進化論と創造論

2018.10.16 Tuesday

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    2018年5月末、生物学の分野で大きな発見が発表された。

     

    その内容とは、「DNAバーコーディング」という方法を用いて、
    地球上の10万種の動物から約500万のDNAバーコードを比較・分析した結果、
    「全生物種の約90%は10万年〜20万年前に同時に地球上に出現していたことを突き止めた」というものだ。

     

    日本ではこの件に関する報道は殆どされていないが、
    この発見の意味は大変重い。
    何故なら、この発見は長年我々が信じてきた「進化論」を否定する事に繋がりかねないからだ。

     

    進化論とは、生物は不変のものではなく長期間かけて次第に変化してきた、
    という仮説に基づき、
    現在見られる様々な生物は全てその過程の中で生まれてきたとする説明や理論群だ。
    日本では、ダーウィンが提唱した理論として有名だろう。
    正確にはダーウィンが提唱したのは、「自然選択(自然淘汰)による進化」であり、
    進化論の中の1つの理論に過ぎない。

     

    この進化論に基づき、全ての生物は原始の海でバクテリアなどの単細胞生物から進化し、
    現在に至るとされている。
    だから、「ヒトは猿から進化した」と日本の義務教育では教えている。

     

    仮に進化論が間違っていたとしたら、それは今の社会の根底を覆す事態になる。
    何故なら、進化論は“神(創造主)”の存在を否定する根拠だからだ。
    近代以降、我々人類は科学を絶対的なものとし、
    科学的に説明できるか否かをあらゆる事を判断する基準としてきた。

     

    宗教の存在は認めつつも、神の様な人間の上位に位置する“何か”の存在は科学的にあり得ないとされている。
    その結果、人間は自分たちが食物連鎖の頂点に位置する地球の支配者だと思っている。

     

    だから、我々は「鯨を捕るな(殺すな)」と叫ぶ口と同じ口で、牛肉や豚肉を食べる。
    人間の生命を至高のものと考え、それ以外の生物の命の価値をその時の都合で決める。
    人権という人間だけが生まれながらに持つ権利を規定し、
    他の生物にはそのような権利は認めない。
    近代以降、人間は神に成り代わったのであり、
    「人間」という神を成立させている根本的な要素が進化論だ。

     

    進化論が間違っているとしたら、
    我々人類は、旧約聖書や数多くの神話で語られているように、
    「創造主」のような超常的存在を認めるしか無くなる。
    そして、創造主が居るなら、我々人間を含めた全ての生物は、
    創造主の所有物ということになる。

     

    今でもサウジアラビアの憲法はイスラム教の経典だが、
    そのような制度が正しいという事になるだろう。
    このように進化論の否定とは、単に学術的な発展ではなく、
    我々の今の生活の根底を揺るがすものになる可能性がある発見なのである。

     

    民主主義という洗脳

    2018.09.25 Tuesday

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      「民主主義は最悪の政治といえる。
      これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」

       

      これはイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの言葉だ。
      ほとんどの場合この言葉は、
      逆説的に「民主主義こそが最良である」という意味において捉えられ、
      日本社会においては「民主主義」というものをなにか空気か水のように感じ、
      「民主主義」 とは何かというようなことは、
      分かり切ったことのように錯覚している面がある。

       

      「民主主義」という日本語は、democracyの訳であるが、
      democracyと言う言葉は、元々はギリシャ語の「ディモクラティ(demokrati)」から来ている。
      demokratiはdemos(民衆)とKratia(政府)が合わさった言葉だ。
      日本では、これを「民主主義」と訳しているわけだが、
      正しくは民衆政治、もしくは民主制(民主政治制度)とすべきだ。
      democracyは、神政(theocracy)や貴族政(aristocracy)と同様に、
      政治制度の一形態を現した言葉に過ぎない。

       

      この誤訳が元々最悪な政治制度である民主制度を、
      より最悪なものにしていると私は考える。
      もし、正しく「民衆政治」と訳されていれば、それは単に政治の制度の1つと理解され、
      一つの政治の制度には欠陥も誤謬も存在すると皆が暗に理解され、
      その制度の改革や是非を問う議論が堂々と可能であり、
      民衆政治に代わるより良い政治制度の構築も可能だったかもしれない。

       

      この誤訳が日本社会に浸透したのは戦後であり、
      恐らくはGHQ(アメリカ)が意図的に行ったものであろう。
      その証拠に、大正時代に起こった民主化運動は、
      「大正デモクラシー」や「自由民権運動」と呼ばれ、「民主主義」という言葉使われていない。

