「日本人らしさ」は日本経済再生の鍵

2018.06.20 Wednesday

0

    日本経済のピークは1995年だ。
    この年の世界の経済規模(GDP)ランキングでは、日本は世界2位であり、
    その規模は約5.5兆ドル、1位のアメリカは約7.7ドルである。
    対米比で実に7割の経済規模を誇り、
    10年後にはアメリカを追い抜き、基軸通貨はドルから円に変わるだろうとまで言われた。

     

    それから20年、2016年のGDPランキングの日本の順位は第3位に後退し、
    その規模はほぼ変わらず約5.5兆ドルだ。
    1位も変わらずアメリカだが、その規模は約19.5兆ドルと2.5倍に成長しており、
    対米比は、3割に満たなくなってしまった。

     

    日本に変わって2位につけたのが中国で、その規模は11.5兆ドルと、
    こちらは対米比で6割程に迫っている。
    但し、中国の経済統計データは真偽が相当に怪しいものなので、
    実際はここまでの経済規模は無いと思って良いだろう。

     

    なぜ日本は、この20年余り全く経済成長することができなかったのだろうか?
    私はその最も大きな理由は、「改革」にあると考えている。
    1989年から平成が始まり、来年には平成の世は終わりを迎えるが、
    平成と言う時代は改革の時代だった。

     

    政治、企業、教育・・・あらゆる分野で「改革」の必要性が叫ばれ、実行された。
    昭和以前の慣習やルールは、「古い」「合理的ではない」「これからの時代に合わない」
    このように評価され、改革が行われた。


    この流れは現在進行形であり、今の政府が掲げている重要政策は、
    「働き方改革」「人作り革命」だ。

     

    平成の30年間で繰り返された改革は全て失敗しており、
    間違いなく、「働き方改革」も「人作り革命」も失敗に終わるだろう。
    それだけでなく、後世に大きな課題を残すことになる。
    これも平成の改革の歴史が証明している。

     

    例えば、「正規雇用」と「非正規雇用」の格差は、現在日本の大きな課題の1つだが、
    この原因を作ったのは小泉内閣が進めた「聖域無き構造改革」の結果である。
    そもそも小泉政権以前、日本では原則「派遣社員」は認められておらず、
    システムエンジニアなど、特殊な専門技能職のみ派遣社員は認められていた。
    そして、そんな例外的に認められていた派遣社員は、
    正社員よりも恵まれた待遇を受けていたのである。

     

    それをほぼ全ての職種に広げたのが、小泉政権が推進した構造改革だ。
    こんな改革をしなければ、「非正規と正規の格差問題」などという問題自体が存在しなかったわけだ。

     

    これら改革が全て失敗に終わった理由は、
    「日本らしさの喪失」では無いだろうか?
    合理的・進歩的な行動が最良であると盲目的に信じ、
    文化や伝統を無視し、ロジカルに説明できる事こそが真理であり、
    「上手くマニュアルにできないものはどうせロクでもないに決まっている。
    だから捨ててしまうべきだ」
    そんな発想で進められたのが、平成の改革の正体だ。

     

    社会が円滑に機能するうえで、人々が暗黙のうちに持っている知恵や約束事、
    あるいは慣行は重要な役割を果たす。
    これこそ文化や伝統の力の中核だ。

     

    我が国は世界最長の歴史を有している国家であり、
    先人達の膨大な知恵の積み重ね、つまり強力な文化・伝統の力があった。
    それを無視して、非合理的であるとか、定式化・定量化できないとか、
    酷いときは「欧米で学んだ理論と違うから」と言った理由で、
    ドンドン切り捨てていく。

     

    その結果、「日本らしさ」は喪失し、市場における立ち位置を失った。
    マーケティングの世界では、「市場での立ち位置」とは「ポジショニング戦略」と呼ばれる。
    ポジショニング戦略とは、ごく簡単に言うと「競争をしないで勝つ」とも言える。
    自分たちにだけが持つ独自の役割を持ち、「他に替えられない存在」になれれば、
    競争などは最初から起きない。

     

    日本人の国民性はそもそも競争が苦手だから、
    「ポジショニング戦略」は、日本の経済成長の為には重要な要素だ。
    しかし、独自の立ち位置を確立することは、“一般的には”難しい。
    が、幸せな事に我が国は世界最長の歴史が育んだ、独自の文化・伝統が存在する。
    我々、日本人はそれを大切にし、改良を加える事で、
    確固たる日本の立ち位置は自然にできるのだ。

     

    「改革の流れを断ち切り、日本の文化・伝統に立ち返る」
    これこそが、日本経済再生の鍵である。
    平成の約30年間、我々は誤った道を歩み続けてきた、
    だが、日本人が持っている独自性は、30年程度で失われるものではなく、
    まだまだ、我々のDNAレベルで息づいてる。
    今回は、そんな先人達が残してくれた、貴重な遺産について考えて見たい。

     

    若い才能をもてあそぶ国民栄誉賞

    2018.06.04 Monday

    0

      平昌オリンピックで2大会連続の金メダルを獲得した、
      男子フィギュアスケートの羽生結弦選手に国民栄誉賞が贈られる事が決まった。

       

