでは銀メダルに終わっている。
    サッカー日本女子代表も、受賞した後のワールドカップで準優勝に終わっており、
    その後の国際大会でも成績は下降線だ。

     

    こういった事を考えると、23歳の羽生結弦選手に賞を与えることは、
    彼の将来にとってマイナスになるリスクが高いだろう。
    フィギュアスケーターとしては世界最高の選手であったとしても、
    彼はまだ23歳であり、人生経験の乏しい普通の若者だ。
    イチローのように辞退しない事が、その事を現しており、
    そのリスクに全く気がついていないのだろう。

     

    今回は、羽生選手の国民栄誉賞受賞にどんな意味があるのかを考えてみたい。


     

    ■基準無き賞

    世の中には国民栄誉賞のような「賞」が溢れている。
    その年の最優秀賞を選ぶ文学賞、建築デザイン、新車のデザイン、演劇、絵画、報道、音楽・・
    あらゆる分野に何かしらの賞が存在し、その下にさらに部門別の賞がある場合が多い。
    最優秀映画賞、監督賞、主演女優賞などがそうだ。

     

    こういった賞を注意深く見ていくと、実は「明確な基準がない」事が分かる。
    例えば今回の羽生選手の受賞も、受賞した理由が不明瞭だ。
    「フィギュアとして66年ぶりとなる五輪連覇」が理由の1つであるとされるが、
    五輪連覇以上が基準であるなら、柔道の野村忠宏、水泳の北島康介、体操の内村航平は、
    それを満たしているのに受賞していない。
    彼らが受賞できず、羽生選手が受賞できる合理的な理由を誰も説明できないだろう。

     

    明確な基準がないと言うことは、賞を逃した者に大きな悪影響を与える。
    野村選手や、北島選手、内村選手が獲得した金メダルは、
    羽生選手の獲得した金メダルより価値が低いと言われているようなものだ。
    しかも、フィギュアスケートと柔道、水泳、体操を比べるなら、後者の方が競技人口は多い。
    競技人口が多いと言うことは、より金メダルの獲得が困難であることを意味する。
    難度の高い金メダルを羽生選手と同じように連続で獲得したにも拘わらず、
    国民栄誉賞は貰えない。貰えない合理的な理由もない。
    どうみても不公平であるし、いわれのない挫折感を感じたとしても不思議ではない。

     

    要は、こういった賞を受賞できるか否かは、大衆の熱狂ぶりに大きく影響されると言うことだ。
    但し、国民栄誉賞に限れば、同賞の目的が、
    「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに
    顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」
    となるので、大衆の熱狂具合が影響する事は、完全に間違っているわけではない。
    ポジティブな感情による熱狂は、「明るい希望」と言うこともできるからだ。

     

    しかし、羽生選手がそれほど大きな熱狂を日本に与えたかと言われると大きく疑問が残る。
    最初の受賞者である王貞治は、チームメイトの長嶋茂雄と共にON砲と言われ、
    老若男女を問わないスーパスターだった。
    彼らが現役を引退して40年あまりが経過したが、
    今でも彼らの名前を知らない日本人は少ないだろう。
    ハッキリ言うと、羽生選手とは比べものにならない。

     

    ONは、100年後でも野球界では語り継がれる存在なのは間違いないし、
    ON時代は日本の1つの時代を現す言葉として、残り続けるだろう。
    一方で、羽生結弦と言う名前は、10年後ですらどれくらいの人が知っているか疑問だ。

     

    羽生選手が日本に大きな熱狂をもたらしたと思うなら、
    それはインターネットの存在があったからでしかない。
    ネットの世界では、簡単に話題量が可視化されるので、
    大フィーバーのように錯覚しているだけだ。

     

    羽生フィーバーなどと言うモノは、所詮は一過性のものに過ぎなく、
    王貞治や長嶋茂雄、美空ひばり、千代の富士、長谷川町子・・・
    過去の国民栄誉賞受賞者が日本国民に与えた「明るい希望」に比べれば、
    無いに等しいものだ。
    そんな一選手に国民栄誉賞を与えると言う行為は、
    過去の受賞者に対する冒涜であり、賞の価値を著しく毀損する行為である。

     

    このように、「明確な基準なき賞」とは、
    本人のモチベーションを下げるだけでなく、他の候補者のモチベーションを下げ、
    過去の受賞者を冒涜する事にすらなる。
    しかも、賞を与える事によるメリットは殆どないようにも思える。

     

    ■報酬の効果とは

    賞とは報酬の一種だ。
    そして、報酬で釣って人をやる気にさせるという考え方は、

    西洋では古くから一般的であり、近代以降、日本でも教育その他の分野に広く浸透している。
    企業では「成果に応じた報酬」「能力に応じた評価」こう言った制度が普及しつつある。

     

    学校では成績をつけて生徒の学習意欲を引き出そうとする。
    しかし、このやり方はむしろ「勉強はつまらないものだ」と思わせる結果になっていないだろうか?