       

      主義、主張(ism)は「持ち続ける考え」「持論を強く言い張る事」という意味なので、
      これを代える事は容易ではない。
      あるismに対する否定的意見は、そのismを持つ者にとっては自己否定にも等しいからだ。
      更に現代日本人は幼少期の教育レベルから、「民主主義」というismに洗脳されている。
      個々人が成長の過程で、自然に持った主義・主張ではなく、
      「民主主義」というismを持つ、教師(社会)に洗脳されてもったismだ。

       

      民衆政治(民主主義)という政治が最悪である根本的な理由は、
      この政治システムは「世論の多数派が健全な判断の力を有していること」を大前提にしているからだ。

       

      人は個人で見ると、それほど愚かではなく概ね健全は判断を下せる能力を有しているし、
      基本的には善良と言っても良いだろう。
      しかし、そんな個人が「大衆」という群れになった途端、愚かで暴力的な群れとなる。
      この事は、心理学の世界では遙か前に証明されているし、
      近年の日本の政治を見れば、簡単に分かるだろう。

       

      日本社会においては、ほぼ常態的に政府に対しての支持率は低いが、
      そんな中でも高い支持率を獲得した政府が幾つかあった。
      最近では、小泉政権であり民主党政権だ。
      地方政治ではあるが、東京都の小池知事も当初は高い支持を集めた。

       

      では、こういった世論の高い支持を得た政権の評価はどうだろうか?
      民主党政権は、憲政史上最悪の政権だった。
      小池都政も歴代最悪の都政と言って良い。
      小泉政権で行った「痛みを伴う構造改革」は、今の日本の社会問題の原因を作った。

       

      国民の支持が高い政府のやることは、概ね間違ったものであると言って良いだろう。
      しかし、殆どの国民はそれを他者(政治家)のせいにし、自分たちを被害者側に置く。
      つまり、反省をしない。
      だから、同じ過ちを何度も繰り返すことになる。

       

      「大衆は常に間違える」
      これはアメリカの自己啓発作家・実業家のアール・ナイチンゲールの言葉だが、
      この言葉は全く正しいだろう。

       

      我々は「民主主義」というismから脱却すべきだ。
      「民衆政治」と言う、1つの政治制度と捉え、
      この制度に代わる制度を模索すべきだろう。
      それを見つける事は簡単な事では無いが、
      皆が知恵を出し合い、健全な議論が行われれば必ず見つかると私は信じている。

       

       

       

      「女性活躍」が「少子化推進」となるワケ

      2018.07.09 Monday

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        少子化とそれに伴う人口減少は、日本が抱える大きな課題だ。
        基本的に出生率が2.07より低くなると、人口減少と高齢化の促進に繋がるが、
        日本の出生率は、1961年に初めて2.0を切り、
        1975年以降は常に2.0を下回り続けている。
        そして、1998年以降は恒常的に1.5を切り、2016年の出生率は1.44だ。

         

        つまり、少子化問題とは、最近になって顕著化した問題などではなく、
        数十年前から始まっていた問題なのである。

         

        これに対して政府は次々と少子化対策を打ち出すが、
        その全てが何ら出生率にインパクト与えることなく失敗している。
        現政権も、少子化を重要課題と位置付け、教育の無償化を筆頭とした対策を打ち出しているが、
        これらの政策も全く少子化を改善することに寄与しないだろう。
        それどこから、更なる悪化を招く可能性すらある。
        少子化の主要要因の1つは「女性の高学歴化」であり、
        教育の無償化政策はこの流れをより強める政策だからである。

         

        政府の打ち出す少子化対策がことごとく失敗する最大の原因は、
        「人間も動物である」という当たり前の事を無視しているからだ。
        人間も動物であり、自然の摂理に逆らうことはできない。
        女性には妊娠・出産について「生物学的な限界」が存在する。
        どんな育児に関する社会的サポートを充実しようと、
        どんなに所得が増えようと、ある年齢を超えると希望の人数の子供を持つことは“生物学的に”難しいのだ。

         

        女性の生殖能力は20代後半から低下し、36歳を境に急低下する。
        つまり、30歳前半に1人目の子供を産めたとしても、
        2人目を産むことは既にかなり困難であり、3人目となると殆ど絶望的だ。

         

        日本政府の根本的な間違いは、「育児環境支援」ばかりに注力し、
        第一子の出産年齢が徐々に上がっていること、つまり「晩産化」に対し何ら手を打っていないことだ。