      彼の成した偉業は同じ日本人として誇らしく思うし、賞賛に値する大変な偉業だ。
      それでも、私は彼に国民栄誉賞を与える事には大反対だ。
      このような受賞は、国民栄誉賞という賞の価値を無価値にするだけでなく、
      まだ23歳の若者の将来を考えても悪影響でしかない。

       

      安倍政権が始まってから、国民栄誉賞の乱発が横行している。
      国民栄誉賞の第一号は1977年の王貞治氏だが、
      王貞治氏が受賞してから2012年までの受賞者は20人と1団体だ。
      これが第二次安倍政権始まってからは、既に6人が受賞しており、
      今回の羽生選手の受賞が7人目と言うことになる。
      つまり、全受賞者の約35%が直近6年に集中しているという事を意味する。

       

      国民栄誉賞の表彰の仕方を定めた国民栄誉賞表彰規程実施要領では表彰の候補者について、
      「民間有識者の意見を聞く」と定めており、
      首相の要望だけでは決められない仕組みにはなっているが、
      安倍総理の意向が強く働いている事は間違いなく、
      政権の人気取りに利用されている可能性が大変高い。

       

      ただ、政治家が国民栄誉賞を旬の有名人に与える事で、
      国民の人気を獲得できるなら、
      国民栄誉賞は「世論の動向」に大きく左右されるという事も意味している。

      だから、普段あれだけ何でも反対する野党も、

      国民栄誉賞の受賞には全く反対しない。

       

      そして、2000年以降の日本社会は、誰かに望ましい行動をとらせるためには、
      「ムチよりもアメ」、つまり褒め言葉であれ、お金であれ、
      何かしらの報酬を与える事を最善と考える風潮が蔓延している。
      近年の国民栄誉賞の乱発は、こういった風潮を強く反映しているとも考えられる。

       

      確かに、短期的には「ムチよりもアメ」は効果があるだろう。
      しかし、少なくともそれ自体が楽しい活動では、
      報酬を与えられると、人はその活動に興味を失い、報酬を打ち切られた途端、やらなくなる。
      この事を経験的に分かっていたから、
      これまでの国民栄誉賞の受賞者の殆どは、現役引退後の受賞だったのではないだろうか?
      それどころか、美空ひばりに代表されるように、死後に受賞した者も少なくない。
      またプロ野球選手のイチローは、現役中ということを理由に辞退をしている。

       

      近年の受賞者は、「現役」の者が多い。
      レスリングの吉田沙保里、伊調馨。将棋の羽生善治、囲碁の井山裕太。
      個人では無いが、サッカーワールドカップを制した2011年日本女子代表チーム。
      彼ら、彼女らは今も現役だ。

       

      そして、国民栄誉賞の受賞後に成績を落としている傾向が見て取れる。
      吉田沙保里選手は、国民栄誉賞を2012年に受賞したが、
      受賞後のオリンピックでは銀メダルに終わっている。
      サッカー日本女子代表も、受賞した後のワールドカップで準優勝に終わっており、
      その後の国際大会でも成績は下降線だ。

       

      こういった事を考えると、23歳の羽生結弦選手に賞を与えることは、
      彼の将来にとってマイナスになるリスクが高いだろう。
      フィギュアスケーターとしては世界最高の選手であったとしても、
      彼はまだ23歳であり、人生経験の乏しい普通の若者だ。
      イチローのように辞退しない事が、その事を現しており、
      そのリスクに全く気がついていないのだろう。

       

      今回は、羽生選手の国民栄誉賞受賞にどんな意味があるのかを考えてみたい。


       

      日本に蔓延する正義病

      2018.06.02 Saturday

      0

        現代日本は「正義」と言う名の病が蔓延している。
        そして、多くの日本人は自分がその病に冒されている事に気が付いていない。

         

        自らを正義の執行者と錯覚し、「悪党には生きる資格がない」とばかりに
        どんな微罪であったとしても過大な制裁を加えようとする。
        更に相手が少しでも抵抗すると、制裁はより激しいものとなり、
        あらゆる制裁は「正義」の下、正当化してしまう。

         

        これが、この病に冒された者が発症する症状だ。
        5月の末からTVを中心とした報道メディアが最も時間を割いて伝えている、
        日大アメフト部が起こした悪質タックル問題は、この病の典型的な症状だ。

         

        実際に悪質なタックルを行った選手は、むしろ「可哀想な被害者」とし、
        監督やコーチが指示したと一方的に断じ、制裁を加えている。
        監督とコーチは関東アメフト連盟から除名、事実上の永久追放を受け、
        今後、大学でアメフトに拘わる事は不可能となった。
        これでもまだ足りないのか、矛先は日大の理事長に向いているのが現状だ。

         

        少し前には、大相撲で起こった暴行事件が話題に挙がったが、
        この時も正義と言う名の病に冒された患者達が、連日過剰な制裁を加え続けた。
        その結果、横綱日馬富士は引退に追い込まれてしまう。
        彼が日本に帰化し、自分の相撲部屋を立ち上げる事はほぼ不可能になった。

         