     

    本を読む事、算数の問題を解く事は純粋に面白い事だと気が付かせる方が学習意欲の向上に繋がるのは間違いない。
    好奇心は人間の進化の原動力だ。
    周囲の事物を上手く利用しようとする衝動は、
    哺乳類、とりわけ人間に最も近い猿や猿人類が生まれながらにもつ性質だ。

     

    何かを上手くやりおおせる事、何かを発見することは深い満足感や達成感をもたらし、
    そうした感情の方が外から与えられる報酬よりも遙かに意欲を高める効果を持つだろう。

     

    羽生選手が幼い頃にフィギュアスケートを始めた時、
    そこには外から与えられる報酬など一切なかった筈だ。
    ただ、純粋に上手く滑り、上手くジャンプできる事が楽しかっただけであり、
    上手くできた時に、この上ない達成感を感じた筈だ。

     

    企業でも、給与や賞与、出来高制など金銭的な報酬で社員のやる気を引き出そうとするが、
    こうしたやり方は、仕事をつまないものにするだけだ。
    「つまらない」と思う事は、それをやる事の報酬がどれだけ高くとも、
    「つまらない」事は全く変わらず、誰しも「つまらない」事は止めたい。

     

    金銭的報酬は「つまらない」事を「仕方が無くやる」動機付けになるが、
    「止めたい」という気持ちは変わらない。
    だから、少しでも手を抜こうとするし、休もうとする。
    報酬が途切れれば、あっさりと止める事もできる。
    生活の為に止められないなら、不満が鬱積することになる。

     

    本来、仕事とはそれほどつまらないものではない筈であり、
    私たち人間は本来仕事を楽しむ性質を有している筈だ。
    誰かが必要としているから仕事があるのであって、
    必要としている人にとって、その仕事をしている人は有り難く、感謝する。
    他人に感謝される事は、どんな人であっても嬉しいだろう。

     

    「日本の労働生産性は低い」
    近年、よく聞く言葉だが、この大きな理由は「仕事をつまらないものにしている」事によるものではないだろうか?
    かつての日本メーカーは、社員の自主性に任せる部分が大きかった。
    今は、あらゆる業務をマニュアル化しようとし、様々なルールが作られている。
    「このようにやりなさい」と言うことだけが積み上がり、
    そこに規定されていないことは、「やってはいけない」と認識されるようになった。
    これでは、どんな仕事でもつまらないだろう。

     

    人は、自分で決断できる状況では、外からの動機付け(報酬)がなくとも自主的に働く。
    自らが決め、計画した事は、満足いく結果を出すために全力を尽くす。
    人は外から押しつけられたことより、自分で選んだものに対して遙かに強い想いを持つからだ。
    報酬で釣るよりも、達成感と誇りを持たせる方が業績は向上するのは明らかだろう。
    報酬のメリットなど、実は殆ど無いと言って良いのではないだろうか?

     

    ■罰は執着を生む

    報酬が、仕事や活動をつまらないものとするなら、
    罰を与えることはどんな意味を持つだろうか?
    もしかしたら、罰を与えることで禁じられた活動がより魅力的に見えるのではないか?

     

    家庭内で行った研究では、
    親から厳しい罰を受けていない子供は、親がいるときも、いないときも、
    言いつけをよく守ることが分かっている。
    また、泣いても放っておかれている子供は、泣いたら親が直ぐに傍にきてくれる子供よりも、
    よく泣くことも分かっている。

     

    この事から分かるのは、「しつけ」に関しては厳しい罰を与えることは逆効果であるということだ。

     

    報酬で何かを強制する場合と同様に、罰で脅す場合も、
    外から何かを強制される事に対して人は強い反発を示す。
    軽い罰で何かを我慢する事を学んだ子供は、罰がなくなっても我慢する。
    それは自分で選んだ行動だからだ。
    厳しい罰を恐れて行為を止めた子供は、罰せられる恐れがなくなれば、
    またその行為をする。
    罰は、その行為にむしろ執着する作用をもたらす。

     

    最近の子供達は、親が厳しく叱り罰を与えることが減っている。
    その結果、「おとなしい子」「良い子」が増えているように思う。
    しかし、同時に何にも執着しない子供もまた増えている。

     

    「子供には、できるだけ自由にやりたいことをやらせて、やりたいことを見つけてもらう」
    このような教育方針は、現代日本では一般的な考え方だと思うが、
    私はこれでは逆に「やりたいことは見つからない」と思う。
    「やりたいこと」とは、「執着」から生まれる。
    簡単に認められることには、人は執着をしない。
    だから、現代日本では大学を卒業しても「やりたいことがない」若者が多いのではないだろうか?
    何歳になっても「自分探しの旅」をしている旅人が多いのではないだろうか?