        1950年の女性の平均初婚年齢は23.0歳だったが、2015年は29.4歳にまでなり、
        2020年には30.0歳になると予想されている。
        この傾向を変えない限り、絶対に子供は増えない。

         

        女性に「早く結婚して子供を産みましょう」と言うと、
        必ず「個人の自由に口を出すな」というような批判が起きる。
        政治家はこの事をよく知っているから、票が奪われることを恐れ、このような事を口に出さない。

         

        無論、子供が要らない、もしくは1人で良いと考える人はそれで構わない。
        しかし、現実は30歳を過ぎた結婚であっても、2人、3人目の子供を欲しいと思っている女性が多い。
        最初はそうは思っていなくとも、1人目の子供が出来ると2人目が欲しくなる。
        しかし、現実は結婚時の妻の年齢が24歳までの夫婦しか、出生児数が2.0を上回っていない。

         

        「欲しいときではなく、産めるときに子供を作る」
        こういった意識を国民が持たなければ、少子化は絶対に解決しないのである。
         

        何のために勝つのか?

        2018.07.02 Monday

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        サッカーワールドカップでの日本代表の戦い方について、
        海外でも大きな話題になっている。

        日本国内においては、あるアンケート調査では7割が肯定意見であり、
        この結果は概ね現状を正しく現していると感じる。
        一方の海外では批判的な意見の方が目立つ様に感じる。
        少なくとも、海外では「賞賛」する声は殆どない。

        日本国内の肯定意見を見ていると、
        「スポーツは結果が全て」
        「プロにとって勝利は至上命題」
        「サッカーの世界ではこのような事は当たり前」
        このような理屈で、今回の判断を肯定的に捉えている意見が多いが、
        私は、このような意見が多数を占める事に強い違和感を覚える。

        私は昭和生まれだが、家庭や学校でこのような事を教えられた事はない。
        むしろ「結果が良いから問題ないでしょう?」などと言おうものなら、
        親や教師から怒られさえした。
        これは、社会に出てからも変わらず、今も多くの日本企業では、
        個々の社員が出す成果と同じくらいに、
        成果に至るまでのプロセスや勤怠態度を重視している筈だ。

        更に言うなら、待機児童や収入格差、長時間労働などがこれほど大きな問題になるのも、
        「結果が全てという考え方を嫌悪する」という日本人の国民性が大きく影響していた筈だ。
        「自由な個々の選択の結果、収入に格差が出るのは当然だ」
        「保育園に入れられなければ困るのに、子供を作るのは自己責任だ」
        「結果が全て」という考え方なら、このようになる筈だが現実は違う。
        寧ろ一般社会においては「結果が全て」と言う考え方は、
        昔よりも嫌われているとさえ思う。

        にも拘わらず、今回の日本代表のやり方を肯定的に捉える意見が多数を占めるのは何故なのだろうか?
        理由の1つには、平成の30年間で蔓延した「自己否定」と「変身願望」があるだろう。

        肯定している人の多くも、批判している人の気持ちは理解できるだろう。
        それどころか、自分自身も似たような感情を抱いた筈だ。
        先に述べたように、日本教育は「勝てば良い」と言う考えは否定的に教えており、
        普通の日本人ではれば、それがルールに則っていた行為であったとしも、
        「どうなんだろう?」と疑問に思う人が多いだろう。

        それなのに色々と理屈をつけて肯定意見を述べる、その根底には
        「そんな自分(考え)は悪いものだ」「だから変わるべきだ」
        このような考えがあるのではないだろうか?

        その事をよく現す事象として、殆どの場合、肯定派は、
        否定意見を述べるその人自身を攻撃する。
        「サッカーが分かっていない」などから始まり、「バカだ」「危険な特攻精神だ」となる。
        酷いときには「日本が決勝に進むことが気に入らない韓国人だ」と言うところまで発展する。
        批判意見を述べる者の人格を攻撃し、「そのように考える事自体」を悪としようとしているように見えてならならい。

        もう1つの肯定派の特徴は、大東亜戦争の敗戦の歴史を持ち出す点だ。
        今回の日本代表のやり方に対しての批判意見とは、
        簡単に纏めると「卑怯だ」と言うものが多いが、
        それに対して「そんな風に考えるから、日本は神風特攻などをするのだ」
        「正々堂々と戦うなどを美徳とするから、あんな無謀な戦争をしたのだ」
        こんな論調で、歴史を持ちだし批判する。
        敗戦という失敗の大きな原因を、日本人の精神性とし、
        「だから変わるべきだ」と言う変身願望を持っている。