        政治家や役人のセクハラ、アイドルのわいせつ行為、芸能人の不倫・・・
        何か問題が起こる都度、病に冒された患者達が群がり過剰な制裁を加える。
        善悪を判断し、悪に制裁を加えること“だけ”が目的なので、
        問題や事件が起きた背景や構造は軽視される。
        結果、実際には問題は何も解決せず、時が経てば同じ様な問題が起こる。
        社会は萎縮し、本当の悪はより闇に紛れ陰湿化するという結果しか残らないのである。

         

        日本に蔓延している正義病が更に厄介なのは、「善悪が数で決まる」事である。
        これは本当に恐ろしい事なのだが、多くの人はその恐ろしさを理解していない。
        同じ事をしても、問題を起こした人物やその場の空気で

        善悪の判断が時に180度変わるのである。

         

        ここ数年、多くの芸能人が不倫で糾弾され大きな制裁を受けたが、
        小室哲哉には何故か同情的意見が多く、むしろ報道した側が糾弾された。
        ビートたけしに至っては、愛人の存在が公然の秘密として認められており、
        TVでコメンテーターが「たけしさんだから良い」と公言する始末だ。
        こんな事がまかり通る社会に正義などない。
        正義を振りかざす者達は、実は正義の破壊者でしか無いということだ。
        近年、話題になった問題や事件を通じて、正義病について考えてみたい。

         

        人はなぜ愚かなのか?6:正しさとはどのように証明するのか

        2018.05.28 Monday

        0

          人はいったんこうと思い込むと、明白な反証を突きつけられても、
          なかなか自分の考えを変えようとはしない。
          証拠を無視して、自分の考えに固執する。

           

          証拠を証拠と認めようとしないと言うような事も頻繁に行うし、
          自分に都合の良いように証拠をねじ曲げて解釈する事すら珍しくない。
          これは「人間の思考の癖」と言って良いものであり、
          人類は歴史上、この思考の癖により何度も大きな間違いを繰り返している。

           

          「モリカケ問題」が、一年以上経っても疑惑として騒がれている理由も、
          この「人間の思考の癖」が大きく影響していると言える。
          安倍総理や政府の関与が無い事を否定する証拠は数多く出されているが、
          多くの人々は、「関与を否定する証拠」と認めようとしない。
          それどころか、「関与を裏付ける証拠」として解釈しようとしている。

           

          自分の考えに固執するのは、非を認めたく無いからかも知れない。
          自分の非を認めることは、例え自分に対してであっても、
          抵抗が大きいものだ。
          特に政治家は、非を認めるくらいなら、どんな苦しい説明だろうと、
          何とか理屈をつけて自分の考えを押し通す方が良いと思っているように見える。
          日本の野党政治家はこう言った理屈を付ける能力に関しては天才的だ。

           

          一方で、人が自分の考えにしがみつくのは面目を保つためだけではない。
          面子や自尊心が絡んでいない場合でも、
          人はいったんこうと思い込むと、
          その思い込みに反する証拠を避けるために多大な労力を費やし、
          そうした証拠を突きつけられても、それに目をつむろうとする。

           

          大企業では、「マーケティング」という名目で多額の費用を費やし、
          様々な調査を行っているが、調査結果を素直に受け止め活用するケースは稀だ。
          調査結果が、企業側の意思決定者の考えを肯定するものなら、
          調査結果やその調査を行ったコンサルタントを賞賛し受け入れるが、
          考えと異なる結果が出た場合は、何かと理由をつけて受け入れようとしない。
          そして、最終的な報告書の内容を都合の良い結果に書き直すようなことすら暗に要求する。
          結局のところ、「マーケティング調査」など最初から必要なかったのである。

           

          現代はインターネットにより多種多様な情報を何処にいても入手することができる。
          示された仮説を検証することは、一昔前に比べて遙かに容易になった。
          本来ならより正しい結論を導き出せる可能性は向上している筈だ。
          にも拘わらず現実はその逆になっていると言って良いだろう。

           

          手にする膨大な情報は「仮説の検証」に使われることはなく、
          「自分の思い込みの強化」に使われることが殆どなのである。
          「大量の情報から検証した」と言う想いは、
          自分の考えが正しいと言う想いをより強固にする。

           

          ネット上では、今この瞬間にも様々なテーマについて、
          個人が自由に意見を述べ、議論が行われている。
          だが、そうした議論を通じて、何らかの合意が得られる事は稀であり、
          殆どの場合、最後は喧嘩のような状態になることが珍しくない。

          個々の思い込みが強化されるだけで、決して自分の考えが変わる事は無く、

          他者の考えを認めることは「負け」と認識されるからだ。

           

          人が誰しも持つ「人間の思考の癖」を知り自覚しない限り、
          「情報化社会」とは、「人をより愚かにする社会」になりかねないのではないだろうか?

