日本史に学ぶ13−明治が壊した日本文化−
2022.10.30 Sunday
JUGEMテーマ:歴史
明治維新は日本史上最大級の変化であり、
様々な事がごく短期間で変化した。
その結果、日本国は有色人種で初めての近代国家となり、
日本人は有色人種で初めて白人達から対等に扱われる民族となった。
明治維新で成された事を挙げると、どれも偉大な業績であり、
明治時代は日本にとって輝かしい時代であったと言える。
しかし、物事には必ず功罪、光と闇があり、
光が強く大きい程、闇もまた大きくなる。
明治維新の闇、それは2000年以上続いてきた日本独自の文化の破壊、
言い換えるなら「日本人らしさ」を破壊した事だ。
昭和期の敗戦も、現代日本の衰退も、「日本人らしさ」の喪失が本質的な理由だ。
明治維新は確かに成功と呼べるかも知れないが、
それはあくまで短期的視点で評価するならだ。
中長期的視点に立つなら、実は失ったものの方が大きかったと私は強く感じる。
そもそも、明治政府に正当性は無いと言って良い。
勝利したから美化されているだけであり、
実際には維新の志士達はテロリストであり、薩長は反乱勢力に過ぎない。
260年続いた徳川幕藩体制を打倒する大義名分は「尊皇攘夷」だった。
簡単に言うなら「開国に反対している天皇の意向を無視して、開国を進める徳川幕府はけしからん」と言う事だ。
ならば、徳川慶喜が大政奉還をしたのだから、再び鎖国を行うが筋だが、
明治政府が進めたのは徳川路線の継続であり、積極的に西洋文明を取り入れる事だった。
勿論、あの時代に鎖国政策に戻そうものなら、日本は欧米列強の植民地になっていただろう。
開国路線を進め、西洋の文明を導入し近代国家日本を構築する事は正しい選択だろう。
ならば、なぜ政権を返上した徳川と戊辰戦争と言う内戦をする必要があったのだろうか?
260年にも渡り、日本の内政・外交を担ってきた徳川と協力して、
新しい国作りを進めていく方が最良の選択だったのではないか?
実際、明治天皇の父である孝明天皇には倒幕の意思はなく、幕府と協力体制を望んでいた。
とどのつまり、薩長を中心とした倒幕勢力の目的とは自分達が権力を握る事であり、
天皇は自分達を正当化するための道具に過ぎなかった。
1000年以上も都であった京都から、東京に遷都した最大の理由は、
天皇を京都に置いたままだと、かつての自分達のように天皇を旗印に、
自分達の権力を脅かす者達が現れるのを恐れたからだろう。
平安京への遷都から1000年以上、京都は都であり続けたが、
政治や外交の中心地は、長らく江戸(東京)にあったので、
新政府を京都に置くことはできない。
だから、京都から東京に遷都し、天皇を自分達の監視下に置いたのである。
「力さえあれば何をしても良い」
どんな大義名分を掲げても、明治政府のやったことはこういうことだ。
このような価値観は諸外国では当たり前のものだった、
だから、明治政府は西洋の“文化”も積極的に取り入れた。
当時、西洋の“文明”は日本の100年先を行っていたので、
これを取り入れる事は正しい。
だが、“文化”を取り入れる必要は無かった筈だ。
文化面で日本は西洋の1000年先を行っており、日本から見るなら西洋文化は愚劣なものだ。
これまでも我が国は、主に中華帝国を中心に外国の文明や文化を取り入れてきたが、
文化については何を取り入れるべきかを慎重に吟味し、
取り入れる場合も、日本流にアレジンして取り入れてきた。
日本がこれ程まで長きに渡り、独立を保てたのはこのようにして独自の文化を守ってきたからだ。
明治政府にはこのような慎重さはなく、あまりに拙速に西洋の文化を取り入れた。
しかも「優れた文化」としてだ。
これにより、江戸時代まであった日本文化の多くが失われる事になる。
現代を生きる我々は、明治に失われた「日本人らしさ」を取り戻す必要がある。
そうでなければ、日本の繁栄は無い。
西洋をそのまま模倣するだけなら、我々は彼らに勝つことはできない。
明治時代に我々は何を失ったのか?を考えてみよう。