        あの戦争と、今回の日本代表を繋げて考える着眼点自体は面白い。
        そして、私は今回の日本代表のやり方を、無批判に肯定する考え方こそ、
        真珠湾攻撃を決行し、無謀な対米戦争に突き進んでいった考えそのものだと思う。
        更に言うなら、意味も分からず勝った負けたに一喜一憂し、
        勝てば大絶賛、批判意見を述べる者には攻撃を加える大衆の姿勢も、戦時中そのものだ。
        嘘の勝利を伝える大本営発表を鵜呑みにして、全国で提灯行列を繰り返した日本人と重なる。

         

        サムライジャパンは死んだ

        2018.06.29 Friday

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          サッカーワールドカップで日本代表が2大会ぶりの決勝トーナメント進出を決めた。
          グループリーグ突破を決めたのは、勝ち点でも得失点差でも総得点でもなく、
          「フェアプレーポイント」というイエローカードの枚数差だった。

           

          そして、このポーランド戦は「サムライジャパン」という言葉が死んだ1戦であり、
          サムライへの冒涜ですらある。

           

          ポーランド戦での日本代表の戦い方は、
          「結果を出す為には、ルール上許されるなら何をしても良い」
          こんな精神に根差した戦い方だった。
          確かに、近年の日本社会では会社や学校、政治の場でもこういった考えが広がりつつある。
          しかし、本来日本ではこういった考え方は忌み嫌うべきものであった筈であり、
          武士道の精神から最も遠い。

           

          サムライは武士道を体現する存在とするなら、
          今回の日本代表はサムライなどでは決して無く、卑怯者の集団だ。
          もちろん、あのような卑怯なやり方は個々の選手はやりたくなかったであろう。
          そのことは、試合後のインタービューでの選手達の表情を見れば明らかで、
          誰1人として、喜んでおらずむしろ暗い表情を見せていた。

           

          間違いなく監督からの指示による行為であり、
          やっていることは、話題になった日大アメフト部の悪質タックルと変わらないのではないだろうか?
          若い選手達が、卑怯な手段を使っても勝てば良いと考えるならまだ理解できる。
          そして、若者がそう考えた時、それを諫めるのが指導者の役目だが、
          今の日本では指導者側がそういった卑怯な行為を指示する。
          そんな指示を受けて育った若い選手達が、いずれ指導者側になったとき、
          一体どんな指導者になるだろう?その答えは言うまでもないだろう。

           

          今回の結果に対しては、恐らく日本国内でも賛否両論が分かれるだろう。
          そして、「結果が全てだ」と言うような擁護意見が多数を占めるのだろうし、
          報道メディアも肯定的な意見で占められるだろう。
          報道メディアにとっては、どんな形だろうが勝ち進む方が金になるからだ。

           

          「結果が全てだ」等と言う輩の多くは、
          違う場面では、格差をことさら問題視し、弱者救済を訴えるような人種だろう。
          そして、結局はこのような人種が格差や貧困を増長し、弱者を生み出すのである。

           

          日本代表が、文字通り「日本人の代表」だとするなら、
          今回のサッカー日本代表の戦い方は、現代日本人をまさに代表するものだったのかもしれない。

           

          正義や礼節を重んじ、潔さを善しとする日本人の気質は、
          資源もなく異常な程に自然災害が多いこの国を、豊かな先進国に押し上げた原動力だった筈だ。
          諸外国の歴史に数多く見られる大量虐殺も殆どなく、
          長い歴史の殆どが平和であった理由も、
          先祖から受け継いだ日本人の気質が大きく寄与しているだろう。

           

          逆に言うと、今の日本社会の停滞や閉塞感は、
          そういった気質が失われつつあることが大きな原因だ。
          我々日本人は、もっと危機感を持つべきだろう。
          卑怯な戦い方を指示したのは西野監督だが、彼個人の人間性の問題ではない。
          悪質タックルを内田監督は指示したのかもしれないが、これも彼個人の人間性の問題ではない。
          社会全体が、彼らをそうさせているのである。

           

          今のサッカー日本代表は、日本が抱える様々な問題の縮図のように私には見える。

           

          「国会は議論の場」という誤謬

          2018.06.26 Tuesday

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            2018年6月26日現在、日本ではサッカーワールドカップの話題で持ちきりだ。
            一方、6月20日に今国会の7月22日までの会期延長が衆議院本会議で、
            与党の賛成多数で議決した。