           

          日本人と民主主義

          2018.05.15 Tuesday

          0

             

            国民の税金で生活する国会議員にもかかわらず、
            18連休という超大型連休を謳歌していた野党6党が国会審議に復帰した。
            復帰してまずやるのは、相も変わらず「モリカケ問題」であり、
            正常な国会審議の妨害行為である。

             

            今の日本にとって、この野党6党は害悪でしかなく、
            365連休してくれた方が国家国民の為だ。
            休んでも支払われる議員報酬は「民主主義のコスト」と割り切った方が良いだろう。

             

            野党が欠席しても問題が無いとしたら、
            それは、そのまま「国会(議会)が不要」と言うことに繋がる。
            民主主義と言う政治システムに議会の存在は不可分であり、
            議会が不要なら、日本にとって民主主義は不要と言う証左ではないだろうか?

             

            英国の雑誌『エコノミスト』による「民主主義指数2015」によると、
            日本の民主主義の達成度は、総合点が7.96で23位だった。
            1位はノルウェー(9.93)、続いてアイスランド(9.58)、スウェーデン(9.45)と北欧諸国が続く。
            この調査では「総合点が8以上」であれば、「完全な民主主義」と評価される。
            つまり、今の日本は「不完全な民主主義国」に分類される国になったということだ。

             

            日本がスコアを落としている最大の理由は、「国民の政治参加」という評価項目だ。
            低い投票率に現れているように、有権者の政治参加が積極的ではないと評価され、
            総合評価を大きく落とす要因になっている。

             

            これは一見すると、おかしいな結果に感じる。
            例えば日本のTV番組を見てみると、
            各局、所謂ワイドショーと呼ばれる情報番組を、朝から夕方にかけて垂れ流しているが、
            そこで扱われるテーマは、かなりの割合で政治ネタだ。
            TV番組は基本的に視聴者求めるものが提供されるので、
            この現状だけを単純に見ると、「国民の政治的関心は高い」と評価できる筈だ。

             

            しかし、このように評価するのは間違いだ。
            TVや新聞が扱う「政治ネタ」とは、対象者が政治家や官僚というだけであり、
            本質的には芸能ネタと何ら変わりない。
            スキャンダルと政局関連がほぼ全てであり、
            政策など本来の意味での政治が語られる事は殆どないのである。

             

            つまり、視聴者の政治に対する関心は実際には低く、
            下衆な好奇心でしか政治を見ていないと言うことだ。
            TVや新聞は、そんな視聴者や読者の要求に応えているだけであり、
            何を言っても反撃されない政治家や官僚は、
            その欲求を満たす為に都合の良い存在と言うことでしかない。

             

            果たして日本人は民主主義に不向きな国民性なのだろうか?
            民主主義というシステムそのものが、欠陥だらけな政治システムと考えているが、
            その事は一端脇に置いて、今回は「日本人は民主主義に向いているのか?」を考えてみる。

             

             

            日本に憲法なんて要らない

            2018.05.04 Friday

            0

              2018年5月3日、日本国憲法の施行から71年目を迎えた。
              安倍総理大臣は昨年に続き、改憲を訴える民間団体の会合に向けてビデオメッセージを寄せ、
              憲法改正、とりわけ9条改正に向けての強い意志をあらためて表明した。

               

              一方の日本維新の会を除く野党6党は、
              「安倍政権下での改憲阻止」と言う、相変わらずの幼稚な主張を街頭で訴えた。
              「護憲」は今や野党を纏める最大公約数であると同時に、
              彼らの唯一の存在意義になってしまったので、
              今後もあらゆる方法を用いて改正の発議や国民投票の妨害を行っていくのだろう。

               

              モリカケ問題などという国民生活に全く関係ない疑惑で、
              1年以上も政治が停滞している大きな理由も、こういった妨害活動の一種だろう。

               

              日本は世界でも最高レベルで言論の自由が確保されている国だ。
              ネットに限らず、新聞でも雑誌でもTVでも・・・
              あらゆる情報メディアで自分の考えを自由に表明することが出来る。
              護憲団体が群馬県で開催した会合では、
              安倍総理をヒトラーに模したコラージュ画像を映し出して、
              改正を目指す安倍政権を批判したが、
              このような事ができるということが、高いレベルで言論の自由が保障されている証左だ。

               

              しかし、言論が自由になった結果、言葉の意味は軽くなり、情報の大洪水に押し流され、
              “言葉を伝える“ということが軽視されるようになった。
              言論は自由になるほどその重みを失い、
              重みを失った言葉には意味を見出されなくすらなっている。

               

              法律とは守らなければならないルールだろうか?
              恐らく、多くの人はそのように考えているだろう。
              だが、日本に数多く存在する法律の中で、決して少なくない数の法律は、
              そこに書かれている事に違反しても罰則がない。

               

              そういった法律はその行為が望ましくない事を教えるが、
              ルールとしては有名無実なものとなる。
              つまり、法律とは守るべき方向性を明文化し示したものであり、
              宗教の経典や道徳に近い側面を持っている。

               

              憲法に関してもこれは同様だ。
              むしろ法律よりも更に、道徳的な意味合いが強いものと捉えることができるだろう。
              何故なら、憲法に違反したことによる罰則は一切ないのだから。

               

              憲法の規定は非常に抽象的なものだ。
              政府にまつわるものだけでなく、国民の権利関係なども、抽象的な保障しか書かれていない。
              これは、憲法が不十分なのではなく、憲法は政府が護るべき道徳を示したものだからだ。