     

    ■必要なシステム、不要なコンテスト

    このように報酬と罰、アメとムチの効果はそう単純なものでなく、
    多くの場合、意図した結果と真逆に作用することが多い。
    どうしても必要な場合を除き、何らかの評価を下し、
    格付けすることにどれだけの合理性があるかは大いに疑問が残る。

     

    賞を与えることは、多くの不幸を生み出す結果に終わることが多い。
    しかし、研究や創作活動などを支援するための選考は別に考える必要がある。
    現代の科学やスポーツは多額の予算が必要であり、
    助成金の投入なくしては、科学の進歩もスポーツの振興もあり得ない。

     

    だから、研究計画などを審査し、助成金を振り分けるシステムはなくせない。
    こういった審査が必ずしも公正な評価が出来るとは言い難いが、
    それでも、助成対象は選ぶ必要があり、必要なシステムなのである。
    しかし、コンテストによる賞は何の役にも立たずなくしても問題ないだろう。

     

    ■名誉の意味は?

    国民栄誉賞とはコンテストとは異なる。
    国民栄誉賞は優劣を決めることではなく、名誉を与えることだ。
    名誉とは人間にとって、時に命よりも重要視するものだ。
    例えば殆どの軍人が、最も欲しているものは名誉だ。
    軍人とは「名誉の為に命を差し出した人」と言っても間違いではないだろう。

     

    戦前、日本では国の為に戦い戦死した軍人には、
    靖国神社に祀られ神となる最高の名誉が与えられた。
    だからこし、彼らは神風特攻隊のような自爆攻撃ですら厭わなかった。

     

    神風特攻隊など、全く愚かな作戦としか言いようがないが、
    名誉の為に戦闘機で軍艦に特攻した、個々の軍人は決して愚かではない。
    全体の為に自らの命を投げ出すような人間は尊敬に値する。
    誰しもそうなろうとすべきだ。
    だから、名誉を与えるのである。

     

    自分の為だけ無く、広く国家国民の為に汗や血を流した者に最高の名誉を与えることで、
    多くの国民が「自分もそうありたい」と思って貰えるように、
    国家は全体の為に尽くした者に名誉を与える。
    それが国民栄誉賞の意味だ。

     

    この観点で考えても、今回の羽生結弦選手の受賞は間違っている。
    彼は平昌五輪の直前、練習中に怪我をした。
    その怪我の影響で、彼は団体戦での出場は取りやめ、個人戦のみに出場することを決めた。
    その結果、彼は個人戦で金メダルを獲得したので、
    「個人の結果」を第一に考えるなら、彼の下した判断は間違っていない。
    しかし、個を優先した結果であることも間違いなく、
    国民栄誉賞の趣旨からは全く外れていると言わざるを得ない。

     

    私は羽生選手の今回の判断を非難する気持ちは全くない。
    スポーツ選手にとって一番大切なのは、どこまで記録を伸ばせるかであり、
    世界の一流選手と戦って勝てるか、その事に尽きるだろう。
    まだ23歳の若者なのだから、今は自分の為に全力を尽くして貰いたい。
    金メダルという結果を出したのだから、彼の決断は全く間違っていないし、
    最大限の賛辞を贈りたいとも思う。
    しかし、それでも彼は国民栄誉賞の受賞には相応しくない。

     

    彼自身にとっても大変な重荷を背負う事になる。
    国民の規範になるように一般人より遙かに品行方正である事が求められる。
    スポーツ選手として偉大であることと、
    人間性が優れていることに因果関係はない。

     

    その証拠に、偉大な記録を残したスポーツ選手が、
    麻薬や違法行為に手を染める例はそれほど珍しくない。
    逆に国民栄誉賞などと言う重荷が、彼をそういった行為に走らせる原因になるかも知れない。

     

    ■若者の未来を玩具にして良いのか?

    私は名誉とは、死後か最低でも晩年に与えるべきものだと思う。
    国家が与える名誉なら尚更だ。
    50年後、羽生結弦という人物に「国民栄誉賞を与えよう」となるなら、
    それは、彼が一過性のブームによるヒーローではなく、
    真に「国民に希望を与えた存在」だったという事だ。

     

    今回、羽生選手に国民栄誉賞を与えることで、
    彼は本当の名誉を得る機会を永久に失った。
    機会を奪ったのは、愚かな大衆とそれに迎合することしか出来ない政治家だ。

     

    23歳の若者は、これから何十年も続く人生を大きな重荷を背負って歩む事になる。
    彼は国民に感動を与える為に厳しい練習をしていたわけでもなく、
    国民栄誉賞が欲しくて練習していたわけでもない。

     

    「怪我を克服しての金メダルに感動した」
    こんなことは、周りが勝手に思う事であり、
    スポーツ選手として練習で怪我をするなど未熟であることの証だ。
    恐らく羽生選手自身がそのことを最も分かっており、反省しているだろう。

     

    彼の偉業を称え、今後も活躍してくれることを願うなら、
    陳腐な名誉を与えるのではなく、静かに見守り、応援し続けることだ。
    国民が報酬がもたらす効果を考えず、
    名誉を軽んじ、単なる娯楽として若い才能を消費し続ける限り、
    今後も大衆に迎合する政治家に国民栄誉賞は利用され続ける事になるだろう。

     

    未来ある若者に無用な重荷を背負わせ、
    大衆の玩具や政治の道具にして良い理由など何もない。

     


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