             

            少し前までは、あれほどモリカケ問題を騒いでいた報道メディアだが、
            ワールドカップが始まると、あっという間にそんな問題は脇に追いやられる。
            「民主主義の根幹を揺るがす大問題」
            このように大袈裟に言ってはいたが、結局は大した問題では無いと言うことだ。

             

            野党も相変わらずだ。
            あれほど「審議が足りない」「もっと審議を尽くすべきだ」と言いながら、
            会期延長には反対する。
            あまつさえ、野党第一党である立憲民主党の枝野代表は、
            「会期を延長したことを後悔させてやる」等と、記者会見で宣言する始末だ。
            「国民の為に議論を尽くすこと」が仕事の国会議員の発言とは思えないだろう。

             

            果たして、彼ら国会議員達はそんなにレベルの低い人間なのだろうか?
            人間性に問題のある人間なのだろうか?
            もしくは、毎回そんな人間しか選べない程、日本国民は愚かなのだろうか?
            無論、そういった側面もあるだろう。
            だが、一番の問題は「議会のシステムに欠陥がある」事にある。

             

            議員達も、政治の専門家と自称する有識者やジャーナリストも、
            恐らくは殆どの国民も、「国会は議論をする場」と認識しているだろう。
            だが、残念ながらこれは大きな間違いである。
            日本の国会は「議論をする場」などでは決して無く、「儀式の場」に過ぎない。
            そして、これは今に始まった事ではなく、戦後ずっと変わっていない。

             

            だから、どんなに国民が賢くなり優れた政治家を選ぼうとも、
            報道メディアが公正中立な報道をしようとも、結果は今とそう変わらない。
            根本的な政治の仕組みに欠陥があるので、
            議会が「健全な議論の場」になることは永遠に無い。

             

            現在の野党で恐らく最もまともに議論をしようと指向しているのは、
            日本維新の会だが、彼らの存在感は日々小さくなっていく一方であり、
            選挙の都度、獲得議席は減少している。
            野党がまともに議論をしようとすると、日本維新の会のようになってしまうのである。

             

            民主主義国日本として、この国が抱える数々の課題を解決しようとするなら
            今の政治の仕組みに潜む欠陥を修正することが最も重要だ。
            その為には、主権者である国民1人1人が、今の議会の仕組みを理解し、
            何が欠陥であるのかを知る必要がある。
            見えないものは決して改善することはできない。

             

            今回は日本の議会の仕組みについて考える。

             

            「日本人らしさ」は日本経済再生の鍵

            2018.06.20 Wednesday

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              日本経済のピークは1995年だ。
              この年の世界の経済規模(GDP)ランキングでは、日本は世界2位であり、
              その規模は約5.5兆ドル、1位のアメリカは約7.7ドルである。
              対米比で実に7割の経済規模を誇り、
              10年後にはアメリカを追い抜き、基軸通貨はドルから円に変わるだろうとまで言われた。

               

              それから20年、2016年のGDPランキングの日本の順位は第3位に後退し、
              その規模はほぼ変わらず約5.5兆ドルだ。
              1位も変わらずアメリカだが、その規模は約19.5兆ドルと2.5倍に成長しており、
              対米比は、3割に満たなくなってしまった。

               

              日本に変わって2位につけたのが中国で、その規模は11.5兆ドルと、
              こちらは対米比で6割程に迫っている。
              但し、中国の経済統計データは真偽が相当に怪しいものなので、
              実際はここまでの経済規模は無いと思って良いだろう。

               

              なぜ日本は、この20年余り全く経済成長することができなかったのだろうか?
              私はその最も大きな理由は、「改革」にあると考えている。
              1989年から平成が始まり、来年には平成の世は終わりを迎えるが、
              平成と言う時代は改革の時代だった。

               

              政治、企業、教育・・・あらゆる分野で「改革」の必要性が叫ばれ、実行された。
              昭和以前の慣習やルールは、「古い」「合理的ではない」「これからの時代に合わない」
              このように評価され、改革が行われた。


              この流れは現在進行形であり、今の政府が掲げている重要政策は、
              「働き方改革」「人作り革命」だ。

               

              平成の30年間で繰り返された改革は全て失敗しており、
              間違いなく、「働き方改革」も「人作り革命」も失敗に終わるだろう。
              それだけでなく、後世に大きな課題を残すことになる。
              これも平成の改革の歴史が証明している。

               