               

              つまり、昨今9条の改正案として議論されている、
              「自衛隊の存在を明記する」や「自衛権の範囲を明確にする」などは、
              憲法の持つ意味から大きく逸脱したものだと言えるだろう。

               

              憲法は道徳を示し、些事の判断は裁判官に委ねられる。
              そして裁判は常に過去の判例に照らし合わせ判決が下される。
              これは「判例法主義」と呼ばれる判例を最も重要な法源とする考え方だ。
              裁判官は紛争の解決に際して過去の同種の裁判の先例に拘束される。
              そのような考え方の下に、下された判決が次の規範となり、
              次の新しい判例を導くきっかけとなる。
              このような事を繰り返し、社会の規範は維持されていく。

               

              果たして現在の日本国憲法のような「成文憲法」は必要なのだろうか?
              社会規範は長年の慣習からなる不文法に支えられている。
              その事を忘れ、言葉の一節を以て是非を議論することは間違っており許されない筈だ。

               

              例えば、安全保障のような国の根幹に関わる問題に対しては、
              単純に条文の一節に整合するかどうかだけでなく、
              日本の国体を護持していく為に政策はどうあるべきかという議論が成されなければならない。

               

              だが実際に行われているのは、憲法の条文の一節に適合するか否かが中心であり、
              本質的な政策議論は脇に追いやられている。
              あまつさえ、今の野党が行っているように、憲法は政争の具に利用されている始末だ。
              成文憲法の害は大変深刻であると言わざるを得ないだろう。

               

              日本国憲法、成文憲法が無ければ、
              日本をどのように次代に継承していくのか、その為の国政はどうあるべきか、
              そのような重要かつ建設的な議論が成されるのではないだろうか?
              集団的自衛権の一部容認が憲法の条文と適合するかどうかなど、
              この事に比べたら全く些末な問題だろう。

               

              日本という国家に、日本人という民族に、成文憲法などは不要だ。
              日本国憲法が存在するメリットよりデメリットの方が遙かに大きいだろう。
              そのことは歴史が証明している。
              「憲法改正」ではなく、「日本国憲法は必要か?」を考えてみたい。

               

               

               

              日本の統治者は誰なのか?

              2018.04.26 Thursday

              0

                 

                連日、官僚の不祥事がメディアを賑わせ野党は責任追求という御旗を掲げ
                政権の打倒を画策している。
                ついには「解散総選挙」という言葉も飛び出し始めた始末だ。

                 

                「安倍政権になってから官僚の不祥事が増えた」このような印象を持つ国民は、
                決して少なくないと思われる。
                しかし、これは間違った認識だろう。
                現在発覚している程度の事は、官僚機構は以前からずっと行っていた筈だ。
                現に、森友学園との国有地売買も家計学園の獣医学部新設も、
                南スーダンやイラク派遣も、全て安倍政権下で始まったものではない。

                 

                恐らく官僚機構は、ずっと以前からこの程度の隠蔽や改竄、口裏合わせはしていた。
                それを安倍政権への攻撃材料として、今騒ぎ立ててるだけに過ぎないだろう。

                 

                政治と官僚との関係は、日本にとって昭和期から続く大きな課題だ。
                敗戦という最悪の結果を招いた大東亜戦争も、
                言ってしまえば、政治家が官僚をコントロールできなくなった事が根本的な原因だ。
                軍の指導層(将校)も官僚と言え、彼らの暴走を誰も止めることが出来なかった。

                 

                官僚機構は強大であり、国を動かしているのは実質的には彼ら官僚達だ。

                 

                政治というものは複雑で難しいものだ。
                そこにはあらゆる領域に渡る膨大で、高い専門性が要求される諸課題や問題が山積みされている。
                政治の各分野における実務は極めて専門的なものであり、
                我々一般大衆がそれを理解することは大変な困難を伴う。

                 

                では、政治家はそれらを理解できるのかと言うと、答えは否だろう。
                大雑把なことは理解しているかもしれないが、
                充分に理解しているかと言えばそうではないだろう。
                通常、彼ら政治家は人付き合いや選挙に忙しく、
                政治の実務処理についての高度な技能や知識を身に付ける暇は無い。

                 

                政治実務を理解し、それを担っているのは官僚、つまり役人達だ。
                官僚は専門領域に特化した実務を集中的に担当し、知識や技術を蓄えていく。
                そして、彼らは専門的知見から行政方針を決定し、国家を動かしていく。

                 

                ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは官僚と政治家について以下のように言っている。

                 

                『政治家は、行政運営にあたる官僚に比べると、常に、専門家に対する素人の状態にある』

                 

                毎年3月末に、4月から始まる次の年度の予算が国会で決められる。
                これは国会に課せられた最も重要な役割の1つだが、
                国の予算案を決めるのは政治家ではなく官僚だ。

                 

                国会には「予算委員会」というものがあるが、
                この委員会の場で国会議員が予算の具体的な中身をきめているわけではない。
                中身を決めるのは財務省の官僚の仕事であり、
                国会はそれを審議し、承認するかどうかを決めるに過ぎない。
                だから、財務省は「最強の官庁」と言われるのだ。