              例えば、「正規雇用」と「非正規雇用」の格差は、現在日本の大きな課題の1つだが、
              この原因を作ったのは小泉内閣が進めた「聖域無き構造改革」の結果である。
              そもそも小泉政権以前、日本では原則「派遣社員」は認められておらず、
              システムエンジニアなど、特殊な専門技能職のみ派遣社員は認められていた。
              そして、そんな例外的に認められていた派遣社員は、
              正社員よりも恵まれた待遇を受けていたのである。

               

              それをほぼ全ての職種に広げたのが、小泉政権が推進した構造改革だ。
              こんな改革をしなければ、「非正規と正規の格差問題」などという問題自体が存在しなかったわけだ。

               

              これら改革が全て失敗に終わった理由は、
              「日本らしさの喪失」では無いだろうか?
              合理的・進歩的な行動が最良であると盲目的に信じ、
              文化や伝統を無視し、ロジカルに説明できる事こそが真理であり、
              「上手くマニュアルにできないものはどうせロクでもないに決まっている。
              だから捨ててしまうべきだ」
              そんな発想で進められたのが、平成の改革の正体だ。

               

              社会が円滑に機能するうえで、人々が暗黙のうちに持っている知恵や約束事、
              あるいは慣行は重要な役割を果たす。
              これこそ文化や伝統の力の中核だ。

               

              我が国は世界最長の歴史を有している国家であり、
              先人達の膨大な知恵の積み重ね、つまり強力な文化・伝統の力があった。
              それを無視して、非合理的であるとか、定式化・定量化できないとか、
              酷いときは「欧米で学んだ理論と違うから」と言った理由で、
              ドンドン切り捨てていく。

               

              その結果、「日本らしさ」は喪失し、市場における立ち位置を失った。
              マーケティングの世界では、「市場での立ち位置」とは「ポジショニング戦略」と呼ばれる。
              ポジショニング戦略とは、ごく簡単に言うと「競争をしないで勝つ」とも言える。
              自分たちにだけが持つ独自の役割を持ち、「他に替えられない存在」になれれば、
              競争などは最初から起きない。

               

              日本人の国民性はそもそも競争が苦手だから、
              「ポジショニング戦略」は、日本の経済成長の為には重要な要素だ。
              しかし、独自の立ち位置を確立することは、“一般的には”難しい。
              が、幸せな事に我が国は世界最長の歴史が育んだ、独自の文化・伝統が存在する。
              我々、日本人はそれを大切にし、改良を加える事で、
              確固たる日本の立ち位置は自然にできるのだ。

               

              「改革の流れを断ち切り、日本の文化・伝統に立ち返る」
              これこそが、日本経済再生の鍵である。
              平成の約30年間、我々は誤った道を歩み続けてきた、
              だが、日本人が持っている独自性は、30年程度で失われるものではなく、
              まだまだ、我々のDNAレベルで息づいてる。
              今回は、そんな先人達が残してくれた、貴重な遺産について考えて見たい。

               

              若い才能をもてあそぶ国民栄誉賞

              2018.06.04 Monday

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                平昌オリンピックで2大会連続の金メダルを獲得した、
                男子フィギュアスケートの羽生結弦選手に国民栄誉賞が贈られる事が決まった。

                 

                彼の成した偉業は同じ日本人として誇らしく思うし、賞賛に値する大変な偉業だ。
                それでも、私は彼に国民栄誉賞を与える事には大反対だ。
                このような受賞は、国民栄誉賞という賞の価値を無価値にするだけでなく、
                まだ23歳の若者の将来を考えても悪影響でしかない。

                 

                安倍政権が始まってから、国民栄誉賞の乱発が横行している。
                国民栄誉賞の第一号は1977年の王貞治氏だが、
                王貞治氏が受賞してから2012年までの受賞者は20人と1団体だ。
                これが第二次安倍政権始まってからは、既に6人が受賞しており、
                今回の羽生選手の受賞が7人目と言うことになる。
                つまり、全受賞者の約35%が直近6年に集中しているという事を意味する。

                 

                国民栄誉賞の表彰の仕方を定めた国民栄誉賞表彰規程実施要領では表彰の候補者について、
                「民間有識者の意見を聞く」と定めており、
                首相の要望だけでは決められない仕組みにはなっているが、
                安倍総理の意向が強く働いている事は間違いなく、
                政権の人気取りに利用されている可能性が大変高い。

                 

                ただ、政治家が国民栄誉賞を旬の有名人に与える事で、
                国民の人気を獲得できるなら、
                国民栄誉賞は「世論の動向」に大きく左右されるという事も意味している。

                だから、普段あれだけ何でも反対する野党も、

                国民栄誉賞の受賞には全く反対しない。

                 

                そして、2000年以降の日本社会は、誰かに望ましい行動をとらせるためには、
                「ムチよりもアメ」、つまり褒め言葉であれ、お金であれ、
                何かしらの報酬を与える事を最善と考える風潮が蔓延している。
                近年の国民栄誉賞の乱発は、こういった風潮を強く反映しているとも考えられる。

                 

                確かに、短期的には「ムチよりもアメ」は効果があるだろう。
                しかし、少なくともそれ自体が楽しい活動では、
                報酬を与えられると、人はその活動に興味を失い、報酬を打ち切られた途端、やらなくなる。
                この事を経験的に分かっていたから、
                これまでの国民栄誉賞の受賞者の殆どは、現役引退後の受賞だったのではないだろうか?
                それどころか、美空ひばりに代表されるように、死後に受賞した者も少なくない。
                またプロ野球選手のイチローは、現役中ということを理由に辞退をしている。

                 

                近年の受賞者は、「現役」の者が多い。
                レスリングの吉田沙保里、伊調馨。将棋の羽生善治、囲碁の井山裕太。
                個人では無いが、サッカーワールドカップを制した2011年日本女子代表チーム。
                彼ら、彼女らは今も現役だ。

                 

                そして、国民栄誉賞の受賞後に成績を落としている傾向が見て取れる。
                吉田沙保里選手は、国民栄誉賞を2012年に受賞したが、
                受賞後のオリンピックでは銀メダルに終わっている。
                サッカー日本女子代表も、受賞した後のワールドカップで準優勝に終わっており、
                その後の国際大会でも成績は下降線だ。

                 

                こういった事を考えると、23歳の羽生結弦選手に賞を与えることは、
                彼の将来にとってマイナスになるリスクが高いだろう。
                フィギュアスケーターとしては世界最高の選手であったとしても、
                彼はまだ23歳であり、人生経験の乏しい普通の若者だ。
                イチローのように辞退しない事が、その事を現しており、
                そのリスクに全く気がついていないのだろう。

                 

                今回は、羽生選手の国民栄誉賞受賞にどんな意味があるのかを考えてみたい。


                 

                日本に蔓延する正義病

                2018.06.02 Saturday

                0

                  現代日本は「正義」と言う名の病が蔓延している。
                  そして、多くの日本人は自分がその病に冒されている事に気が付いていない。

                   

                  自らを正義の執行者と錯覚し、「悪党には生きる資格がない」とばかりに
                  どんな微罪であったとしても過大な制裁を加えようとする。
                  更に相手が少しでも抵抗すると、制裁はより激しいものとなり、
                  あらゆる制裁は「正義」の下、正当化してしまう。

                   

                  これが、この病に冒された者が発症する症状だ。
                  5月の末からTVを中心とした報道メディアが最も時間を割いて伝えている、
                  日大アメフト部が起こした悪質タックル問題は、この病の典型的な症状だ。

                   

                  実際に悪質なタックルを行った選手は、むしろ「可哀想な被害者」とし、
                  監督やコーチが指示したと一方的に断じ、制裁を加えている。
                  監督とコーチは関東アメフト連盟から除名、事実上の永久追放を受け、
                  今後、大学でアメフトに拘わる事は不可能となった。
                  これでもまだ足りないのか、矛先は日大の理事長に向いているのが現状だ。

                   

                  少し前には、大相撲で起こった暴行事件が話題に挙がったが、
                  この時も正義と言う名の病に冒された患者達が、連日過剰な制裁を加え続けた。
                  その結果、横綱日馬富士は引退に追い込まれてしまう。
                  彼が日本に帰化し、自分の相撲部屋を立ち上げる事はほぼ不可能になった。

                   

                  政治家や役人のセクハラ、アイドルのわいせつ行為、芸能人の不倫・・・
                  何か問題が起こる都度、病に冒された患者達が群がり過剰な制裁を加える。
                  善悪を判断し、悪に制裁を加えること“だけ”が目的なので、
                  問題や事件が起きた背景や構造は軽視される。
                  結果、実際には問題は何も解決せず、時が経てば同じ様な問題が起こる。
                  社会は萎縮し、本当の悪はより闇に紛れ陰湿化するという結果しか残らないのである。

                   