                 

                しかも、国会中継を見れば分かるように、
                国会議員は予算審議とは全く関係ない政争に明け暮れ、
                財務省の作成した予算案の審議をろくにしていないのが実態だ。
                昨年度も本年度も、モリカケ問題などの疑惑追及で、
                予算案は政府案(実態は財務省案)が、そのまま国会を通過している。

                 

                前大阪市長の橋下徹氏は、こういった政と官の関係を当然だと言い切る。
                彼によると「政治家は大きな方向性を示す」
                「官僚は高い専門性を活かして政治家の掲げる目標の実現を支える」
                このような役割分担は当然であり正しい形だと言う。

                 

                確かにこれは1つの理想ではあるが、
                今の日本の政治システムはこのような理想を実現するものではない。
                そもそも、彼の語るような役割分担を目指してすらいないと私は思う。

                 

                橋下氏の言う理想を実現するなら、予算委員会などは不要だろう。
                専門性も有しておらず、目指す方向性すら政府と異なる国会議員達が、
                数百人集まっても、そこから生まれるものは何もない。

                 

                橋下氏は頭も良く、大変勉強家だと思う。
                更に、地方自治体はアメリカの大統領のように直接選挙で選ばれ、
                その権限は地方自治体内に限れば、内閣総理大臣すら凌駕する。
                だから、彼なら官僚が作成した予算案1つを見ても、
                それが自分の掲げる方向に合致しているかチェックでき、
                合致していなければ、それを指摘し修正させることもできるのかもしれない。
                しかし、彼のような政治家を数百人揃える事は不可能だろう。

                 

                であるならば、我々国民は官僚に国家運営を委ねる他ないのだろうか?
                マックス・ウェーバーは、

                 

                『官僚制は支配行使の形式において、最も合理的な形態である』

                 

                このように述べ、官僚制を高く評価し、
                政治の合理化にとって、欠かせない存在であることを主張している。
                官僚制の起源は中国であり、
                中国を手本にした日本も西欧よりも早く官僚制を採用している。
                だから我々は、本来、西欧人より官僚制を理解しているべきだが、
                残念ながら、今の日本人は官僚制がどういったものなのか殆ど理解していない。
                理解していないものをコントロールなど出来るわけがない。

                 

                民主主義を採用し続けるのであれば、主権者である国民は、
                実質的に行政を動かす官僚機構とはどういったものなのか理解することは欠かせない筈だ。

                 

                 

                人権ファシズムを打倒せよ

                2018.04.23 Monday

                0

                  「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」
                  これは日本国憲法の3原則だ。
                   

                  「国民主権」は「国の在り方を決める力は、国民にある」という考え方で、
                  民主主義と言うシステムで体現している。
                  私はこの民主主義と言うシステムは、
                  結局は衆愚政治に陥る欠陥のあるシステムだと考えている。

                   

                  「平和主義」とは、国際的には簡単に言うと「国家間の紛争解決に武力を用いない」という考えだが、

                  日本では「何があっても戦争をしない」と歪められている。
                  その歪みの元凶が9条であることは言うまでも無い。

                   

                  最後の「基本的人権の尊重」とは、
                  全ての人間が生まれながらに持っている権利を大切にする、という考え方だ。
                  基本的人権は大きく分けて自由権、平等権、社会権、参政権、請求権の5つからなるが、
                  今後、環境権やプライバシー権などを追加しようとする動きもある。

                   

                  この3つの原則は、日本だけのものではなく多くの先進国の憲法で採用されている。
                  もしも、どれか3原則の内、どれか1つを変えられるとしたら、
                  私は真っ先に3つ目の「基本的人権の尊重」を挙げる。
                  この考え方こそが、大衆を高慢にし、ロボット人間化させる。
                  ロボット人間とは、ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、
                  完全に受動的で、機械的な反応しか示さない存在である。
                  そして、そんなロボット人間達は、極一部の支配者達にとって家畜のような存在になる。

                   

                  民主主義の衆愚化を深化させるのも、基本的人権が原因である。
                  もしも、「基本的人権の尊重」などと言う考え方が無ければ、
                  我々は今よりずっとマシで、理想に近い民主主義システムを運用できた筈だ。

                   

                  基本的人権の尊重の下では、人権はあらゆる事に優越する。
                  「人の命は地球より重い」
                  この言葉は、1977年日本赤軍によるダッカでの日航機ハイジャック事件で、
                  犯行グループが身代金と日本で服役中の過激派や爆弾魔などを解放するよう要求した時に、
                  時の福田赳夫首相が言った言葉だが、
                  この言葉の根底にある考え方が「基本的人権の尊重」であり、
                  人権がいかに人を高慢にしたかを体現した言葉と言えるだろう。

                   

                  人権を追求していくと、「国民国家」は消滅し、国境は無くなり、
                  その結果として国家間の「戦争」は無くなる。
                  「人民主権」に徹すると「国家主権」は消失してしまうからである。

                   

                  しかし、現実的に“深く考えれば”、
                  人間に民族意識、人種意識、宗教意識等があり、それらに基づく「文化」がある以上、
                  国境(国家)はなくなることはない。
                  そして、国境がある限り紛争(戦争)もなくなることは無い。