                  日本に蔓延している正義病が更に厄介なのは、「善悪が数で決まる」事である。
                  これは本当に恐ろしい事なのだが、多くの人はその恐ろしさを理解していない。
                  同じ事をしても、問題を起こした人物やその場の空気で

                  善悪の判断が時に180度変わるのである。

                   

                  ここ数年、多くの芸能人が不倫で糾弾され大きな制裁を受けたが、
                  小室哲哉には何故か同情的意見が多く、むしろ報道した側が糾弾された。
                  ビートたけしに至っては、愛人の存在が公然の秘密として認められており、
                  TVでコメンテーターが「たけしさんだから良い」と公言する始末だ。
                  こんな事がまかり通る社会に正義などない。
                  正義を振りかざす者達は、実は正義の破壊者でしか無いということだ。
                  近年、話題になった問題や事件を通じて、正義病について考えてみたい。

                   

                  人はなぜ愚かなのか?6:正しさとはどのように証明するのか

                  2018.05.28 Monday

                  0

                    人はいったんこうと思い込むと、明白な反証を突きつけられても、
                    なかなか自分の考えを変えようとはしない。
                    証拠を無視して、自分の考えに固執する。

                     

                    証拠を証拠と認めようとしないと言うような事も頻繁に行うし、
                    自分に都合の良いように証拠をねじ曲げて解釈する事すら珍しくない。
                    これは「人間の思考の癖」と言って良いものであり、
                    人類は歴史上、この思考の癖により何度も大きな間違いを繰り返している。

                     

                    「モリカケ問題」が、一年以上経っても疑惑として騒がれている理由も、
                    この「人間の思考の癖」が大きく影響していると言える。
                    安倍総理や政府の関与が無い事を否定する証拠は数多く出されているが、
                    多くの人々は、「関与を否定する証拠」と認めようとしない。
                    それどころか、「関与を裏付ける証拠」として解釈しようとしている。

                     

                    自分の考えに固執するのは、非を認めたく無いからかも知れない。
                    自分の非を認めることは、例え自分に対してであっても、
                    抵抗が大きいものだ。
                    特に政治家は、非を認めるくらいなら、どんな苦しい説明だろうと、
                    何とか理屈をつけて自分の考えを押し通す方が良いと思っているように見える。
                    日本の野党政治家はこう言った理屈を付ける能力に関しては天才的だ。

                     

                    一方で、人が自分の考えにしがみつくのは面目を保つためだけではない。
                    面子や自尊心が絡んでいない場合でも、
                    人はいったんこうと思い込むと、
                    その思い込みに反する証拠を避けるために多大な労力を費やし、
                    そうした証拠を突きつけられても、それに目をつむろうとする。

                     

                    大企業では、「マーケティング」という名目で多額の費用を費やし、
                    様々な調査を行っているが、調査結果を素直に受け止め活用するケースは稀だ。
                    調査結果が、企業側の意思決定者の考えを肯定するものなら、
                    調査結果やその調査を行ったコンサルタントを賞賛し受け入れるが、
                    考えと異なる結果が出た場合は、何かと理由をつけて受け入れようとしない。
                    そして、最終的な報告書の内容を都合の良い結果に書き直すようなことすら暗に要求する。
                    結局のところ、「マーケティング調査」など最初から必要なかったのである。

                     

                    現代はインターネットにより多種多様な情報を何処にいても入手することができる。
                    示された仮説を検証することは、一昔前に比べて遙かに容易になった。
                    本来ならより正しい結論を導き出せる可能性は向上している筈だ。
                    にも拘わらず現実はその逆になっていると言って良いだろう。

                     

                    手にする膨大な情報は「仮説の検証」に使われることはなく、
                    「自分の思い込みの強化」に使われることが殆どなのである。
                    「大量の情報から検証した」と言う想いは、
                    自分の考えが正しいと言う想いをより強固にする。

                     

                    ネット上では、今この瞬間にも様々なテーマについて、
                    個人が自由に意見を述べ、議論が行われている。
                    だが、そうした議論を通じて、何らかの合意が得られる事は稀であり、
                    殆どの場合、最後は喧嘩のような状態になることが珍しくない。

                    個々の思い込みが強化されるだけで、決して自分の考えが変わる事は無く、

                    他者の考えを認めることは「負け」と認識されるからだ。

                     

                    人が誰しも持つ「人間の思考の癖」を知り自覚しない限り、
                    「情報化社会」とは、「人をより愚かにする社会」になりかねないのではないだろうか?

                     

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