                   

                  「文化」は国家や国民のアイデンティティーだ。
                  「文明(経済、科学、技術など)」は物質的なものなので普遍化、グローバル化できるが、
                  「文化」は「精神的」「歴史的」「社会的」なものであり、民族や国土に制約される。

                   

                  この制約の突破を夢想した壮大な取組が、
                  多民族国家であるアメリカ合衆国であり、欧州共同体EUだった。
                  しかし、アメリカのトランプ大統領が掲げた「アメリカファースト」の考え方は、
                  「文化」というアイデンティティーに回帰するものであり、英国のEC離脱も同様だ。
                  奇しくも人権先進国の欧州とアメリカで、人権主義の限界が露呈し始めているのである。

                   

                  他方、日本ではどうだろうか?
                  欧州、アメリカの次に人権が広まったのが日本だが、
                  「文化」を軽視し、人権を尊重する流れは、より強まっていると言えるだろう。

                   

                  安倍政権が過去のどの政権よりも異常と思える程に叩かれるのは、
                  恐らくこのことが起因している。
                  特定機密法、平和安全法制、テロ等準備罪など、
                  安倍政権が成立させた重要法案は、確かに人権を至高のものと考えると、
                  人権を制限する法案と捉えることができる。
                  人権を追求する先は国家の消滅であり、国家を守る事を第一に考えることとは相容れない。

                   

                  トランプ大統領に対してのアメリカ国内での批判も、
                  これまでに見たこともない類いのものだが、これも安倍総理と同じ理由だろう。
                  人権という字が表すように「権利」としてしまったが故に、
                  それを奪われることに対する拒否反応は強いものになるのである。

                   

                   

                  女性不要社会

                  2018.04.20 Friday

                  0

                    現役の財務省事務次官が辞任を表明した。
                    その原因は、週刊誌が報道し録音データまで公開して暴いたセクハラだ。
                    奇しくも全く同じ時期に、新潟県の知事が女性問題で辞意を表明した。
                    こちらの原因は、出会い系サイトを利用した買春行為だ。
                    尚、財務次官は報道されたセクハラ行為は完全否定しており、
                    今後、司法の場で争う旨を表明している。
                     

                    このような類いの女性が関連したスキャンダルは過去に何度も発生しているが、
                    その殆どにおいて、「女性は被害者、男性は加害者」のように一方的に決めつけられ、
                    男性側が糾弾される。

                     

                    こういった風潮が蔓延したのは、日本を含む先進国で声高に叫ばれる、
                    「女性の社会進出」「女性の地位向上」という考え方だ。
                    そして、こういった考え方の下に行われている活動は、
                    表面上は男女平等の旗を掲げているが、
                    その実態は女性を男性よりも優遇する活動であり、
                    結果として新しい差別を作りだし、性別間の対立を社会に生み出してる。

                     

                    元々日本には「男は外で仕事、女は家を守る」という役割分担が根付いていた。
                    これは本来「区別」であり「差別」ではなかった。
                    それを「差別」と呼び、故意にねじ曲げる人や団体に煽られ、
                    今や「女は家も守るもの」などと言おうものなら、袋だたきにあう時代になってしまった。

                     

                    今回の財務次官のスキャンダル場合、週刊誌が報道している内容が事実だったとして、
                    本当に悪いのは財務次官側だろうか?
                    所謂「下ネタ」と呼ばれるような言動を、お酒の席で女性に言うことは、
                    職を奪われ、社会全体から糾弾されるほどの重罪なのだろうか?
                    情報を得ようと“女の武器”を使った女性は、可哀想な被害者に過ぎないのだろうか?

                     

                    新潟県知事は明確な買春行為ではあるが、
                    買春ということは、同時に売った側、即ち売春行為を犯した女性が存在する。
                    そして、金銭を要求したのは売春側だ。
                    買った側と売った側、どちらがより罪が重いだろうか?
                    麻薬の売人と買った人、罪が重いのは売った側だ。
                    違法賭博の運営者と利用者、罪が重いのは運営側だ。

                     

                    ちなみに日本の法律では、売春行為そのものは処罰の対象ではない。
                    よって、客となる買春側も処罰の対象としていない。
                    売春防止法で処罰されるのは“売春を助長する行為“だ。
                    今回の新潟県知事の件に当てはめるなら、
                    出会い系サイトの運営は、この”売春を助長する行為“になり得る可能性はある。

                     

                    事務次官のセクハラ発言も、新潟県知事の買春行為も、
                    これが男女逆なら社会は同じように糾弾するだろうか?
                    女性の事務次官が男性記者にセクハラ発言をしたら?
                    女性知事が金銭を使って、男性と肉体関係をもったら?
                    ニュースにはなるだろうが、今のように叩かれることは無いだろう。
                    だとするなら、これは「男女平等」ではなく「男性差別」だ。

                     

                    レディースデー、レディースセット、女性専用車両、痴漢冤罪、
                    これらは全て「男性差別」だ。
                    20世紀以前の日本は「男性社会」と言われるが、
                    その時代に、同じ料理を男性には安く提供することは無かった。
                    公共の交通機関で男性しか乗れない車両も無かった。

                     

                    日本には「区別」はあったが、「女性差別」などと言われるような酷いことはなかった筈だ。
                    だから、今でも多くの日本人女性はそれほど積極的に
                    「女性の社会進出」や「男女同権」を訴えたいと思っていないだろう。
                    ただ、一部の女性地位向上を叫ぶ人や団体の主張が実現すれば、
                    「自分たちが得をする」と感じられるから、その主張に乗っているに過ぎないだろう。

                     

                    しかし、「得をする」と短絡的に思っているならそれは大きな間違いだ。
                    気が付いていないが、徐々に社会は「女性不要社会」へと向かっている。
                    既に、女性が女性として生きることが出来ない社会になりつつある。

                     

                    「女性の社会進出」が一体なにをもたらすのかを考えてみたい。

                     

                    疑惑で破壊される日本社会

                    2018.04.17 Tuesday

                    0

                      「50年間新設大学を認めないような岩盤規制は正義であり、
                      規制緩和による公正な競争の導入など許さない」

                       

                      「“面従腹背”を座右の銘とし、風俗店に貧困調査の為と言う理由で
                      通い詰める天下りの元締めは正義の官僚であり、聖人君主だ」

                       

                      「詐欺罪で逮捕拘留されている男の証言は信用できるが、
                      自国の総理大臣の言葉はみんな嘘だ」

                       

                      「官僚は常に優秀な善なる者で、有権者が選んだ政治家はいつも悪い。
                      政治主導より官僚支配が良い」

                       

                      「行政府の長であり、憲法72条に『行政各部を指揮監督する』と定める内閣総理大臣が
                      行政に口出しすると、行政が歪められる」

                       

                      「報道メディアは、事実や証拠に基づかなくても政権を批判すべきだ」

                       

                      「何の証拠が無くとも、“怪しい”と思われる人物は国会に引っ張り出し、
                      衆人環視の下に尋問を受けるべきだ」

                       

                      「自分たちが望む答え以外は認めず、望む答えを語らない限り疑惑は深まる」

                       

                      このような事がまかり通る国がある。
                      言うまでもなく、我々が住む日本国だ。
                      冗談の様に聞こえるが、政治に対するこの1年以上にも渡る
                      新聞やテレビで論じられていることを要約すると、こう結論することができる。

                       

                      その結果、国会の大きな役割の1つである「予算の制定」は、
                      2年連続で、殆ど議論されることなく政府がそのまま通過した。

                       

                      日本の外に目を向けると、北朝鮮情勢、中東情勢、米中の貿易戦争など、
                      世界は大きく動いている。
                      これらの動きは、日本の将来に大きな影響を及ぼすものであり、
                      対応を間違えると、今後数十年に渡り我が国の未来に大きな影を落としかねない。

                       

                      モリカケ問題、自衛隊日報問題は最初から犯罪行為に当たるような事実は
                      何一つ見つかっていなかった。
                      例えるなら、殺された人も行方不明者も誰1人見つかっていないのに、
                      「素行が良くない友人がいるようだ」
                      「猟奇殺人を扱った、映画や小説をよく読んでいた」
                      「暴力的なゲームが好きだった」
                      だから、“殺人を犯した筈だ”“殺人を犯してない事を証明すべきだ”
                      このような事をしているようなものなのである。

                       

                      これは恐ろしい事だ。
                      「疑惑」を持たれた人間は、「怪しい」というだけで追求され、
                      身の潔白を証明しなければならない。
                      それができなければ、「疑惑を持たれた」罪で責任を取ることを求められる。

                       

                      こんなことがまかり通る社会は、皆が萎縮する社会だ。
                      誰もが周りの目を気にして、疑いを持たれないように細心の注意を払う。
                      皆と同じ事をするのが、最も疑いを持たれない方法になるだろう。
                      つまり、社会は同一性を高め、多様性は喪失する。
                      そして社会は新しい変化に対応できず、衰退し、何れ滅びの時を迎えるだろう。

                       

                      モリカケ問題と言われている2つの疑惑は、本来は取るに足らない話だった。
                      しかし、最早日本社会を破壊する大きな問題となってしまった。
                      そんなことになってしまったのは、
                      直接的には権力闘争と自身の選挙しか興味のない野党議員と、
                      自分たちを正義の監視者と思い上がった報道メディアの責任だ。

                       

                      そして、根本的には言うまでもなく国民の責任だろう。
                      何が問題かを自ら知ろうとせず、知りもしないのに「説明に納得できない」と言う国民。
                      何の証拠もないのに、「総理夫人は証人喚問に応じるべきだ」と言う国民。
                      野党も報道メディアも結局は、こんな国民がいるから今の振る舞いを続けられる。

                       

                      報道メディアの情報にしろ、ネットの情報にしろ、
                      自分の頭で考えれば、今よりずっとマシな答えが出せるはずだ。
                      劣化しているとは言え、日本の教育はそこまで低いレベルではないのだから、
                      殆どの日本人は、健全な答えや疑問に辿り着ける。

                       

                      続きを読む >>